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== 二代目清基と承久の乱 ==

== 二代目清基と承久の乱 ==

康頼の嫡男・[[平清基]]は[[承元]]年中に保司職を継承した。鎌倉3代将軍・[[源実朝]]が死去する頃には、幕府は[[執権]]の[[北条氏]]が頼朝以来の有力な[[御家人]]・[[門葉]]を排除し、実権を掌握していた。[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に[[北条義時]]追討の院宣を下した。上皇側の予想に反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国元へ逃げ帰った。この戦いで阿波の[[佐々木経高]]と[[佐々木高重|高重]]の父子は討死して果て、600余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対しては佐々木氏に代わって、[[小笠原長清]]を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り居城を攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、経高の二男[[佐々木高兼|高兼]]は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した。神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かつての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。 一方、麻植保では清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代わって小笠原長清の嫡男・[[小笠原長経]]が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである。事実清基は、[[承久の乱]]に上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て、保司を解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実を鎌倉へ訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久3年夏、上皇方へ加わるために上京し、[[和田朝盛]]と共に戦場へおもむいたと申し立て、証拠の書状などを提出した。これに対して清基は、叔父の[[中原仲康]]が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分はもとより、麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠のに、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判の結果は清基が破れた。『[[吾妻鏡]]』二十六巻に、承久三年十月二十八日、平清基麻植保司没収の記事がある<ref name="furumori" />。

康頼の嫡男・[[平清基]]は[[承元]]年中に保司職を継承した。鎌倉3代将軍・[[源実朝]]が死去する頃には、幕府は[[執権]]の[[北条氏]]が頼朝以来の有力な[[御家人]]・[[門葉]]を排除し、実権を掌握していた。[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に[[北条義時]]追討の院宣を下した。上皇側の予想に反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉の大軍を支えることが出来ず、それぞれの国元へ逃げ帰った。この戦いで阿波の[[佐々木経高]]と[[佐々木高重|高重]]の父子は討死して果て、600余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対しては佐々木氏に代わって、[[小笠原長清]]を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り居城を攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、経高の二男[[佐々木高兼|高兼]]は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族と家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した。神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かつての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。 一方、麻植保では清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代わって小笠原長清の嫡男・[[小笠原長経]]が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである。事実清基は、[[承久の乱]]に上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て、保司を解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実を鎌倉へ訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久3年夏、上皇方へ加わるために上京し、[[和田朝盛]]と共に戦場へおもむいたと申し立て、証拠の書状などを提出した。これに対して清基は、叔父の[[中原仲康]]が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分はもとより、麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠のに、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判の結果は清基が破れた。『[[吾妻鏡]]』二十六巻に、承久三年十月二十八日、平清基麻植保司没収の記事がある<ref name="furumori" />。



三代目の[[平俊職]]は官職を失って浪々の身となり京に出たが、承久の乱の敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党を組み、[[伊具四郎]]を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の[[諏訪刑部左門]]は斬首となり、俊職と[[牧左衛門]]は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した。

三代目の[[平俊職]]は官職を失って浪々の身となり京に出たが、承久の乱の敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党を組み、[[伊具四郎]]を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の[[諏訪刑部左門]]は斬首となり、俊職と[[牧左衛門]]は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した。


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  • 父:中原頼季
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:平康基
    • 男子:平仲康
    • 男子:平神子

登場作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ a b 『勅撰作者部類』
  2. ^ a b 『姓氏分脈』30,中原姓,静嘉堂文庫蔵(宝賀[1986: 1174])
  3. ^ a b c 『ふるさと森山』鴨島町森山公民館郷土研究会,1990年
  4. ^ 『梁塵秘抄口伝集』巻10
  5. ^ 『平家物語』巻二 康頼祝の事
  6. ^ 『平家物語』巻二 卒塔婆流しの事
  7. ^ 『吾妻鏡』文治2年閏7月22日条
  8. ^ 『ふるさと森山』鴨島町森山公民館郷土研究会,1990年,36頁

参考文献

  • 『ふるさと森山』鴨島町森山公民館郷土研究会、1990年
  • 『日本大百科全書ニッポニカ』小学館、1993年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年