コンテンツにスキップ

多田行綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

凡例

多田 行綱
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 不明
別名 多田太郎、多田蔵人、六条蔵人、源行綱
墓所 熊本県天草市御所浦島
官位 正五位下(一説には従五位下)、六位蔵人蔵人伯耆守摂津国惣追捕使?
氏族 清和源氏摂津源氏多田源氏
父母 父:多田頼盛
兄弟 行綱知実能瀬高頼高実
松依姫(一説には娘とも)
行定行実定綱基綱行盛行忠明綱
テンプレートを表示

  


[]


31177鹿

寿鹿寿211837222425西26

11[1]寿311842使[2]

2118565118511

[ 1]

[]


8km


行綱追放後の多田荘[編集]

行綱の手を離れた多田荘は、摂津国惣追捕使(守護)となった大内惟義に預けられ、また多田源氏の累代の家人であった荘内の武士たちは行綱に従った者を除いて多田院御家人として再編成された。

伝承[編集]

  • 頼朝に多田荘を没収された後の行綱の消息については不明であるが、九州天草地方に郎党と共に落ち延びたという伝承が存在し、同地には行綱にまつわる伝説や墓(天草市指定史跡)などが伝わっている。
  • 丹波播磨の国境にあたる現在の兵庫県丹波篠山市今田町には、一ノ谷の戦いの際に搦手として丹波路を進軍した源義経の軍勢を土地鑑のある行綱がこの場所で出迎えて案内したことにより全員無事越境することができたとの地元伝承が存在する「タダ越峠」と呼ばれる山道がある。
  • 多田源氏ゆかりの寺であり、また安産祈願の寺としても有名な兵庫県宝塚市中山寺の「鐘の緒」と呼ばれる腹帯()は、行綱の妻の不信心を本尊が鐘の緒をもって戒めたという伝説に基づく。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 実際は清秀の父重清が高山氏から婿養子であった。

出典[編集]

  1. ^ 『玉葉』
  2. ^ 川合康 「生田の森・一の谷合戦と地域社会」『地域社会からみた「源平合戦」』

参考文献[編集]

関連作品[編集]

テレビドラマ

関連項目[編集]