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'''木下 尚江'''︵きのした なおえ、[[1869年]][[10月12日]]︵[[明治]]2年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]<ref name="p-yearbook">[ |
'''木下 尚江'''︵きのした なおえ、[[1869年]][[10月12日]]︵[[明治]]2年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]<ref name="p-yearbook">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870835/75 東京堂年鑑編輯部編﹃出版年鑑 昭和13年版﹄東京堂、1938年、p.110]</ref>︶- [[1937年]]︵[[昭和]]12年︶[[11月5日]]<ref name="p-yearbook"/>︶は、[[日本]]の[[社会運動]]家、[[作家]]。尚江は本名。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[信濃国]][[松本城]]下︵現[[長野県]][[松本市]]︶に[[松本藩]]に代々使えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年︵明治7年︶には巡査となっている。[[旧開智学校|開智学校]]に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で[[自由民権運動]]が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には[[福沢諭吉]]﹃[[学問のすゝめ]]﹄を読んで感動する。1881年に[[長野県松本深志高等学校|長野県中学校松本支校]]入学。この頃[[オリバー・クロムウェル]]を知って革命を意識、また[[飯田事件]]の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。1886年に東京の[[英吉利法律学校]]に入学したが、[[英国憲法]]の講座がなかったため[[東京専門学校]]に転校、クロムウェルの影響で法律を学び、[[1888年]]︵明治21年︶に卒業した<ref>[ |
[[信濃国]][[松本城]]下︵現[[長野県]][[松本市]]︶に[[松本藩]]に代々使えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年︵明治7年︶には巡査となっている。[[旧開智学校|開智学校]]に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で[[自由民権運動]]が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には[[福沢諭吉]]﹃[[学問のすゝめ]]﹄を読んで感動する。1881年に[[長野県松本深志高等学校|長野県中学校松本支校]]入学。この頃[[オリバー・クロムウェル]]を知って革命を意識、また[[飯田事件]]の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。1886年に東京の[[英吉利法律学校]]に入学したが、[[英国憲法]]の講座がなかったため[[東京専門学校]]に転校、クロムウェルの影響で法律を学び、[[1888年]]︵明治21年︶に卒業した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454832/156 ﹃早稲田大学校友会会員名簿 ︹昭和10年用︺﹄早稲田大学校友会、1934年、p.224]</ref>。
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松本に戻り、しばらくは地元でローカル紙﹁信陽日報﹂の記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。この頃、[[政治小説]]の習作的な作品が数篇残されている<ref>[[柳田泉]]﹁﹁火の柱﹂雑記﹂︵﹃火の柱﹄岩波文庫 1954年︶</ref>。﹃信陽日報﹄は県庁問題で排斥されてつぶれ、さらに﹃信濃毎日新聞﹄に県庁問題の長論文を寄稿するなどしたこと地元の怒りを買い郷里を離れる。1893年﹃信府日報﹄入社、[[百瀬興政]]らと聖書の研究会をもち、その後[[内村鑑三不敬事件]]での教会の立場への義侠もあり、25歳で[[日本基督教団松本 |
松本に戻り、しばらくは地元でローカル紙﹁信陽日報﹂の記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。この頃、[[政治小説]]の習作的な作品が数篇残されている<ref>[[柳田泉]]﹁﹁火の柱﹂雑記﹂︵﹃火の柱﹄岩波文庫 1954年︶</ref>。﹃信陽日報﹄は県庁問題で排斥されてつぶれ、さらに﹃信濃毎日新聞﹄に県庁問題の長論文を寄稿するなどしたこと地元の怒りを買い郷里を離れる。1893年﹃信府日報﹄入社、従兄弟にあたる[[百瀬興政]]<ref>﹁信州教育とキリスト教﹂p.15 キリスト新聞社 1982年</ref>らと聖書の研究会をもち、その後[[内村鑑三不敬事件]]での教会の立場への義侠もあり、25歳で松本[[メソジスト|美以教会]](現・[[日本基督教団松本教会]])の[[中田久吉]]牧師より[[洗礼]]を受ける<ref name=aramasato>[[荒正人]]﹁人と文学﹂︵﹃日本文学全集5徳富蘆花 木下尚江 岩野泡鳴集﹄︶</ref>。1894年には﹃信府日報﹄は尚江による社説のために治安妨害を理由に発行停止処分を受ける。1896年に﹃信濃日報﹄主筆。1897年、県議選関連の疑獄事件で拘引され、翌年重禁錮8か月・罰金10円・監視6か月の判決を受けてたが、控訴のために東京に護送されての鍛冶橋監獄に収容、無罪判決となって出所した。
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[[1899年]]︵明治32年︶に毎日新聞︵旧[[横浜毎日新聞]]︶に入り、廃娼運動、[[足尾鉱毒事件|足尾銅山鉱毒]]問題、[[普通選挙]]期成運動などで論陣を張る。
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[[1899年]]︵明治32年︶に毎日新聞︵旧[[横浜毎日新聞]]︶に入り、廃娼運動、[[足尾鉱毒事件|足尾銅山鉱毒]]問題、[[普通選挙]]期成運動などで論陣を張る。
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[[1901年]](明治34年)には[[幸徳秋水]]、[[片山潜]]、[[堺利彦]]らの[[社会民主党 (日本 1901年)|社会民主党]]の結成に参加する。[[日露戦争]]前夜には[[非戦論]]の論者として活躍。1904年に『毎日新聞』で、[[キリスト教社会主義]]の立場から非戦論を盛り込んだ小説「火の柱」を連載<ref name=aramasato/>。 |
[[1901年]](明治34年)には[[幸徳秋水]]、[[片山潜]]、[[堺利彦]]らの[[社会民主党 (日本 1901年)|社会民主党]]の結成に参加する。[[日露戦争]]前夜には[[非戦論]]の論者として活躍。1904年に『毎日新聞』で、[[キリスト教社会主義]]の立場から非戦論を盛り込んだ小説「火の柱」を連載<ref name=aramasato/>。 |
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[[1906年]]︵明治39年︶の母の死をきっかけに、社会主義から次第に離れるようになる。[[田中正造]]の死期に立ち会い、[[看護]]を行っている。後年は人間主義の著作活動を行う。
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[[1906年]]︵明治39年︶の母の死をきっかけに、社会主義から次第に離れるようになる。﹃新紀元﹄1906年10月10日に﹁旧友諸君に告ぐ﹂を発表した。[[田中正造]]の死期に立ち会い、[[看護]]を行っている。後年は人間主義の著作活動を行う。
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教文館より『木下尚江全集』全20巻が刊行されている。また、松本市の[[松本市歴史の里]]内に木下尚江記念館がある。 |
教文館より『木下尚江全集』全20巻が刊行されている。また、松本市の[[松本市歴史の里]]内に木下尚江記念館がある。 |
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1937年︵昭和12年︶11月5日、[[胃がん]]により[[東京都]][[滝野川 (東京都北区)|滝野川]]の自宅で死去。享年69<ref>明治思想界の先駆者、死去﹃東京朝日新聞﹄︵昭和12年11月6日︶﹃昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年﹄p115 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。墓所は[[青山霊園]](1ロ4-2-2)。
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1937年(昭和12年)死去。享年69。 |
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== 年譜 == |
== 年譜 == |
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* [[1885年]](明治18年):[[飯田事件]]の被告を目撃し感動。クロムウェルを知り、「国王を裁く法律」を学ぶ決心 |
* [[1885年]](明治18年):[[飯田事件]]の被告を目撃し感動。クロムウェルを知り、「国王を裁く法律」を学ぶ決心 |
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* [[1886年]](明治19年)[[2月13日]]:長野県中学校松本支校を卒業 |
* [[1886年]](明治19年)[[2月13日]]:長野県中学校松本支校を卒業 |
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* 1886年(明治19年 |
* 1886年(明治19年) |
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::3月:東京の[[英吉利法律学校]](現[[中央大学]])に入学 |
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::4月:[[東京専門学校]](現[[早稲田大学]])法律科に転学 |
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* [[1887年]](明治20年)[[10月21日]]:父が胃癌で永眠、心の空洞を体験 |
* [[1887年]](明治20年)[[10月21日]]:父が胃癌で永眠、心の空洞を体験 |
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* [[1888年]](明治21年)[[7月20日]]:東京専門学校邦語法律科卒業 |
* [[1888年]](明治21年) |
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::[[7月20日]]:東京専門学校邦語法律科卒業 |
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::11月ころ:『信陽日報』(松本)の記者となる |
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* [[1890年]](明治23年)夏:県庁移転問題で排斥され『信陽日報』廃刊 |
* [[1890年]](明治23年) |
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::夏:県庁移転問題で排斥され『信陽日報』廃刊 |
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::秋ころ:キリスト教の博物書を読み神の存在を信じる |
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* [[1891年]](明治24年 |
* [[1891年]](明治24年) |
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::松本町、長野町、新潟県高田町で[[禁酒運動]]・[[廃娼運動]]に取り組む |
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::『信府日報』主筆[[石川安次郎]]と松本公友会を開催 |
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* [[1893年]](明治26年)[[1月28日]]:[[代言人]]試験に合格し、2月に松本の大名町に木下法律事務所を開設 |
* [[1893年]](明治26年) |
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::[[1月28日]]:[[代言人]]試験に合格し、2月に松本の大名町に木下法律事務所を開設 |
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::4月:『信府日報』主筆を兼ねる(のちに『信濃日報』と改題) |
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::[[5月1日]]:[[弁護士]]登録([[3月4日]]に代言人規則廃止、[[弁護士法]]公布のため) |
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::[[10月22日]]:[[洗礼]]を受ける |
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* [[1897年]](明治30年 |
* [[1897年]](明治30年) |
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::7月:[[中村太八郎]]らと松本普通選挙期成同盟会を結成 |
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::[[8月10日]]:県議選関係の恐喝詐偽取財容疑で入獄 |
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* [[1898年]](明治31年)[[1月24日]]:重禁錮8か月の判決を受けて控訴 |
* [[1898年]](明治31年) |
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::[[1月24日]]:重禁錮8か月の判決を受けて控訴 |
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::[[2月9日]]:東京へ護送され[[市ヶ谷刑務所|鍛冶橋監獄署]]に収容 |
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::[[12月7日]]:無罪判決で出獄し、[[降旗元太郎]]邸へ |
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* [[1899年]](明治32年)[[2月13日]]:東京で『毎日新聞』記者となる |
* [[1899年]](明治32年) |
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::[[2月13日]]:東京で『毎日新聞』記者となる |
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::[[10月2日]]:東京で[[普選運動|普通選挙期成同盟会]]の結成に参加 |
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* [[1900年]](明治33年)[[1月21日]] 大宮で[[安部磯雄]]らと廃娼演説 |
* [[1900年]](明治33年) |
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::[[1月21日]] 大宮で[[安部磯雄]]らと廃娼演説 |
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::[[2月15日]]〜22日:[[渡良瀬川]]・[[足尾]]へ[[鉱毒]]視察 |
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::[[3月2日]]:[[吉原 (東京都)|吉原]]妓楼の少女津田きみを保護 |
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::3月 毎日新聞社で[[田中正造]]と初対面 |
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::[[3月24日]]:[[社会主義協会]]に加入 |
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::[[6月18日]]:『足尾鉱毒問題』発刊 |
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::[[10月12日]]:『廃娼之急務』発刊 |
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::[[12月20日]]:和賀操子(旧[[盛岡藩]]士族・和賀義信の娘)と結婚 |
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* [[1901年]](明治34年)[[3月2日]]:社会主義協会演説会で「社会主義の実行」を演説 |
* [[1901年]](明治34年) |
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::[[3月2日]]:社会主義協会演説会で「社会主義の実行」を演説 |
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::[[4月21日]]:足利で[[内村鑑三]]らと鉱毒演説会を開く |
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::[[5月18日]]:社会民主党結成し、幹事になる。20日禁止を受ける |
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::[[9月28日]]:横浜で幸徳秋水、片山潜と普通選挙演説会 |
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::[[12月27日]]:学生の大挙鉱毒視察を引率 |
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* [[1902年]](明治35年)[[8月10日]]:この日投票の衆院選で前橋から立候補したが落選 |
* [[1902年]](明治35年)[[8月10日]]:この日投票の衆院選で前橋から立候補したが落選 |
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* [[1903年]](明治36年)[[3月2日]]〜7日:社会主義大阪大会に参加 |
* [[1903年]](明治36年) |
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::[[3月2日]]〜7日:社会主義大阪大会に参加 |
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::[[9月23日]]ころ 社会主義協会で[[非戦論]]の発表を提唱 |
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* [[1904年]](明治37年)[[1月1日]]:「火の柱」の毎日新聞連載始まる(~[[3月20日]]) |
* [[1904年]](明治37年) |
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::[[1月1日]]:「火の柱」の毎日新聞連載始まる(~[[3月20日]]) |
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::[[5月10日]]:『火の柱』発刊 |
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* [[1905年]](明治38年)[[9月26日]]:[[平民社]]解散が決定。[[石川三四郎]]と雑誌発刊を計画 |
* [[1905年]](明治38年) |
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::[[9月26日]]:[[平民社]]解散が決定。[[石川三四郎]]と雑誌発刊を計画 |
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::[[11月10日]]:雑誌『新紀元』を創刊し、13号まで発刊 |
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* [[1906年]](明治39年)[[5月6日]]:母くみ永眠、8日葬儀 |
* [[1906年]](明治39年) |
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::[[5月6日]]:母くみ永眠、8日葬儀 |
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::[[6月25日]]ころ:日本社会党に入党 |
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::[[7月6日]]:田中正造拘引で栃木町[[谷中村]]を石川三四郎と訪問 |
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::[[7月31日]]:『東京毎日新聞』を退社 |
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::[[9月11日]]:幸徳秋水、堺利彦と会談、社会主義運動から離れる |
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* [[1907年]](明治40年)[[6月22日]]:谷中村破壊の前夜の会合で演説 |
* [[1907年]](明治40年) |
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::[[6月22日]]:谷中村破壊の前夜の会合で演説 |
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::[[6月27日]]~[[7月8日]]ころ:谷中村強制破壊に立ち会う |
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* [[1910年]](明治43年)[[9月3日]]:『火の柱』『良人の自白』など[[発売禁止]]処分を受ける |
* [[1910年]](明治43年)[[9月3日]]:『火の柱』『良人の自白』など[[発売禁止]]処分を受ける |
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* [[1913年]]([[大正]]2年)[[8月11日]]〜[[9月8日]]:田中正造を看病するため[[佐野]]に滞在([[9月4日]]田中正造永眠) |
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[8月11日]]〜[[9月8日]]:田中正造を看病するため[[佐野市|佐野]]に滞在([[9月4日]]田中正造永眠) |
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* [[1922年]](大正12年)[[8月10日]]:『田中正造翁』発刊 |
* [[1922年]](大正12年) |
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::[[8月10日]]:『田中正造翁』発刊 |
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::[[11月30日]]:『岡田虎二郎先生写真帖』発刊 |
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* [[1929年]](昭和4年)[[3月10日]]:『木下尚江集』第2巻を発刊(8月までに全4巻を発刊) |
* [[1929年]](昭和4年)[[3月10日]]:『木下尚江集』第2巻を発刊(8月までに全4巻を発刊) |
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* [[1933年]](昭和8年)[[12月10日]]:明治文学談話会に出席。以後21回出席 |
* [[1933年]](昭和8年)[[12月10日]]:明治文学談話会に出席。以後21回出席 |
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* [[1934年]](昭和9年)[[9月3日]]:『神 人間 自由』発刊 |
* [[1934年]](昭和9年) |
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::[[9月3日]]:『神 人間 自由』発刊 |
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::[[10月10日]]:7日に永眠した[[深沢利重 (実業家)|深沢利重]]の葬儀で弔辞を読む |
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* [[1936年]](昭和11年)[[8月1日]]:妻操子永眠 |
* [[1936年]](昭和11年)[[8月1日]]:妻操子永眠 |
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* [[1937年]](昭和12年)[[3月29日]]:「島田三郎伝」の執筆を開始 |
* [[1937年]](昭和12年) |
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::[[3月29日]]:「島田三郎伝」の執筆を開始 |
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::[[9月13日]]:発病。胃癌と診断を受ける。 |
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::[[11月5日]]:[[東京市]][[滝野川区]][[西ヶ原]](現・[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]西ヶ原)の自宅で永眠<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)120頁</ref><ref>[http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/shimizuy/kinoshita/ 木下尚江研究 Webページ](清水靖久・九州大学教授のページ)から抜粋</ref> |
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== 分県騒動とのかかわり == |
== 分県騒動とのかかわり == |
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生涯[編集]
信濃国松本城下︵現長野県松本市︶に松本藩に代々使えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年︵明治7年︶には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉﹃学問のすゝめ﹄を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。1886年に東京の英吉利法律学校に入学したが、英国憲法の講座がなかったため東京専門学校に転校、クロムウェルの影響で法律を学び、1888年︵明治21年︶に卒業した[2]。 松本に戻り、しばらくは地元でローカル紙﹁信陽日報﹂の記者や社会運動家、弁護士などの活動をする。この頃、政治小説の習作的な作品が数篇残されている[3]。﹃信陽日報﹄は県庁問題で排斥されてつぶれ、さらに﹃信濃毎日新聞﹄に県庁問題の長論文を寄稿するなどしたこと地元の怒りを買い郷里を離れる。1893年﹃信府日報﹄入社、従兄弟にあたる百瀬興政[4]らと聖書の研究会をもち、その後内村鑑三不敬事件での教会の立場への義侠もあり、25歳で松本美以教会(現・日本基督教団松本教会)の中田久吉牧師より洗礼を受ける[5]。1894年には﹃信府日報﹄は尚江による社説のために治安妨害を理由に発行停止処分を受ける。1896年に﹃信濃日報﹄主筆。1897年、県議選関連の疑獄事件で拘引され、翌年重禁錮8か月・罰金10円・監視6か月の判決を受けてたが、控訴のために東京に護送されての鍛冶橋監獄に収容、無罪判決となって出所した。 1899年︵明治32年︶に毎日新聞︵旧横浜毎日新聞︶に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。 1901年︵明治34年︶には幸徳秋水、片山潜、堺利彦らの社会民主党の結成に参加する。日露戦争前夜には非戦論の論者として活躍。1904年に﹃毎日新聞﹄で、キリスト教社会主義の立場から非戦論を盛り込んだ小説﹁火の柱﹂を連載[5]。 1906年︵明治39年︶の母の死をきっかけに、社会主義から次第に離れるようになる。﹃新紀元﹄1906年10月10日に﹁旧友諸君に告ぐ﹂を発表した。田中正造の死期に立ち会い、看護を行っている。後年は人間主義の著作活動を行う。 教文館より﹃木下尚江全集﹄全20巻が刊行されている。また、松本市の松本市歴史の里内に木下尚江記念館がある。 1937年︵昭和12年︶11月5日、胃がんにより東京都滝野川の自宅で死去。享年69[6]。墓所は青山霊園(1ロ4-2-2)。年譜[編集]
分県騒動とのかかわり[編集]
1876年︵明治9年︶に松本を県庁所在地とする筑摩県が廃止されると、以後、松本町民︵当時︶はことあるごとに﹁県庁が北に偏りすぎている﹂として松本への移転を叫ぶようになった。木下の帰郷後の1890年︵明治23年︶、﹁移庁建議書﹂が県議会に上程され、否決されると、町の世論は﹁移庁論﹂から、筑摩県の再設置を求める﹁県分割論﹂へと変わった。 木下は当初、移庁論を積極的に推進したが、斯様な世論のすり替わりに対しては痛烈な批判をした。旧筑摩県全体ではなく、松本のみの都合を考えた﹁我田引水﹂とみたからである。 彼の言論は反発を呼び、松本の民衆から石を持って故郷から追い出された。この事件は地元住民の視野や価値観の狭隘さが如実に現れたもので、石川安次郎宛の手紙でも﹁松本の人が木を見て森を見なかったのは、山河に隔てられて狭いところでしか物事を考えられなかったから﹂としている。しかしこのことは、木下を一地方都市に留まらせずに中央の言論界で活躍させるきっかけを作ったといえる。著作リスト[編集]
小説 ●﹃火の柱﹄平民社 1904年︵﹃毎日新聞﹄1904年1月1日-3月20日︶ ●﹃良人の自白﹄東京毎日 ●前編 1904年︵﹃毎日新聞﹄1904年8月15日-11月10日︶ ●中編 1905年︵﹃毎日新聞﹄1905年4月1日-6月3日︶ ●後編 1905年︵﹃毎日新聞﹄1905年7月1日-10月16日︶ ●続篇 金尾文淵堂 1906年︵﹃毎日新聞﹄1906年1月1日-6月9日﹁新曙光﹂︶ ●﹃霊か肉か﹄︵上・下︶金尾文淵堂 1907-08年年 ●﹃乞食﹄昭文堂 1908年 ●﹃墓場﹄昭文堂 1908年︵﹃東京毎日新聞﹄1908年9月、その後中絶、加筆して刊行︶ ●﹃労働﹄昭文堂 1909年 ●﹃家宅﹄弘学館 1910年 その他- 『懺悔』1906年(自伝)
- 『飢渇』1907年(文集)
- 『荒野』1909年(評論)
- 『日蓮論』1910年(評伝)
- 『法然と親鸞』1911年(評伝)
- 『野人語』(1-3)1911年(文集)
- 『創造』1912年(文集)
- 『田中正造翁』1921年(評伝)
- 『神・人間・自由』1934年(文集)
- 『木下尚江集』(全4巻)春秋社 1929年
脚注[編集]
- ^ a b 東京堂年鑑編輯部編『出版年鑑 昭和13年版』東京堂、1938年、p.110
- ^ 『早稲田大学校友会会員名簿 〔昭和10年用〕』早稲田大学校友会、1934年、p.224
- ^ 柳田泉「「火の柱」雑記」(『火の柱』岩波文庫 1954年)
- ^ 「信州教育とキリスト教」p.15 キリスト新聞社 1982年
- ^ a b 荒正人「人と文学」(『日本文学全集5 徳富蘆花 木下尚江 岩野泡鳴集』)
- ^ 明治思想界の先駆者、死去『東京朝日新聞』(昭和12年11月6日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p115 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)120頁
- ^ 木下尚江研究 Webページ(清水靖久・九州大学教授のページ)から抜粋