エフタル
エフタル︵英: Hephthalite、パシュトー語: هپتالیان︶は、5世紀から6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家である。名称は史料によって異なり、インドではフーナ (Hūna),シュヴェータ・フーナ ︵白いフン︶、サーサーン朝ではスペード・フヨーン︵白いフン︶、ヘテル (Hetel)、ヘプタル (Heptal)、東ローマ帝国ではエフタリテス (Ephtalites)、アラブではハイタール (Haital)、アルメニアではヘプタル (Hephtal),イダル (Idal),テダル (Thedal) と呼ばれ[1]、中国史書では嚈噠[2]︵ようたつ[注釈 1]、Yàndā︶,囐噠︵ようたつ、Yàndā︶[3],挹怛︵ゆうたつ、Yìdá︶[4],挹闐︵ゆうてん、Yìtián︶[5]などと表記される。また、﹁白いフン﹂に対応する白匈奴の名でも表記される。
エフタルの最大版図︵520年頃︶
5世紀、エフタルと周辺国。Khanate of the Juan -Juan=柔然、Yuehban=悦般、Hepthalite Khanate=エフタル、Sassanid Persian Empire=サーサーン朝
6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。
しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。
インド=エフタル ナプキ・マルカ(Napki Malka)王︵ア フガニスタン/ガンダーラ、c.475-576︶の貨幣用合金ドラクマ。
中国の史書の﹃魏書﹄列伝第九十︵西域伝︶には、嚈噠︵エフタル︶国の習俗などについて、次のとおり記す。
習俗は突厥とほぼ同じ。兄弟は1人の妻を共有する。兄弟の無い夫は、妻に突起が1つ付いた帽子を被らせ、もし兄弟がいる場合には兄弟の数により、突起の数を増やさせる。衣服には、瓔珞を付ける。頭部は皆、髪を刈る。その言語は、蠕蠕︵柔然︶とも高車とも多くの胡族とも異なる。人口は10万人程度であり、城邑は無い。水と草を追って移動し、フェルトを用いて家をつくる。夏は、涼しい土地に移動し、冬は温暖な処に移動する。何人かの妻を各々分けて住まわせており、互いに200から300里離れている。 — ﹃魏書﹄列伝第九十︵西域伝︶
プロコピオスの﹃戦史﹄では、フンの一派であるが遊牧民ではなく、生活様式も同族のものとは似ていない、としている。
概要[編集]
5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力︵キダーラ朝︶を滅ぼしてトハリスタン︵バクトリア︶、ガンダーラを支配下に置いた。これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし︵貨幣学においてこの集団は﹁アルハン﹂(Alkhan)と呼ばれる[6]︶、その衰亡の原因をつくった。名称[編集]
﹃新唐書﹄西域伝下において、﹁もともと嚈噠︵ようたつ︶とは王姓であり、嚈噠の後裔がその姓をもって国名としたため、のちに訛って挹怛︵ゆうたつ︶となった﹂とあり[7]、エフタルの語源はその王姓が元となったという。 また、インド︵グプタ朝︶やペルシア︵サーサーン朝︶ではシュヴェータ・フーナ、スペード・フヨーンなど、“白いフン”を意味する呼び名で呼んでいた。 近年、貨幣学においては、これまでひとくくりにエフタルとされてきた集団を、﹁アルハンAlkhan﹂と﹁︵正統︶エフタル (Genuine) Hephthalites﹂に分けて考えるべきであることが主張されている[8]。歴史[編集]
起源[編集]
エフタルの起源は東西の史料で少々異なり、中国史書では﹁金山︵アルタイ山脈︶から南下してきた﹂とし、西方史料の初見はトハリスタン征服であり﹁バダクシャン︵パミール高原とヒンドゥークシュ山脈の間︶にいた遊牧民﹂としている[9]。中央アジア・インドを支配[編集]
410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入︵彼らはインド・エフタルとして知られるようになる︶。 425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、バハラーム5世︵在位‥420年 - 438年︶により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。 アルハン︵インドの史料では﹁フーナ hūna﹂︶はクマーラグプタ1世︵在位: 415年頃 - 455年︶のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。また、次のスカンダグプタの治世︵435年–467年もしくは455年–456年/457年︶にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。 サーサーン朝のペーローズ1世︵在位: 459年–484年︶はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル︵アフシュワン︶に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させた[10]。 エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えた[11]。 ブダグプタ︵在位‥476年頃 - 495年頃︶の時代、アルハンの大王トラマーナ(Toramāṇe)がエーランを中心に﹁王の中の王﹂を名乗り、グプタ朝に侵入した[12]。 508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた[13]。 515年、トラマーナがプラカーシャダルマンに敗れる[14]。 皇帝の称号を持って地上を支配したフーナ大王トラマーナ (Toramāṇa) をプラカーシャダルマン (Prakāsyadharman) が戦場で打ち砕き…︵省略︶ — リースタル (Rīsthal) 碑文 516年、高車王の弥俄突が柔然可汗の醜奴︵在位: 508年–520年︶に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた[15]。 ガンダーラ・北インドを支配したアルハンでは、トラマーナの子ミヒラクラ︵Mihirakula、在位512年–528年頃︶の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた[16]︵インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照︶。 520年、北魏の官吏である宋雲と沙門の恵生は、インドへ入る前にバダフシャン付近でエフタル王に謁見した[17]。 523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された[18]。 北魏の太安年間︵455年 - 459年︶からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光︵520年 - 525年︶の末にも師子を貢納し、永熙年間︵532年 - 534年︶までそれが続けられた[19]。 533年頃、マールワー王ヤショーダルマンがアルハン王ミヒラクラを破る。ミヒラクラはカシミールに逃亡した。 546年と552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した[20]。衰退と滅亡[編集]
558年、エフタルは北周に遣使を送って朝献した。この年、突厥の西方を治める室点蜜︵イステミ︶がサーサーン朝のホスロー1世︵在位‥531年 - 579年︶と協同でエフタルに攻撃を仕掛け︵ブハラの戦い︶、徹底的な打撃を与えた。これによってエフタルはシャシュ︵石国︶、フェルガナ︵破洛那国︶、サマルカンド︵康国︶、キシュ︵史国︶を突厥に奪われてしまう[21]。 567年頃までに室点蜜はエフタルを滅ぼし、残りのブハラ︵安国︶、ウラチューブ︵曹国︶、マイマルグ︵米国︶、クーシャーニイク︵何国︶、カリズム︵火尋国︶、ベティク︵戊地国︶を占領した[22]。 隋の大業年間︵605年 - 618年︶にエフタルは中国に遣使を送って方物を貢納した。 エフタル国家の滅亡後も、エフタルと呼ばれる人々が存続し、588年の第一次ペルソ・テュルク戦争や619年の第二次ペルソ・テュルク戦争に参戦していたが、8世紀ごろまでに他民族に飲み込まれて消滅した[注釈 2]。政治体制[編集]
中国の史書の﹃魏書﹄列伝第九十︵西域伝︶には、嚈噠︵エフタル︶国の政治体制などについて、次のとおり記す。 嚈噠︵エフタル︶国は大月氏の種族であるが、また、高車の別種であるとも言われ、その起源は塞北にある。金山より南方、于闐︵ホータン︶国の西方にあり、馬許水を都とし南200余里、長安を去ること10,100里である。その王は抜底延城︵バルフ︶を都としており、蓋し、王舎城である。城市は10余里四方で、寺塔が多く、みな金で装飾している。・・・王は領国内を巡回し、月ごとに居処を替えるが、冬の寒冷な時期には、3箇月間移動しない。王位は必ずしも子に引き継がれる訳ではなく、子弟でその任務をこなせる者がいれば、︵王の︶死後に王位を継承する。・・・性格は兇悍で、戦闘を能く行う。西域の、康居・于闐・沙勒・安息及び諸々の小国30国ほどが、皆、嚈噠国に従属しており、大国と言っている。 — ﹃魏書﹄列伝第九十︵西域伝︶王・王妃の姿[編集]
中国北魏からエフタルに使節として旅行し、北魏孝明帝の神亀2年︵519年︶10月上旬にエフタル国に入国し、その後、国王に会見した宋雲がまとめた記録﹃宋雲行紀﹄の第2章には、エフタル王やエフタル王妃の姿を、次のとおり記す。 (エフタル)王は40歩四方の大きな毛織のテントに居り、まわりはフェルトを壁面として張りめぐらしている。王は錦衣をつけ、4つの金の鳳凰をかたどった(牀)脚をつけた金の椅子に座っていた。(王は)大魏の使人に会うと、再拝し跪いて詔書を受け取った。(宴)会を開くにあたっては、1人が唱えればすなわち宴会が開かれ、のちに唱えればすなわち宴会は終わる。ただこのやり方が行われるだけで、音楽は見られない。エフタル国の王妃もまた長さ8尺余りの錦衣をつけ、3尺も地に垂らし、従者に捧げ持たせている。頭には一角で長さ3尺の頭帯をつけ、赤色珠、五色珠でその上を装飾している。王妃が外出するには輿を用い、室内に入れば黄金製の椅子に座っている。その椅子には六牙の白象と4匹の獅子がかたどられている。その他の大臣の妻はみな(お付きとして)随っている。(王妃の椅子の)傘の頭にも角のようなものをつけ、まんまるく垂れ下がっていて、その形状は宝蓋のようである。(人々の)貴賤を見るには、また(各々異なった)服章がある。 — ﹃宋雲行紀﹄習俗[編集]
言語系統[編集]
中国史書では﹁大月氏の同種もしくは高車︵テュルク系︶の別種[23]で、習俗は吐火羅と同じくする[24]﹂と記し、また﹁元々の出自を車師または高車または大月氏の同種﹂とも記す、加えて﹁言語は蠕蠕︵東胡系︶、高車及び諸胡︵テュルク系︶と異なる﹂と記しており[25]、研究者の見解も様々ある。 ●イラン系説…榎一雄は﹁トハリスタンのある地方から出たイラン系の民族ではないか﹂としており、R・ギルシュマンもエフタルコインを分析して﹁その言語は東イラン語ではないか﹂としている。 ●テュルク系説…ヴィレム・フォーヘルサングは﹁エフタルは本来アルタイ語を話す民族であるが、少なくとも上流階級は占領地のバクトリア語を使用したのではないか﹂としている[26]。エフタル≠嚈噠説[編集]
中国の王徳龍によると﹁漢籍の嚈噠は学者たちから言われている西方史料のHephthalitesではなく、この二つの種族はまったく違うものである。西方史料のHephthalitesは中国古代史書﹃魏書﹄中の大月氏寄多羅︵キダーラ朝︶の後代であり、なおかつ﹃魏書﹄中の大・小月氏は漢代の小月氏の後代である。﹃魏書﹄中の大・小月氏は約4世紀末か5世紀の初期に中央アジアに南下した。Hephthalitesは文字を持ち、なおかつ仏教を信仰する種族である﹂とし、エフタルと嚈噠が異なる民族であると説いている[27]。アルハン・フーナの諸王[編集]
以下はノルウェーの実業家マーティン・スコイエン (Schøyen) が収集する一枚の銅板銘文 (Copper scroll inscription) によるもの。銘文での彼らの称号は大王(mahāṣāhi)とある。トラマーナのみは天王 (devarāja)とある。 [28] ●ヒーンギーラ(khīṅgīla) ●トラマーナ(Toramāṇe) ●ミヒラクラ・・・トラマーナの子 ●メハマ(mehama) ●ジャヴーカ(javūkha)・・・サーダヴィーカ (sādavīkha)の子 ドイツの研究者G.メルツァー(Gudrun Melzer)はヒーンギーラ、メハマ、ジャヴゥーカ、トラマーナ (Khīṅgīla, Mehama, Javūkha, Toramāna) の4人のアルハン・フン王が地域を分けて同時に統治し、そのうち少なくともメハマ王の支配の範囲がヒンドゥークシュ山脈の北側にまでひろがっていたとする。 [29]脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ﹃民族の世界史4中央ユーラシアの世界﹄p87
(二)^ ﹃魏書﹄、﹃北史﹄、﹃新唐書﹄︵嚈は口偏に厭、噠は口偏に達︶
(三)^ ﹃周書﹄
(四)^ ﹃隋書﹄、﹃新唐書﹄
(五)^ ﹃新唐書﹄
(六)^ 宮本亮一︵AA研共同研究員,京都大学︶﹁クシャーンからエフタルへ‥中央アジアから南アジアへの人間集団の移動﹂
(七)^ ﹃新唐書﹄列伝第一百四十六下 西域下﹁嚈噠,王姓也,後裔以姓為國,訛為挹怛,亦曰挹闐。﹂
(八)^ 影山悦子﹁ユーラシア東部における佩刀方法の変化について :エフタルの中央アジア支配の影響﹂ℙ31
(九)^ 岩村 2007,p118
(十)^ B・ガフーロフ( Bobojon G. Gafurov)﹃タジク人 (Tadzhiki)﹄︵モスクワ、1972年︶。
(11)^ ﹃魏書﹄列伝第九十一高車、﹃北史﹄列伝第八十六高車
(12)^ 山田 1964 p625-626
(13)^ ﹃魏書﹄列伝第九十一高車、﹃北史﹄列伝第八十六高車
(14)^ 小谷 2019 p8
(15)^ ﹃魏書﹄列伝第九十一高車、﹃北史﹄列伝第八十六高車
(16)^ ﹃洛陽伽藍記﹄
(17)^ ﹃宋雲行記﹄
(18)^ ﹃魏書﹄列伝第九十一蠕蠕、﹃北史﹄列伝第八十六蠕蠕
(19)^ ﹃魏書﹄紀第五、第八、第九、﹃北史﹄紀第二、第四、第五、上第九
(20)^ ﹃魏書﹄紀第五、第八、第九、﹃北史﹄紀第二、第四、第五、上第九
(21)^ 内田 1975
(22)^ 内田 1975
(23)^ ﹃魏書﹄列伝90、﹃新唐書﹄列伝146下など
(24)^ ﹃通典﹄辺防9
(25)^ ﹃魏書﹄列伝九十、﹃通典﹄辺防9
(26)^ ヴィレム・フォーヘルサング﹃アフガニスタンの歴史と文化﹄
(27)^ 王徳龍︽﹃魏書﹄の月氏と嚈噠とエフタルについて︾︵別府大学史学研究会︽史学論叢︾第三十二号︶ 王徳龍︽Hephthalites是嚈噠?︾,︽史学月刊︾2007年増刊
(28)^ 小谷 2019 p2
(29)^ 小谷 2019 p5
参考資料[編集]
- 『魏書』(列伝第九十 西域、列伝第九十一)
- 『周書』(列伝第四十二 異域下)
- 『隋書』(列伝第四十八 西域、列伝第四十九 北狄)
- 『北史』(列伝第八十五 西域)
- 『旧唐書』(列伝第百四十四下)
- 『新唐書』(列伝百四十上 西突厥、列伝第一百四十六下 西域伝下)
- 内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(1975年、同朋舎出版)
- 護雅夫・岡田英弘編『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』(1996年、山川出版社)、ISBN 463-4440407
- 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』(2007年、講談社学術文庫)、ISBN 406-1598031
- ヴィレム・フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』(2005年、前田耕作・山内和也監訳、明石書店)、ISBN 475-0320706
- 宮本亮一(AA研共同研究員,京都大学)「クシャーンからエフタルへ:中央アジアから南アジアへの人間集団の移動」
- 影山悦子『ユーラシア東部における佩刀方法の変化について :エフタルの中央アジア支配の影響』(内陸アジア言語の研究. 2015, 30, p. 29-47)
- 山田明爾『後期グブタ朝の分裂について』(1964年 )
- 小谷仲男「世紀における西北インドのフーナ族」(ヘレニズム〜イスラーム考古学研究 2019)