「岡崎次郎」の版間の差分
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{{otheruses||「岡崎次郎」の通称を持つ戦国大名|松平信康}} |
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'''岡崎 次郎'''︵おかざき じろう、男性、[[1904年]][[6月29日]] - [[1984年]]?︶は日本の[[マルクス経済学]]者、[[翻訳家]]。[[カール・マルクス|マルクス]]の大著﹃[[資本論]]﹄の翻訳で知られる。
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'''岡崎 次郎'''︵おかざき じろう、男性、[[1904年]][[6月29日]] - [[1984年]]?︶は日本の[[マルクス経済学]]者、[[翻訳家]]。[[カール・マルクス|マルクス]]の大著﹃[[資本論]]﹄の翻訳で知られる。
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==経歴== |
==経歴== |
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[[北海道]][[江差町|江差]]生まれ。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1927年]]に[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]、[[1929年]]に同[[経済学部]]を卒業。[[1950年]][[九州大学]][[教養部]]教授 |
[[北海道]][[江差町|江差]]生まれ。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1927年]]に[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]、[[1929年]]に同[[経済学部]]を卒業。
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戦後、[[1950年]]より[[九州大学]][[教養部]]教授。ついで[[法政大学]]経済学部教授となる。1968年[[法政大学]]教授を辞任、以降は著述業に専念した。
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===晩年=== |
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戦後にマルクス経済学者の大御所であった[[向坂逸郎]]名義で出版された岩波文庫版の﹁資本論﹂の翻訳を﹁下訳﹂<ref>当初は共訳として持ちかけられた︵岡崎次郎﹃マルクスに凭れて六十年﹄、青土社、p.186-188︶</ref>として請け負った。岡崎自身によれば、名義は向坂だったが、向坂はほとんど関与しておらず、実質的には岡崎の訳である<ref>岡崎次郎﹃マルクスに凭れて六十年﹄、青土社、p.186-196</ref>。その後、改訳して[[大月書店]]の﹁[[マルクス=エンゲルス全集]]﹂の一部、また[[国民文庫]]として刊行された﹁資本論﹂を刊行。これらには、岡崎の名前を冠している。また、解説本として、国民文庫から﹃資本論入門﹄を刊行し、﹃資本論書簡﹄︵マルクスとエンゲルスの往復書簡を編集したもの、全3冊︶を編集した。
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==晩年== |
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[[1983年]]に青土社から出版した﹃マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記﹄という自伝で向坂を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、﹁これから西の方へ行く﹂という言葉を残して、80歳となった翌[[1984年]][[6月6日]]からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
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[[1983年]]に青土社から出版した﹃マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記﹄という自伝で向坂を批判。本書を友人・知人らに献本し、さりげなく別れの会を持った岡崎は、﹁これから西の方へ行く﹂という言葉を残して、80歳となった翌[[1984年]][[6月6日]]からクニ夫人とともに死出の旅に出た。
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全ての家財を整理し、[[東京都|東京]]・[[本郷 (文京区)|本郷]]の自宅マンションを引き払った夫婦の足取りは、[[品川 (東京都)|品川]]のホテルに投宿したのを皮切りに、伊豆の[[大仁温泉]]・[[浜松市|浜松]]・[[京都市|京都]]・[[岡山市|岡山]]・[[萩市|萩]]・[[広島市|広島]]などを巡ったことがクレジットカードの使用記録から確認された。そして同年[[9月30日]]に[[大阪市|大阪]]のホテルに宿泊したのを最後に足取りが途絶え、現在でも生死は確認されていないという。 |
全ての家財を整理し、[[東京都|東京]]・[[本郷 (文京区)|本郷]]の自宅マンションを引き払った夫婦の足取りは、[[品川 (東京都)|品川]]のホテルに投宿したのを皮切りに、伊豆の[[大仁温泉]]・[[浜松市|浜松]]・[[京都市|京都]]・[[岡山市|岡山]]・[[萩市|萩]]・[[広島市|広島]]などを巡ったことがクレジットカードの使用記録から確認された。そして同年[[9月30日]]に[[大阪市|大阪]]のホテルに宿泊したのを最後に足取りが途絶え、現在でも生死は確認されていないという。 |
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==研究内容と業績== |
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戦後にマルクス経済学者の大御所であった[[向坂逸郎]]名義で出版された岩波文庫版の﹁資本論﹂の翻訳を﹁下訳﹂<ref>当初は共訳として持ちかけられた︵岡崎次郎﹃マルクスに凭れて六十年﹄、青土社、p.186-188︶</ref>として請け負った。岡崎自身によれば、名義は向坂だったが、向坂はほとんど関与しておらず、実質的には岡崎の訳である<ref>岡崎次郎﹃マルクスに凭れて六十年﹄、青土社、p.186-196</ref>。その後、改訳して[[大月書店]]の﹁[[マルクス=エンゲルス全集]]﹂の一部、また[[国民文庫]]として刊行された﹁資本論﹂を刊行。これらには、岡崎の名前を冠している。また、解説本として、国民文庫から﹃資本論入門﹄を刊行し、﹃資本論書簡﹄︵マルクスとエンゲルスの往復書簡を編集したもの、全3冊︶を編集した。
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岡崎次郎は戦後﹁資本論﹂及びマルクス主義研究と普及において、たびたび中心として他の研究者に協力を頼み、大きな仕事を成し遂げている。以下のものがある。なお、編集欄と翻訳欄詳細は岡崎の著書﹃マルクスに凭れて60年 自嘲生涯記﹄︵青土社︶に拠る。
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岡崎次郎は戦後﹁資本論﹂及びマルクス主義研究と普及において、たびたび中心として他の研究者に協力を頼み、大きな仕事を成し遂げている。以下のものがある。なお、編集欄と翻訳欄詳細は岡崎の著書﹃マルクスに凭れて60年 自嘲生涯記﹄︵青土社︶に拠る。
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﹃現代マルクス=レーニン主義事典﹄︵昭和55年初版 社会思想社︶…対象を﹁資本論﹂に限定せず、より包括的なマルクス主義事典を作ろうという意図で進められた。執筆依頼相手として、[[古在由重]]、[[石堂清倫]]、渡辺佐平、新田俊三、佐藤経明、[[山内一男]]、[[坂本徳松]]、新谷敬三郎、[[小場瀬卓三]]、山崎八郎、[[塩田庄兵衛]]、青木宗也、岩永博、鈴木鴻一郎、[[藤田勇 (法学者)|藤田勇]]、[[小田切秀雄]]、[[小山弘健]]が選ばれた。岡崎自身も執筆をし、他の執筆遅延や執筆放棄などで執筆者からこぼれてくる項目についてもできるかぎり執筆した。
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﹃現代マルクス=レーニン主義事典﹄︵昭和55年初版 社会思想社︶…対象を﹁資本論﹂に限定せず、より包括的なマルクス主義事典を作ろうという意図で進められた。執筆依頼相手として、[[古在由重]]、[[石堂清倫]]、渡辺佐平、新田俊三、佐藤経明、[[山内一男]]、[[坂本徳松]]、新谷敬三郎、[[小場瀬卓三]]、山崎八郎、[[塩田庄兵衛]]、青木宗也、岩永博、鈴木鴻一郎、[[藤田勇 (法学者)|藤田勇]]、[[小田切秀雄]]、[[小山弘健]]が選ばれた。岡崎自身も執筆をし、他の執筆遅延や執筆放棄などで執筆者からこぼれてくる項目についてもできるかぎり執筆した。
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==翻訳== |
===翻訳=== |
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岡崎次郎はマルクス主義の翻訳にたいして大きな貢献を果たしている。中でもマルクス主義文献の日本での普及に大きな影響を与えた[[大月書店]]の﹁[[マルクス=エンゲルス全集]]﹂では尽力した。昭和33年、大月書店の小林直衛から岡崎は、﹁ドイツのML主義研究所編集の﹁マルクス=エンゲルス全集﹂︵ソ連のML研究所編集﹁マルクス=エンゲルス全集﹂第二版のドイツ語版︶がベルリンのディーツ社から刊行されており、その翻訳をやるので中心になってもらいたい﹂との申し出を受ける。岡崎は2名の監訳として小林が挙げた[[大内兵衛]]と[[細川嘉六]]のうち、大内兵衛宅へ杉本俊郎と訪問、年なので自分で仕事は出来ないが監訳として名前を出すということで大内は引き受けてくれたという。各巻には巻頭にソ連研究所のドイツ語訳とドイツ研究所の序文がついていたが、[[村田陽一 (翻訳家)|村田陽一]]が前者翻訳をロシア語原文から、岡崎は後者翻訳を全巻担当した。昭和34年10月から43年10月までに第20巻までが出た。第21巻と第22巻の2巻のところで3年間出ない期間があったものの、その後は順調で、昭和50年秋には全39巻の刊行が終了した。同全集では﹁資本論﹂新訳をはじめ、﹁剰余価値学説史﹂初訳、﹁マルクス=エンゲルス書簡集﹂新訳も含まれている。
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*岡崎次郎はマルクス主義の翻訳にたいして大きな貢献を果たしている。中でもマルクス主義文献の日本での普及に大きな影響を与えた[[大月書店]]の﹁[[マルクス=エンゲルス全集]]﹂では尽力した。昭和33年、大月書店の小林直衛から岡崎は、﹁ドイツのML主義研究所編集の﹁マルクス=エンゲルス全集﹂︵ソ連のML研究所編集﹁マルクス=エンゲルス全集﹂第二版のドイツ語版︶がベルリンのディーツ社から刊行されており、その翻訳をやるので中心になってもらいたい﹂との申し出を受ける。岡崎は2名の監訳として小林が挙げた[[大内兵衛]]と[[細川嘉六]]のうち、大内兵衛宅へ杉本俊郎と訪問、年なので自分で仕事は出来ないが監訳として名前を出すということで大内は引き受けてくれたという。各巻には巻頭にソ連研究所のドイツ語訳とドイツ研究所の序文がついていたが、[[村田陽一 (翻訳家)|村田陽一]]が前者翻訳をロシア語原文から、岡崎は後者翻訳を全巻担当した。昭和34年10月から43年10月までに第20巻までが出た。第21巻と第22巻の2巻のところで3年間出ない期間があったものの、その後は順調で、昭和50年秋には全39巻の刊行が終了した。同全集では﹁資本論﹂新訳をはじめ、﹁剰余価値学説史﹂初訳、﹁マルクス=エンゲルス書簡集﹂新訳も含まれている。
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﹁剰余価値学説史﹂初訳では当初国民文庫での分冊刊行が計画され、当初[[大島清 (法政大学)|大島清]]と[[時永淑]]に任せたが、遅々として進む気配はなく、1分冊に1年かかるペースに業を煮やした小林直衛の指示で第5分冊までで大島=時永訳は打ち切られた。小林直衛の指示もあり、紆余曲折の末、結局岡崎次郎と時永淑でやり遂げることとなった。既刊部分については時永が再訳し岡崎が校閲、残りの部分は岡崎が元訳を担当した。全集版の﹁剰余価値学説史﹂では岡崎は手を触れなかったが、岡崎の訳がそのまま使われている箇所も多いため、翻訳者として名前が出ることとなった。
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*﹁剰余価値学説史﹂初訳では当初国民文庫での分冊刊行が計画され、当初[[大島清 (法政大学)|大島清]]と[[時永淑]]に任せたが、遅々として進む気配はなく、1分冊に1年かかるペースに業を煮やした小林直衛の指示で第5分冊までで大島=時永訳は打ち切られた。小林直衛の指示もあり、紆余曲折の末、結局岡崎次郎と時永淑でやり遂げることとなった。既刊部分については時永が再訳し岡崎が校閲、残りの部分は岡崎が元訳を担当した。全集版の﹁剰余価値学説史﹂では岡崎は手を触れなかったが、岡崎の訳がそのまま使われている箇所も多いため、翻訳者として名前が出ることとなった。
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「マルクス=エンゲルス書簡集」新訳では、マルクス=エンゲルス往復書簡だけでなく、二人の生前書いたもので現存する書簡がすべて網羅されている重要なものだった。すでに旧全集での資料をもとに「往復書簡」の翻訳に着手し刊行もしていた岡崎はここでも他の研究者とともに新全集での翻訳を担当した。 |
*「マルクス=エンゲルス書簡集」新訳では、マルクス=エンゲルス往復書簡だけでなく、二人の生前書いたもので現存する書簡がすべて網羅されている重要なものだった。すでに旧全集での資料をもとに「往復書簡」の翻訳に着手し刊行もしていた岡崎はここでも他の研究者とともに新全集での翻訳を担当した。 |
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上記全集のための新たな「資本論」翻訳にも岡崎は取り組んだ。戦後間もない時期に向坂逸郎の紹介でやった「資本論」翻訳を岡崎は改めて検討、全集のための準備として、昭和33年、国民文庫版「資本論」のための準備に取りかかった。それにあたって、誤訳や曖昧訳を一掃する、それだけでなく現代の青年にとって読みやすい翻訳にしようとの意図で、東大大学院生だった[[新田俊三]](後に[[東洋大学]]教授)、[[塚本健]](後に[[東京大学]]教授)、[[鎌倉孝夫]](後に[[埼玉大学]]教授)を雇い手伝ってもらうこととした。昭和36年5月から39年9月まで、国民文庫版全11冊を完成した。その後、全集版翻訳にあたって、今度はこの国民文庫版を検討するために命尾孝子という学生に原稿用紙に書きとらせ、それを修正する手法をとった。全集版「資本論」翻訳は昭和40年9月から42年3月まで全集23-25巻(全5分冊)として刊行された。 |
*上記全集のための新たな「資本論」翻訳にも岡崎は取り組んだ。戦後間もない時期に向坂逸郎の紹介でやった「資本論」翻訳を岡崎は改めて検討、全集のための準備として、昭和33年、国民文庫版「資本論」のための準備に取りかかった。それにあたって、誤訳や曖昧訳を一掃する、それだけでなく現代の青年にとって読みやすい翻訳にしようとの意図で、東大大学院生だった[[新田俊三]](後に[[東洋大学]]教授)、[[塚本健]](後に[[東京大学]]教授)、[[鎌倉孝夫]](後に[[埼玉大学]]教授)を雇い手伝ってもらうこととした。昭和36年5月から39年9月まで、国民文庫版全11冊を完成した。その後、全集版翻訳にあたって、今度はこの国民文庫版を検討するために命尾孝子という学生に原稿用紙に書きとらせ、それを修正する手法をとった。全集版「資本論」翻訳は昭和40年9月から42年3月まで全集23-25巻(全5分冊)として刊行された。 |
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向坂逸郎が岡崎次郎におよぼしたものは岡崎の自叙伝にたびたび登場するが、大月書店版﹃マルクス=エンゲルス全集﹄でも向坂は登場する。岡崎自身の筆によれば、上記国民文庫版﹁資本論﹂翻訳で3人の大学院生に手つだってもらった際、通称︿向坂塾﹀の学生だった3人から岡崎新訳﹁資本論﹂の手伝いをしていることを知ると、向坂は、それは君たちが自分の商売敵になることで、今後は絶交すると言ったと岡崎は知る。これを聴いた岡崎は、さほど3人の翻訳が良くなかったこともあったが、3人を手放した。
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*向坂逸郎が岡崎次郎におよぼしたものは岡崎の自叙伝にたびたび登場するが、大月書店版﹃マルクス=エンゲルス全集﹄でも向坂は登場する。岡崎自身の筆によれば、上記国民文庫版﹁資本論﹂翻訳で3人の大学院生に手つだってもらった際、通称︿向坂塾﹀の学生だった3人から岡崎新訳﹁資本論﹂の手伝いをしていることを知ると、向坂は、それは君たちが自分の商売敵になることで、今後は絶交すると言ったと岡崎は知る。これを聴いた岡崎は、さほど3人の翻訳が良くなかったこともあったが、3人を手放した。
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向坂逸郎の介入はそれだけではなかった。まだ全集版﹁資本論﹂が刊行中だった昭和41年夏、岡崎が他社から﹁資本論﹂を翻訳出版していることを知った向坂が怒り、岡崎への印税差し止めを岩波書店に訴えており、そのため印税が止まったことを岡崎は知る。向坂は岩波側に書面で通知してきたとのことで、岡崎はそれを読んだが、﹁他社から出すとは重大な裏切り行為﹂であり﹁いずれ弁護士を代理人として差し向け厳重に糾明する﹂ことが書いてあった。岩波の担当者はまだ若く、20年前のその翻訳は大部分岡崎の翻訳であることは何も知らなかった。結局向坂と直接の交渉をすることになり、昭和42年3月に夫人同伴の向坂と岡崎は新橋のレストランで会った。会談では向坂はにこやかで、﹁あなたの気持もよく分かった。いろいろ物入りもかさむので一つ宜しく﹂と言った。数日後に岡崎は今年10月いっぱいで印税は放棄する旨の手紙を出した。向坂からは﹁それでけっこう﹂との簡単な返事がきた。同年10月、[[岩波書店]]﹁マルクス﹃資本論﹄100年記念、向坂逸郎訳﹃資本論﹄全4冊﹂という新聞広告をみた岡崎は、向坂の﹁2枚も3枚も上手﹂を知り同時にそれまでつなぎ止めてきた敬愛を失った。
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*向坂逸郎の介入はそれだけではなかった。まだ全集版﹁資本論﹂が刊行中だった昭和41年夏、岡崎が他社から﹁資本論﹂を翻訳出版していることを知った向坂が怒り、岡崎への印税差し止めを岩波書店に訴えており、そのため印税が止まったことを岡崎は知る。向坂は岩波側に書面で通知してきたとのことで、岡崎はそれを読んだが、﹁他社から出すとは重大な裏切り行為﹂であり﹁いずれ弁護士を代理人として差し向け厳重に糾明する﹂ことが書いてあった。岩波の担当者はまだ若く、20年前のその翻訳は大部分岡崎の翻訳であることは何も知らなかった。結局向坂と直接の交渉をすることになり、昭和42年3月に夫人同伴の向坂と岡崎は新橋のレストランで会った。会談では向坂はにこやかで、﹁あなたの気持もよく分かった。いろいろ物入りもかさむので一つ宜しく﹂と言った。数日後に岡崎は今年10月いっぱいで印税は放棄する旨の手紙を出した。向坂からは﹁それでけっこう﹂との簡単な返事がきた。同年10月、[[岩波書店]]﹁マルクス﹃資本論﹄100年記念、向坂逸郎訳﹃資本論﹄全4冊﹂という新聞広告をみた岡崎は、向坂の﹁2枚も3枚も上手﹂を知り同時にそれまでつなぎ止めてきた敬愛を失った。
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== 出典・脚注 == |
== 出典・脚注 == |
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{{DEFAULTSORT:おかさき しろう}} |
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[[Category:日本の経済学者]] |
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2022年8月28日 (日) 09:41時点における版
人物情報 | |
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生誕 |
1904年6月29日 日本北海道江差 |
死没 | 1984年1月1日 (79歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 経済学 |
研究機関 | 九州大学・法政大学 |