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*[[1928年]] - 京都帝国大学大学院を退学し、京城帝国大学法文学部助教授に就任する |
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2021年10月28日 (木) 10:54時点における版
尾高 朝雄︵おだか ともお、1899年1月28日 - 1956年5月15日︶は、日本の法学者︵法哲学︶。日本学士院会員。第3期日本学術会議副会長。
来歴
漢学者で銀行家である尾高次郎の三男として生まれる。父方の祖父の尾高新五郎惇忠は殖産家であり、民営富岡製糸場所長を務めた。母方の祖父は実業家で子爵の渋沢栄一。法学者穂積陳重は義理の伯父に当たる。伯母の尾高ゆうは富岡製糸場伝習工女第一号として著名。兄には郷土教育家の尾高豊作、大川平三郎の養子となった製紙実業家の大川鉄雄、弟には早世した美術研究者の尾高鮮之助、社会学者の尾高邦雄と指揮者の尾高尚忠がいる。妻・咲子は国文学者芳賀矢一の四女で[1]、娘は久留都茂子︵元・東京女学館短期大学学長︶。 1916年に東京高等師範学校附属中学校︵現‥筑波大学附属中学校・高等学校︶を卒業した後、第一高等学校 (旧制) 、東京帝国大学法学部卒業。初め外交官を志すも、親の反対により諦め、京都帝国大学文学部に進学し、文学部卒業後は大学院で哲学を研究する。京都帝国大学では西田幾多郎、米内庄太郎に師事した。 1927年、兄・豊作と共に、東京社会科学研究所を設立し、所長に大塚金之助を、常務理事に田辺寿利を、所員に杉本栄一や高島善哉を招くなどした[2]。 その後、法哲学研究者として京城帝国大学法文学部教授や東京大学法学部教授を歴任する。京城帝国大学助教授であった1928年11月13日からの約3年半の間、政府の奨学金で欧米に留学、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカと在留した。特にウィーンではハンス・ケルゼンの下で国家学を、フライブルクではエトムント・フッサールの下で現象学を学んでいる。また、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが開いていたセミナー︵研究会︶にも参加した。アルフレッド・シュッツなどとの交流を持つ。 当時、穂積重遠、牧野英一、田中耕太郎など法哲学︵法理学︶に精通した研究者はいたが、いずれも実定法研究者であり、法学部出身者で法哲学を専攻した者は極めて少なかった。そのため、尾高は日本の最初の本格的な法哲学専攻者と称される[3]。 多くの日本人が師事したハンス・ケルゼンとの親交は特に厚く、ケルゼンは尾高を最も高く評価していた[4]。尾高はケルゼンがナチスによりドイツを追われた際には、同僚かつ同じくケルゼンにも師事した憲法学者の清宮四郎と共に、京城帝大に招聘しようと運動を試みたが、功を奏しなかった[5]。 1947年に﹃国民主権と天皇制﹄に掲載された論文﹁国民主権と天皇制﹂において、ノモス主権論を提唱し、宮沢俊義と論争した︵尾高・宮沢論争︶が、ノモス主権論は憲法解釈の領域においては支持を得なかった。 1952年には、パリで開催された第7回ユネスコ総会に日本政府代表として出席している。 1956年に、歯の治療中にペニシリン注射でショック症状を起こし、都立駒込病院に入院後に死亡した。尾高の死がきっかけとなり、ペニシリンによる薬害はペニシリンショックとして社会問題化し、薬のショック死が認識されることになる。日本の薬害問題の最初期のものとしても有名である。年譜
- 1919年 - 旧制第一高等学校一部甲類卒業、同年、東京帝国大学入学
- 1923年 - 東京帝国大学法学部卒業、同年、京都帝国大学入学
- 1926年 - 京都帝国大学文学部卒業、同年大学院に進学
- 1928年 - 京都帝国大学大学院を退学し、京城帝国大学法文学部助教授に就任する
- 1930年 - 京城帝国大学法文学部教授
- 1944年 - 東京帝国大学法学部教授
- 1956年 - 逝去
家系
「尾高惇忠 (実業家)#系図」を参照