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「大宛」の版間の差分

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[[ファイル:Western Regions in The 1st century BC (ja).png|thumb|400px|[[紀元前1世紀]]の西域諸国。]]

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=== 張騫の西域訪問 ===

=== 張騫の西域訪問 ===


[[]][[ ()|]][[]][[]]使[[]][[]]使[[]]100[[西|西]]10西

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大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の[[康居]]まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である[[大月氏]]まで送ってやった。

大宛は以前から漢と通商したいと望んでいたので、王は事情を聞き、とりあえず張騫たちを隣国の[[康居]]まで道案内をつけて送ってやった。そしてその康居も、張騫たちを目的地である[[大月氏]]まで送ってやった。



ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。1年後、張騫たちは[[シルクロード#シルクロードの起点と終点|西域南道]]を通って帰ったが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留された。張騫たちは匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年ぶりに漢に帰国した。出発時にいた100人余りの使者は、張騫と堂邑の甘父の二人だけとなった。2人はそれぞれ[[太中大夫]]奉使君にとりたてられた<ref>『史記』大宛列伝</ref>。

ようやく大月氏に着いた張騫たちは、漢とともに匈奴を挟撃してもらう旨を伝えたが、すでに大月氏には匈奴を討つ必要性がなくなっていたので、はっきりした返答がもらえなかった。1年後、張騫たちは[[シルクロード#シルクロードの起点と終点|西域南道]]を通って帰ったが、またも匈奴に捕まってしまい、1年あまり抑留された。張騫たちは匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年ぶりに漢に帰国した。出発時にいた100人余りの使者は、張騫と堂邑の甘父の二人だけとなった。2人はそれぞれ[[太中大夫]]奉使君にとりたてられた<ref>『史記』大宛列伝</ref>。



=== 2度の大宛討伐 ===

=== 2度の大宛討伐 ===

やがて漢と大宛が国交を結び、武帝は大宛の[[汗血馬]]を愛好するようになった。武帝はある時、汗血馬が大宛の弐師城におかれていることを知ると、ほしくなったので、千金と金製の馬を持たせた使者を大宛に送り、千金と金製の馬で汗血馬を買おうとした。しかし、大宛は漢の足元を見て断ったため、武帝は怒り、[[李広利]]を弐師将軍に任命し、[[太初 (漢)|太初]]元年([[紀元前104年|前104年]])、大宛討伐を行った。しかし、[[蝗害]]と[[飢餓]]で一つの城も落とすことができず、[[敦煌]]まで撤退した。これについて李広利は兵力が不十分だったので、もう一度遠征軍を出すことを請うたが、武帝は激怒し、李広利らを入国させなかった。


[[]]使[[]][[ ()|]][[104|104]][[]][[]][[|]]退


しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年([[紀元前102年|前102年]])、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。

しかし、武帝は大宛討伐を諦めることができなかったので、太初3年([[紀元前102年|前102年]])、一度目の遠征軍以上の軍備を整え、これ以上ないほどの大軍で、再び大宛討伐の遠征軍を編成し、李広利に託した。

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[[西]][[ ()|]]6[[285]][[]]使[[]][[]][[]]

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大宛の名は[[西晋]]まで見られるが、以後はフェルガナの音訳である「破洛那」などが用いられるようになった<ref>『晋書』四夷伝</ref>。

大宛の名は[[西晋]]まで見られるが、以後はフェルガナの音訳である「破洛那」などが用いられるようになった<ref>『晋書』四夷伝</ref>。



=== 南北朝時代 ===

=== 南北朝時代 ===

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[[567年]]頃、エフタルは[[突厥]]の[[室点蜜]](イステミ)と[[サーサーン朝]]の挟撃にあって崩壊し、フェルガナは突厥の支配下に入る。

[[567年]]頃、エフタルは[[突厥]]の[[室点蜜]](イステミ)と[[サーサーン朝]]の挟撃にあって崩壊し、フェルガナは突厥の支配下に入る。



『[[北史]]』や『[[隋書]]』に「'''鏺汗国'''、古の渠搜国なり、王姓は昭武、字は阿利柒」とあるが、『[[新唐書]]』に「寧遠国とは、もとの汗那で、或いは鏺汗と言い、北魏時は破洛那と言った」とあるので、これもフェルガナの転写だと思われる。鏺汗国は[[大業]]中([[605年]] - [[618年]])、[[隋]]に遣使を送って朝貢した<ref>『魏書』西域伝</ref><ref>『北史』西域伝</ref>。

『[[北史]]』や『[[隋書]]』に「'''鏺汗国'''、古の渠搜国なり、王姓は昭武、字は阿利柒」とあるが、『[[新唐書]]』に「寧遠国とは、もとの汗那で、或いは鏺汗と言い、北魏時は破洛那と言った」とあるので、これもフェルガナの転写だと思われる。鏺汗国は[[大業]]中([[605年]] - [[618年]])、[[隋]]に遣使を送って朝貢した<ref>『魏書』西域伝</ref><ref>『北史』西域伝</ref>。




===唐代===

===唐代===

[[唐]]代は'''汗那国'''と呼ばれ、[[西突厥]]の支配下にあった。

[[唐]]代は'''汗那国'''と呼ばれ、[[西突厥]]の支配下にあった。




[[ ()|]][[627]] - [[649]]西

[[ ()|]][[627]] - [[649]]西


[[顕慶]]([[656年]] - [[661年]])の初め、遏波之が遣使を送って唐に朝貢したので、[[高宗 (唐)|高宗]]は厚く慰諭してやった。

[[顕慶]]([[656年]] - [[661年]])の初め、遏波之が遣使を送って唐に朝貢したので、[[高宗 (唐)|高宗]]は厚く慰諭してやった。



顕慶3年([[658年]])、唐は渇塞城を[[休循州都督]]とし、阿了参にその[[刺史]]を任せた。

顕慶3年([[658年]])、唐は渇塞城を[[休循州]]都督とし、阿了参にその[[刺史]]を任せた。




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[[天宝 (唐)|天宝]]3載([[744年]])、唐は汗那国を'''寧遠国'''と改名し、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は唐の外家姓である竇氏を賜い、宗室の娘を和義公主に封じて寧遠王に降嫁した。

[[天宝 (唐)|天宝]]3載([[744年]])、唐は汗那国を'''寧遠国'''と改名し、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は唐の外家姓である竇氏を賜い、宗室の娘を和義公主に封じて寧遠王に降嫁した。



天宝13載([[754年]])、寧遠王の竇忠節は子の竇薛裕を遣わして唐に入朝し、宿衛に駐留することを請願したので、左武衛将軍を授けられた。

天宝13載([[754年]])、寧遠王の竇忠節は子の竇薛裕を遣わして唐に入朝し、宿衛に駐留することを請願したので、左武衛将軍を授けられた。



また、『[[大唐西域記]]』や『新唐書』には'''㤄捍国'''{{Efn|name="futsu"}}という国名が記載されており、これもフェルガナの転写だと思われるが、『新唐書』で寧遠国と併記されているので寧遠国とは違うようである<ref>『旧唐書』西戎伝</ref><ref>『新唐書』突厥下、西域伝下</ref>。

また、『[[大唐西域記]]』や『新唐書』には'''㤄捍国'''{{Efn|name="futsu"}}という国名が記載されており、これもフェルガナの転写だと思われるが、『新唐書』で寧遠国と併記されているので寧遠国とは違うようである<ref>『旧唐書』西戎伝</ref><ref>『新唐書』突厥下、西域伝下</ref>。




== 習俗 ==

== 習俗 ==

大宛は貴山城を治とする王によって統治され、人々は城郭に住み、支配下の[[オアシス]]は70余、戸数6万、人口30万を擁した。土着の農耕民族で、[[ウマ|馬]]や[[ワイン]]を特産としていた。従って、武帝が大宛の名馬[[汗血馬]]を入手するため[[李広利]]の遠征軍を派遣し、大宛はこれに敗れたため、一旦、漢の影響下に入った<ref>『史記』大宛列伝</ref>。

大宛は貴山城を治とする王によって統治され、人々は城郭に住み、支配下の[[オアシス]]は70余、戸数6万、人口30万を擁した。土着の農耕民族で、[[ウマ|馬]]や[[ワイン]]を特産としていた。従って、武帝が大宛の名馬[[汗血馬]]を入手するため[[李広利]]の遠征軍を派遣し、大宛はこれに敗れたため、一旦、漢の影響下に入った<ref>『史記』大宛列伝</ref>。




== 地理 ==

== 地理 ==

大宛国があった場所は、現在の[[ウズベキスタン共和国]]の[[フェルガナ盆地]]([[フェルガナ州]][[ナマンガン州]][[アンディジャン州]])にあたるとされている。当時は北西に[[康居]]、西に[[大月氏]]、西南に[[大夏]]、東に[[拘弥]]于窴([[于闐]]),[[疏勒]]などの[[西域]]36国([[タリム盆地]])、東北に[[烏孫]]があった。また、漢の武帝が大宛遠征をした弐師城は、現在の[[キルギス共和国]][[オシ]](フェルガナ盆地の東南)に比定されている{{Efn|19世紀の終わりごろからヨーロッパの東洋学者たちを中心に、「弐師」をギリシア史料のいう「ニサ」に比定する説が広まったが、現在では反対説が存在する{{Sfn|岩村|2007|p=87}}。}}。

大宛国があった場所は、現在の[[ウズベキスタン共和国]]の[[フェルガナ盆地]]([[フェルガナ州]][[ナマンガン州]][[アンディジャン州]])にあたるとされている。当時は北西に[[康居]]、西に[[大月氏]]、西南に[[大夏]]、東に[[拘弥]]于窴([[于闐]])・[[疏勒]]などの[[西域]]36国([[タリム盆地]])、東北に[[烏孫]]があった。また、漢の武帝が大宛遠征をした弐師城は、現在の[[キルギス共和国]][[オシ]](フェルガナ盆地の東南)に比定されている{{Efn|19世紀の終わりごろからヨーロッパの東洋学者たちを中心に、「弐師」をギリシア史料のいう「ニサ」に比定する説が広まったが、現在では反対説が存在する{{Sfn|岩村|2007|p=87}}。}}。



== 㤄捍国 ==

== 㤄捍国 ==


2021年3月6日 (土) 07:30時点における版


: Dàyuān2[1]使[2][3][4][5][6][ 1]使
1西


129632[7]

西


使使100西10西



1西113100使2使[8]

2


使104退

3102

40

[9][10]


西[11]

西


西6285使

西[12]


3479使

567

605 - 618使[13][14]


西

627 - 649西

656 - 661使

3658

27739[ 2]使

3744

13754宿

西[ 1][15][16]


70630[17]


西西西西36[ 3]


西

[ 1]4[ 4][ 5]西 西

西

おもな大宛王

前漢の時代

  • 毋寡
  • 昧蔡
  • 蝉封…毋寡の弟

後漢の時代

  • 延留
  • 橋塞提
  • 延留…復位

西晋の時代

  • 藍庾
  • 摩之…藍庾の子

隋代

昭武氏
  • 昭武阿利柒

唐代

  • 契苾
  • 阿瑟那鼠匿
  • 阿了参…契苾の兄の子
  • 遏波之…鼠匿の子
  • 阿悉爛達干(奉化王)
竇氏
  • 竇忠節
  • 竇薛裕…忠節の子

脚注

注釈



(一)^ abc巿

(二)^ aslanarslan

(三)^ 19[18]

(四)^ 3西

(五)^ 西6100

出典

  1. ^ 岩村 2007, p. 81.
  2. ^ 『魏書』西域伝
  3. ^ 『北史』西域伝
  4. ^ 『隋書』、『新唐書』
  5. ^ 『新唐書』
  6. ^ 大唐西域記』。
  7. ^ 小松 2005, p. 92.
  8. ^ 『史記』大宛列伝
  9. ^ 岩村 2007, pp. 85–86.
  10. ^ 『漢書』西域伝上
  11. ^ 『後漢書』西域伝
  12. ^ 『晋書』四夷伝
  13. ^ 『魏書』西域伝
  14. ^ 『北史』西域伝
  15. ^ 『旧唐書』西戎伝
  16. ^ 『新唐書』突厥下、西域伝下
  17. ^ 『史記』大宛列伝
  18. ^ 岩村 2007, p. 87.




西

西



西

西

西

西

西

 西1999ISBN 4582806538 

2007ISBN 9784061598034 

︿42005ISBN 463441340X 
















西