「山内量平」の版間の差分
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***妹:楠本熊子(楠本喜代子の養女、楠本定六の妻) |
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***妹:藤川信枝(和歌山県警部・藤川倭三郎の妻) |
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***妻の義弟:[[川瀬徳太郎]](ルーテル教会牧師・廃娼運動家) |
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***妻の義弟の妻:川瀬美世子([[乾正士]]の長女、[[板垣退助]]の孫<ref name="orio_jyoshi"> 「牧師・川瀬徳太郎先生を憶う」(所収『折尾女子学園五十年史』折尾女子学園記念史編纂委員会編、昭和60年([[1985年]])11月1日)</ref><ref>{{cite web|url=http://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E6%B0%8F|title=板垣氏 |publisher=世界帝王事典 |date= |accessdate=2014-6-15}}</ref>) |
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**叔母(繁憲の妹):楠本喜代子 |
**叔母(繁憲の妹):楠本喜代子 |
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2014年7月6日 (日) 15:22時点における版
来歴
嘉永元年8月7日︵1848年9月4日︶神職・山内繁憲の二男として、紀伊国日高郡北道村︵現 和歌山県日高郡みなべ町︶に生まれた。諱は憲孝、幼名は亮次郎。のち﹁量平﹂と改める[1]。母は紀伊藩御典医・野上応聞の長女・三千代[2]。山内家は醸造業﹁松屋﹂を営む素封家で、郷社﹁須賀神社﹂の祠掌に出仕する家柄であった。 長じて、紀州田辺藩の藩校・修道館の教師となり、明治維新以降は巡査部長として奉職するが、明治12年︵1879年︶父繁憲の死去に伴い官を辞して家業を継いだ。 明治14年︵1881年︶5月17日、紀伊国日高郡志賀村︵現 和歌山県日高郡みなべ町︶の庄屋川瀬六郎左衛門の娘・川瀬幹枝と婚姻。 のち税吏と諍いを起こして出荷停止の措置を受け、それが基で信用失墜と損失を蒙って零落するが、カンバーランド長老教会の宣教師J・B・ヘールと協力者大石余平の教えにより回心する。 明治17年︵1884年︶に洗礼を受けて、田辺教会の長老になる。明治20年︵1887年︶に東京に移り深川教会の長老になる。妹が日本基督教会の植村正久と結婚した関係で、植村正久の﹃日本論評﹄﹃福音新報﹄の出版を手伝う。 ルーテル教会の最初の宣教師ジェームス・シェーラーの日本語教師になる。シェーラーたちが佐賀の伝道に赴いたので、山内一家も同行する。養女・山内綾が鈴木直丸と結婚して、直丸が山内姓を名乗る。 明治27年︵1894年︶、マルティン・ルターの教義を和訳した﹃十字教会教理問答﹄を著わす。 明治32年︵1899年︶、山内量平と娘婿の山内直丸が按手礼を受けて、日本福音ルーテル教会の最初の牧師になる[3]。佐賀教会の教会創設に尽力する。明治38年︵1905年︶には博多の伝道に携わり、大正5年︵1916年︶に博多教会の会堂を建設する。大正6年︵1917年︶には大阪伝道を始め、天王寺村、大阪市南区烏森に講義所を建てる。しかし、体調を崩し翌大正7年︵1918年︶には伝道を引退し、9月18日に故郷の紀州田辺で昇天。享年71歳。家系
山内家の祖は相模国山之内荘を貫して氏と為した。本姓は藤原氏である。先祖が相模国より伊勢に遷り、天正5年︵1577年︶紀伊国南部郷に来住して松原を開墾し一村を築いた。現在の和歌山県日高郡みなべ町大字山内である[1]。量平の先祖の歴代墓はみなべ町の新福寺にあり、祖父・父の墓は法伝寺にある。祖父・山内繁樹の墓はみなべ町文化財に指定されている[1]。補註
参考文献
- 『山内量平 -日本のルーテル教会初代牧師-』坂井信生著、中川書店、平成5年(1993年)7月
- 『十字教会教理問答』山内量平著、明治27年(1894年)
- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年
- 『明治のキリスト教』高橋昌郎著、吉川弘文館、2003年