「最上徳内」の版間の差分
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家業を手伝い、奥州各地をまわり[[たばこ]]の[[行商]]などをしつつ独学で学ぶ。26歳の時、父が死去し、翌年[[天明]]元年︵[[1781年]]︶には[[江戸]]へ出る。幕府の医官山田図南の家樸となった。奉公しつつ医術や数学を学び、29歳の時、天明4年︵[[1784年]]︶には[[本多利明]]の音羽塾に入門し、[[天文学]]や[[測量]]、海外事情にも明るい利明の経済論などを学ぶ。[[長崎市|長崎]]への算術修行も行っている |
家業を手伝い、奥州各地をまわり[[たばこ]]の[[行商]]などをしつつ独学で学ぶ。26歳の時、父が死去し、翌年[[天明]]元年︵[[1781年]]︶には[[江戸]]へ出る。幕府の医官山田図南の家樸となった。奉公しつつ医術や数学を学び、29歳の時、天明4年︵[[1784年]]︶には[[本多利明]]の音羽塾に入門し、[[天文学]]や[[測量]]、海外事情にも明るい利明の経済論などを学ぶ。[[長崎市|長崎]]への算術修行も行っている<ref>{{Cite book|和書|author=岡田俊裕|title=日本地理学人物事典﹇ 近世編 ﹈|publisher=原書房|year=2011|isbn=978-4-562-04694-2|page=201}}</ref>。
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幕府では[[ロシア]]の北方進出︵南下︶に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の[[田沼意次]]らが[[蝦夷地]]︵[[北海道]]︶開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年︵[[1785年]]︶には師の本多利明が[[蝦夷]]地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、[[山口鉄五郎]]隊に人夫として属する。蝦夷地では[[青島俊蔵]]らとともに[[釧路郡|釧路]]から[[厚岸郡|厚岸]]、[[根室郡|根室]]まで探索、地理や[[アイヌ]]の生活や風俗などを調査する。[[千島]]、[[樺太]]あたりまで探検、アイヌに案内されて[[国後島]]へも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年︵[[1786年]]︶には単身で再び国後島へ渡り、[[択捉島]]、[[得撫島]]へも渡る。択捉島では交易のため滞在していた[[ロシア]]人とも接触、ロシア人の択捉島在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、[[場所請負制]]などを行っていた[[松前藩]]には危険人物として警戒される。
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幕府では[[ロシア]]の北方進出︵南下︶に対する備えや、蝦夷地交易などを目的に老中の[[田沼意次]]らが[[蝦夷地]]︵[[北海道]]︶開発を企画し、北方探索が行われていた。天明5年︵[[1785年]]︶には師の本多利明が[[蝦夷]]地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されるが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、[[山口鉄五郎]]隊に人夫として属する。蝦夷地では[[青島俊蔵]]らとともに[[釧路郡|釧路]]から[[厚岸郡|厚岸]]、[[根室郡|根室]]まで探索、地理や[[アイヌ]]の生活や風俗などを調査する。[[千島]]、[[樺太]]あたりまで探検、アイヌに案内されて[[国後島]]へも渡る。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌・天明6年︵[[1786年]]︶には単身で再び国後島へ渡り、[[択捉島]]、[[得撫島]]へも渡る。択捉島では交易のため滞在していた[[ロシア]]人とも接触、ロシア人の択捉島在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学ぶ。北方探索の功労者として賞賛される一方、[[場所請負制]]などを行っていた[[松前藩]]には危険人物として警戒される。
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[[文化 (元号)|文化]]元年︵[[1804年]]︶まで再び山林御用を務め、この間に著述活動も行う。文化2年︵[[1805年]]︶には[[遠山景晋]]のもとで8度目の蝦夷上陸を果たす。文化5年︵[[1808年]]︶2月徳内は樺太詰を命ぜられ、4月に[[宗谷郡|宗谷]]から渡樺した。白主︵シラヌシ [[本斗郡]][[好仁村]]白主︶から東の[[亜庭湾]]方面に向かい、[[久春古丹]]︵クシュンコタン [[大泊郡]][[大泊町]]︶に上陸する。その後、樺太警固の[[会津藩]]兵約800名も渡樺してきた。6月に久春古丹︵大泊︶を発ち[[能登呂半島]]の東海岸沿いに南下し、樺太最南端の[[西能登呂岬]]を回って西岸を北上し富内︵トンナイ [[真岡郡]][[蘭泊村]]︶に上陸した。その後、白主にて山丹舟を目撃した。7月には南に向かう会津藩兵の一行とともに樺太を離れた。
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[[文化 (元号)|文化]]元年︵[[1804年]]︶まで再び山林御用を務め、この間に著述活動も行う。文化2年︵[[1805年]]︶には[[遠山景晋]]のもとで8度目の蝦夷上陸を果たす。文化5年︵[[1808年]]︶2月徳内は樺太詰を命ぜられ、4月に[[宗谷郡|宗谷]]から渡樺した。白主︵シラヌシ [[本斗郡]][[好仁村]]白主︶から東の[[亜庭湾]]方面に向かい、[[久春古丹]]︵クシュンコタン [[大泊郡]][[大泊町]]︶に上陸する。その後、樺太警固の[[会津藩]]兵約800名も渡樺してきた。6月に久春古丹︵大泊︶を発ち[[能登呂半島]]の東海岸沿いに南下し、樺太最南端の[[西能登呂岬]]を回って西岸を北上し富内︵トンナイ [[真岡郡]][[蘭泊村]]︶に上陸した。その後、白主にて山丹舟を目撃した。7月には南に向かう会津藩兵の一行とともに樺太を離れた。
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[[文政]]6年([[1823年]])に長崎へ来日したドイツ人医師[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]は文政9年([[1826年]])に江戸へ参府する。徳内はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換する。学術や北方事情などを話題に対談し、[[間宮林蔵]]が調査した樺太の地図を与えたほか、[[アイヌ語]]辞典の編纂をはじめ日本研究に熱心なシーボルトに協力する。シーボルトの『[[江戸参府紀行]]』によると、徳内が[[サガレン]](樺太)に滞在した時に105人中53人が寒冷の影響で死亡したが、徳内は大量の[[昆布]]を食べることで、すこぶる健康であったとされる<ref> |
[[文政]]6年︵[[1823年]]︶に長崎へ来日したドイツ人医師[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]は文政9年︵[[1826年]]︶に江戸へ参府する。徳内はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換する。学術や北方事情などを話題に対談し、[[間宮林蔵]]が調査した樺太の地図を与えたほか、[[アイヌ語]]辞典の編纂をはじめ日本研究に熱心なシーボルトに協力する。シーボルトの﹃[[江戸参府紀行]]﹄によると、徳内が[[サガレン]](樺太)に滞在した時に105人中53人が寒冷の影響で死亡したが、徳内は大量の[[昆布]]を食べることで、すこぶる健康であったとされる<ref>{{Cite book|和書|author=宮本義己|title=歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―|publisher=中央労働災害防止協会|year=2002|pages=129-130}}</ref>。文政11年︵[[1828年]]︶にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図持ち出しが発覚し、[[シーボルト事件]]に至るが、徳内は追及を免れている。晩年は江戸の浅草に住み、天保7年︵1836年︶に死去、享年82、あるいは83。
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墓所は[[東京都]][[文京区]]の蓮光寺である。 |
墓所は[[東京都]][[文京区]]の蓮光寺である。 |
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* [[荒俣宏]]『[[帝都幻談]]』 |
* [[荒俣宏]]『[[帝都幻談]]』 |
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* [[宇江佐真理]]『[[たば風 蝦夷拾遺]]』 |
* [[宇江佐真理]]『[[たば風 蝦夷拾遺]]』 |
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== 参考文献 == |
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*岡田俊裕『 日本地理学人物事典[ 近世編 ]』 (原書房、 2011年) ISBN 978-4-562-04694-2 |
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*[[宮本義己]]『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年) |
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== 関連項目 == |
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* [[北海道神宮]] 境内の開拓神社に祀られている |
* [[北海道神宮]] 境内の開拓神社に祀られている |
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* [[最上徳内記念館]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://murayama-kanbutu.com/tokunaikinen.html 最上徳内記念館] |
* [http://murayama-kanbutu.com/tokunaikinen.html 最上徳内記念館] |
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{{Normdaten}} |
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[[Category:日本の探検家]] |
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[[Category:江戸幕府幕臣]] |
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