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[[File:SUGI Koji.jpg|thumb|杉亨二]] |
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'''杉 亨二'''︵すぎ こうじ、[[文政]]11年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]︵[[1828年]][[9月10日]]︶ - [[1917年]]︵[[大正]]6年︶[[12月4日]]︶は、 |
'''杉 亨二'''︵すぎ こうじ、[[文政]]11年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]︵[[1828年]][[9月10日]]︶ - [[1917年]]︵[[大正]]6年︶[[12月4日]]︶は、日本の[[統計学|統計学者]]、[[官僚]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]]、[[法学博士]]。﹁日本近代統計の祖﹂と称される。初名は純道︵じゅんどう︶。柳樊斎と号した。
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[杉泰輔]]の長男として[[肥前国]]長崎︵現在の[[長崎県]][[長崎市]]︶に生まれる<ref>﹃人事興信録﹄第4版</ref>。[[大村藩]]の藩医村田徹斎の書生を経て、1848年に[[大阪市|大坂]]の[[適塾]]に入ったが、病のため同年帰国した。翌年には[[江戸]]に出て[[中津藩]][[江戸藩邸]]の蘭学校︵[[慶應義塾]]の前身、[[福澤諭吉]]が出府するのは[[1858年]]︵安政5年︶だがその後も慶應義塾に出入りしている︶で教えた後、[[1853年]]︵[[嘉永]]6年︶には[[勝海舟]]と知り合い、その塾の塾長から老中[[阿部正弘]]の侍講︵顧問︶となる。安政3年10月、阿部家の家老であったとき、老中阿部に建白し、物産学・政事学・兵学・究理学・航海学などを学ばせるため留学生派遣の要を説いた。
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[[杉泰輔]]の長男として[[肥前国]]長崎(現在の[[長崎県]][[長崎市]])に生まれる<ref>『人事興信録』第4版</ref>{{Efn|誕生日について、[[旧暦]]8月2日とする説と9月2日とする説がある<ref name="佐藤"> |
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[[1860年]]︵[[万延]]元年︶に[[江戸幕府]]の[[蕃書調所]]教授手伝となり、[[1864年]]には[[開成所]]教授となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際に[[バイエルン王国]]︵現在の[[ドイツ]]・[[バイエルン州]]︶における[[識字率]]についての記述に触れたのが統計学と関わるきっかけになった、と後年回想している。
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{{Citation|language=ja |
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| author = 佐藤正広 |
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| contribution = 杉亨二と統計: 維新を生きた蘭学者 |
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| title = 近代日本統計史 |
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| editor =佐藤正広 |
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| publisher = 晃洋書房 |
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| date = 2020-02-20 |
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| pages = 3-29 |
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| isbn = 9784771033030 |
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| ncid = BB29793119 |
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}} |
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</ref>{{Rp|page=10}}。 |
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}}。9-10歳の頃に両親と死別し、祖父・[[杉敬輔]]の友人[[上野俊之丞]]が経営する上野舶来本店(長崎の時計店)に[[丁稚]]奉公に入る<ref name="宮川"> |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 宮川公男 |
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| title = 統計学の日本史: 治国経世への願い |
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| publisher = 東京大学出版会 |
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| date = 2017 |
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| isbn = 9784130430395 |
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| ncid = BB24506479 |
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}} |
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</ref>{{Rp|page=31}}。同店は[[精密機械]]の高度な技術を有していたほか、[[オランダ]]からの書物をふくむ多様な[[舶来品]]をあつかっていた。そのため、[[緒方洪庵]]、[[緒方摂蔵]]、[[手塚律蔵]]、[[村田徹斎]]など多くの[[蘭学者]]が出入りしていた。杉はここで緒方摂蔵から借りて読んだ﹃医範提綱﹄<ref>
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{{Cite book |和書 |
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| author = 宇田川榛齋・藤井方亭 |
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| title = 西説醫範提綱釋義 3巻 |
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| publisher = 須原屋伊八, 河内屋儀助 : 河内屋太助 |
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| date = 18-- |
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| ncid = BB22461653 |
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| doi = 10.20730/200021822 |
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}}</ref> |
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に感銘を受け、医学を志す{{R|佐藤}}{{Rp|page=12}}。村田徹斎が[[大村藩]]の[[藩医]]になることになった際、杉は村田に従って大村に移り、村田の[[書生]]となる{{R|宮川}}{{Rp|page=32}}。[[1848年]]︵嘉永元年︶に[[大阪市|大坂]]の[[適塾]]に入り、[[蘭学]]を勉強したが、[[脚気]]を患い、同年大村に帰った<ref name="自叙伝">
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{{Cite book |和書 |
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| author = 杉亨二 (口述); 河合利安 (筆記/解説) |
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| title = 杉亨二自叙傳 |
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| publisher = 杉八郎 |
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| date = 1918-05-18 |
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| ncid = BN09528007 |
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| doi = 10.11501/980787 |
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}}</ref>。 |
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[[1849年]](嘉永2年)、江戸詰めになった村田にともなわれて[[江戸]]に出、[[手塚律蔵]]や[[杉田成卿]]から[[オランダ語]]のみならず[[英語]]・[[フランス語]]も習う<ref name="島村"> |
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[[明治維新]]後は[[静岡藩]]に仕え、[[1869年]]([[明治]]2年)には「[[駿河国人別調]]」を実施したが、藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった。 |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 島村史郎 |
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| title = 日本統計発達史 |
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| publisher = 日本統計協会 |
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| date = 2008 |
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| isbn = 9784822334888 |
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| ncid = BA86024968 |
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}} |
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</ref>{{Rp|page=11}}。その後、[[中津藩]]の[[江戸藩邸]]で[[蘭学]]を講じることになる{{Efn|この時期、諸藩が蘭学に力を入れるようになった。中津藩から杉へのこの依頼も、そうした動きの一環である。なお、おなじ藩邸で中津藩士の[[福澤諭吉]]が[[1858年]]︵安政5年︶蘭学校を開き、これが[[慶應義塾]]の前身となった。
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<!-- その後も慶應義塾に出入りしている --> |
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}}。[[1853年]]︵嘉永6年︶には勝麟太郎︵[[勝海舟]]︶と知り合い、多忙な勝に代わって勝の私塾でオランダ語を教える{{R|宮川}}{{Rp|page=33}}。同時期に伊澤美作守︵[[伊沢政義]]︶とも懇意となる{{R|自叙伝}}{{Rp|page=25}}。
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[[1856年]](安政3年)、勝が[[長崎海軍伝習所]]に入所する際に同行を希望したが、幕府に勝が提出した同行者推薦名簿を見た老中[[阿部正弘]]が杉に興味を持った{{Efn|名簿には氏名と出身が書いてあった程度であり、能力や業績がわかる資料が付いていたわけではない。島村{{R|島村}}{{Rp|page=11}} は、杉が[[町人]]の出であり、[[侍]]でなかったことで、長崎への同行に差し障りがあったと推測している。}} |
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明治4年12月24日([[1872年]][[2月2日]])に[[太政官]]正院政表課大主記(現在の[[総務省]]統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」(辛未政表)の編成を行う。 |
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ことから、結局長崎には行かず、伊沢の斡旋で阿部家の[[侍講]]︵顧問︶となった{{R|自叙伝}}{{Rp|page=28}}。杉による[[地理]]書や[[文法]]書の講釈を聴いた阿部は、感心して﹁入用の書あらば申出られたし幾何なりとも購入すべし﹂<ref name="河合">
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{{Cite book |和書 |
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| author = 河合利安 |
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| contribution = 杉先生略傳 |
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| title = 杉亨二自叙傳 |
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| publisher = 杉八郎 |
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| date = 1918-05-18 |
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| ncid = BN09528007 |
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| doi = 10.11501/980787 |
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}}</ref>{{Rp|page=25}} と言い、その後機会あるごとに杉を陪席させている{{R|自叙伝}}{{Rp|page=30}}。同年、杉は中林きん{{Efn|
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加地<ref name="加地"> |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 加地成雄 |
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| title = 杉亨二伝 |
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| publisher = 葵書房 |
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| date = 1960 |
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| ncid = BA42528068 |
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| doi = 10.11501/2975113 |
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}} |
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</ref>{{Rp|page=74}} |
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は、妻の名を「金(きん)子」としている。 |
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}} (阿部家お側役であった中林勘之助の妹)と結婚{{R|自叙伝}}{{Rp|page=31}} |
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<ref name="薮内"> |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 薮内武司 |
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| title = 日本統計発達史研究 |
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| publisher = 法律文化社 |
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| date = 1995 |
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| series = 岐阜経済大学研究叢書 7 |
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| isbn = 4589018896 |
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| ncid = BN12835627 |
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}}</ref>{{Rp|page=16}}。この時期にヨーロッパ留学の話を進めていたが、阿部の死去により頓挫した︵結局、杉は生涯一度も海外に出ていない︶{{R|細谷}}。この際、杉は、物産学・政事学・兵学・究理学・航海学などを学ばせるための留学生派遣の要を説く嘆願書{{R|河合}}{{Rp|pages=26-27}}を作成している{{R|細谷}}。
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[[1860年]]([[万延]]元年)に[[江戸幕府]]の[[蕃書調所]]教授手伝となった。[[1864年]]には幕府直参として登用され、蕃書調所が改組されてできた[[開成所]]の教授並となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際に[[バイエルン王国]](現在の[[ドイツ]]・[[バイエルン州]])における[[識字率]]についての記述に触れたのが[[統計]]と関わるきっかけになった、と後年回想している{{R|自叙伝}}{{Rp|page=41}}。また、[[1866年]](慶應元年)に[[オランダ]]留学から帰った[[西周_(啓蒙家)|西周]]、[[津田真道]]との交流からも、統計への興味を深めていった{{R|島村}}{{Rp|page=4}}。津田から借りた留学中の統計学ノートを、杉は「形勢学論」<ref> |
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{{Cite book|和書 |
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|title=形勢学論 |
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|edition=書写資料 |
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|author=Simon Vissering |
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|others = 杉亨二 (訳) |
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|date = 1869? |
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|hdl=2065/6771 |
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|series=早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料 A118 |
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}} |
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</ref> |
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として翻訳している{{R|細谷}}。自叙伝{{R|自叙伝}}{{Rp|page=36}} によれば、名を改めて﹁亨二﹂としたのはこの頃である{{Efn|ただし、自叙伝{{R|自叙伝}} は杉が高齢︵88歳︶になってからの聴き取りであり、あいまいな部分や記憶違いが多いことに注意する必要がある。細谷{{R|細谷}}{{Rp|page=21}} は、[[適塾]]の門人名簿にすでに﹁亨二﹂と読める名が記載されていることを指摘している。宮川{{R|宮川}}{{Rp|page=33}} は[[勝海舟]]の私塾でオランダ語を教えていた時期、薮内{{R|薮内}}{{Rp|page=16}} はその後[[阿部正弘]]の知遇を得た時期に改名したとそれぞれ書いているが、いずれも典拠不明。}}。
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[[明治維新]]後は、駿河に移封となった[[徳川将軍家|徳川家]]にしたがって[[静岡藩]]に仕え、他の開成所メンバーと同様に、[[向山黄村]]・[[津田真道]]が学頭をつとめる[[静岡学問所]]で教える<ref> |
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{{Cite journal |和書 |
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| author = 山下太郎 |
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| title = 明治の文明開化のさきがけ: 静岡学問所とイギリス哲学 |
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| journal = イギリス哲学研究 |
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| issn = 03877450 |
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| publisher = 日本イギリス哲学会 |
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| date = 1980-03-31 |
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| volume = 3 |
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| pages = 33-43 |
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| naid = 130007411272 |
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| doi = 10.24587/sbp.1980_033 |
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}} |
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</ref>。[[沼津]]・[[駿府|府中]]の両奉行の協力を得て{{Efn|当時、杉と同様に徳川家に付き従って移り住んだ幕臣が多かったため、これに起因する人口移動によって、静岡周辺は混乱状態にあった。地元行政組織が人別調に協力的だった背景として、このような状況下で人口の状態を精確に知りたいと行政側も考えていたと推測できる。{{R|丸山}}
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}}、[[1869年]]︵[[明治]]2年︶に﹁[[駿河国人別調]]﹂︵人口センサス︶を実施したが、静岡藩上層部から[[版籍奉還]]を契機とする反対論が出たため、途中で打ち切った{{R|薮内}}。ただし、一部地域︵駿東郡の沼津および原︶での調査と集計は完成しており、そこから作成した﹁駿河国沼津政表﹂﹁駿河国原政表﹂<ref>
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{{Cite book |和書 |
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| editor = 杉亨二・世良太一 |
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| title = 杉先生講演集 |
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| publisher = 横山雅男 |
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| date = 1902-08 |
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| ncid = BN05941908 |
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| doi = 10.11501/898298 |
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}} |
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</ref> |
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が残っている。その後は、[[西周_(啓蒙家)|西周]]が校長をつとめる[[沼津兵学校]]でフランス語を講じる{{R|加地}}{{Rp|page=88}}。
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明治3年7月︵[[1872年]]︶[[民部省 (明治時代)|民部省]]に出仕。[[戸籍]]調査を命じられるが、これを拒否して辞任し、静岡に戻る{{R|島村}}{{Rp|page=15}}。その際、民部・大蔵[[大輔]]であった[[大隈重信]]に建白書を提出し、[[婚姻]]の自由化と[[土下座]]の廃止を主張している{{R|河合}}{{Rp|page=57}}。
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明治4年12月24日([[1872年]][[2月2日]])に[[太政官 (明治時代)|太政官]][[正院]]政表課大主記(現在の[[総務省]]統計局長にあたる)に任ぜられる。ここで政府内の事務について調査し、翌明治5年『辛未政表』<ref> |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 杉亨二 |
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| title = 辛未政表 |
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| edition = 木版 |
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| publisher = 御用御書物師 |
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| date = 1872 |
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| ncid = BA36486677 |
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| doi = 10.11501/994348 |
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}}</ref> を作成した([[辛未]]は調査年の[[干支]]、「政表」は[[統計]]の意味)。明治6年は『壬申政表』<ref> |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 太政官政表課 |
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| title = 壬申政表 |
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| edition = 復刊版 |
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| publisher = 日本統計協会 |
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| origdate = 1873 |
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| date = 1962 |
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| series = 統計古書シリーズ 2 |
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| ncid = BN13297950 |
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| doi = 10.11501/3023667 |
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}}</ref>、明治7年以降は『日本政表』<ref> |
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{{Cite book |和書 |
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| author = 太政官調査局 |
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| title = 日本政表 |
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| publisher = 調査局 |
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| date = 1876-1878 |
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| ncid = BN16140536 |
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}}</ref> の編成を行う。このシリーズは次第に搭載する統計の範囲を拡大していき、後の『統計要覧』『日本統計年鑑』の源流となる<ref> |
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{{Cite web|和書|url=https://www.stat.go.jp/data/nenkan/pdf/120ayumi.pdf |
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| format=PDF |
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| title=「日本統計年鑑」120 回の歩み |
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| publisher = 総務省統計局 |
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| website = www.stat.go.jp |
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| accessdate = 2023-06-29 |
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}} |
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</ref>。 |
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[[1873年]](明治6年)には[[明六社]]の結成に参加している。 |
[[1873年]](明治6年)には[[明六社]]の結成に参加している。 |
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[[1874年]](明治7年)太政官正院政表課課長となる{{R|宮川}}{{Rp|page=35}}。 |
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一方、現在の[[国勢調査]]にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するために[[1879年]](明治12年)に日本における国勢調査の先駆となる「[[甲斐国現在人別調]]」を[[甲斐国]]([[山梨県]])で実施した。同年の[[12月31日]]午後12時現在人を対象として行い、調査人2,000人、調査費用は約5,760円、そして調査対象となる甲斐国の現在人数は397,416人という結果を得た。初の人口動態統計調査で、完成は1882年10月10日。 |
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現在の[[国勢調査]]にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するために[[1879年]](明治12年)に日本における国勢調査の先駆となる「[[甲斐国現在人別調]]」を[[甲斐国]]([[山梨県]])で実施した。調査員2,000人を動員し、調査費用約5,760円を費やして、同年[[12月31日]]午後12時現在の甲斐国人口は397,416人という結果を得た。日本初の人口静態統計調査で、完成は[[1882年]]10月10日。(なお、その後[[1885年]](明治18年)にはおなじ地域の人口動態統計調査として「甲斐国人員運動調」を開始したが、杉の辞任により中止になっている。この調査はほとんど資料が残っておらず、詳細不明である。)<ref name="細谷"> |
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その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。統計学研究のための組織である表記学社や製表社(後に変遷を経て東京統計協会)を設立して後進育成を図る一方、[[1883年]](明治16年)9月には統計院有志とともに共立統計学校を設立し自ら教授長に就任した。しかし、「統計学校」の「統計」という訳語が、スタティスティックスの本来の意味を表現していないとしてよしとせず、自ら漢字を創作して使用した。<ref>『ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語-』丸山健夫 日科技連出版社 2008年(2章は杉の伝記) ISBN 9784817192738</ref> |
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{{Cite book |和書 |
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| title= 解題 |
|||
| author = 細谷新治 |
|||
| date = 1980 |
|||
| series = [寸多] [知寸] [知久] 歴史及理論之部 別冊 (日本統計協会創立100周年事業) |
|||
| ncid = BN03166151 |
|||
| doi = 10.11501/12011762 |
|||
}}</ref> |
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<ref> |
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{{Citation|language=ja |
|||
| author = 森博美 |
|||
| contribution = 明治31年内閣訓令第1号乙号と調査票情報 |
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| title = 近代日本統計史 |
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| editor =佐藤正広 |
|||
| publisher = 晃洋書房 |
|||
| date = 2020-02-20 |
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| pages = 175-207 |
|||
| isbn = 9784771033030 |
|||
| ncid = BB29793119 |
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}} |
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</ref> |
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この間、太政官正院政表課は、[[1880年]](明治13年)3月3日に政府の組織改編により会計部統計課となり、その翌年5月30日に統計院となった。しかし、統計院院長であった[[大隈重信]]が[[明治十四年の政変]]で下野したため、統計院の勢力は縮小する。[[1885年]](明治18年)12月、[[内閣 (日本)|内閣]]制度が発足して[[太政官 (明治時代)|太政官]]が廃止となった機会に、杉は官職を辞した。最後の官職は統計院大書記官である。これ以後は民間にあって統計の普及につとめた。杉は眼を患っており、特に左目はこの頃までにほとんど見えなくなっていたということで、それが退官の理由だという推測もある{{R|細谷}}{{Rp|page=80}}。 |
|||
[[1885年]]︵明治18年︶12月、統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及につとめた。[[1910年]]︵明治43年︶には国勢調査準備委員会委員となり、統計学者の[[呉文聰]]や衆議院議員の[[内藤守三]]らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力したが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして病没した。享年90。[[勲等|勲二等]][[瑞宝章]]、没後[[従四位]]を追贈される。墓所は[[東京都]][[豊島区]][[染井霊園]]内。
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政府で統計行政に携わっていたころから、杉は統計専門家や統計学者の養成にも力を注いでいた。[[統計学]]研究のための組織である表記学社(1876年設立、1878年スタチスチック社に改名)や製表社(後に変遷を経て東京統計協会){{Efn|スタチスチック社(その後統計学社と改名)と東京統計協会(旧製表社)は[[1944年]]に合併して財団法人大日本統計協会となった。[[1947年]]に[[日本統計協会]]となり、現在に至る。<ref> |
|||
胸像が出身地である長崎市の長崎公園内にあり、長崎市統計課が杉の命日(12月4日)に献花式を毎年行っている。 |
|||
{{Cite web|和書|url=https://www.jstat.or.jp/about/ |
|||
| title=協会案内 |
|||
| publisher = 日本統計協会 |
|||
| website=www.jstat.or.jp |
|||
| accessdate = 2023-07-01 |
|||
}} |
|||
</ref>}} を設立して後進育成を図った。[[1883年]]︵明治16年︶9月には統計院有志とともに半官半民の共立統計学校を設立し、自ら教授長に就任するが、2年で閉校となってしまった。この共立統計学校が輩出したのは一期生のみであるが、その卒業者名簿には、[[横山雅男]]ほか次世代を代表する統計家が名を連ねる。
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この当時、statistics あるいはそれと同義のヨーロッパ諸言語の日本語訳として、﹁統計﹂のほか﹁政表﹂﹁製表﹂﹁表紀﹂﹁表記﹂﹁形勢学﹂﹁経国学﹂などが使われていた。杉も初期には﹁経国学﹂﹁政表﹂を使用していたが、やがて、本来の意味を表現していないとしてこれらの訳語に批判的になり、原語のまま﹁スタチスチック﹂とすることにこだわった{{R|島村}}。﹁寸多﹂︵スタ︶﹁知寸﹂︵チス︶﹁知久﹂︵チック︶のように漢字2文字ずつを組み合わせた新字を作ることも提唱し、実際に使っている<ref>
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|||
{{Cite book |和書 |
|||
| author = 杉亨二 (口述); 横山雅男 (筆記) |
|||
| title = [寸多] [知寸] [知久] 歴史及理論之部 巻一 |
|||
| edition =復刻版 |
|||
| publisher = 日本統計協会 |
|||
| origdate = 1883 |
|||
| date = 1980 |
|||
| series = 日本統計協会創立100周年事業 |
|||
| ncid = BN03166151 |
|||
| doi = 10.11501/12011861 |
|||
}} |
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(共立統計学校における杉の授業を受講した[[横山雅男]]が書きとった講義ノート:復刻版) |
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</ref> |
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<ref name="丸山"> |
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{{Cite book|和書 |
|||
| title=ナイチンゲールは統計学者だった!-統計の人物と歴史の物語- |
|||
| author=丸山健夫 |
|||
| publisher = 日科技連出版社 |
|||
| date =2008 |
|||
| isbn= 9784817192738 |
|||
}} |
|||
(第2章が杉の伝記) |
|||
</ref>。 |
|||
[[1903年]](明治36年)法学博士{{R|佐藤}}{{Rp|page=10}}。 |
|||
[[1909年]]︵明治42年︶妻きん、74歳で死去{{R|細谷}}{{Rp|page=139}}。翌年、杉は[[国勢調査_(日本)|国勢調査]]準備委員会委員となり、統計学者の[[呉文聰]]や衆議院議員の[[内藤守三]]らとともに、長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力した。第1回の国勢調査は[[1920年]]︵大正9年︶に行われたが、杉はそれを見届けることはできなかった。[[1917年]]︵大正6年︶12月4日、長年の運動が実って第1回国勢調査の経費を計上した予算案が公表されたその日に、杉は病のため世を去った<ref>
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|||
{{Cite book |和書 |
|||
| author = 川島博 |
|||
| title = 国勢調査論講 |
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胸像が出身地である[[長崎市]]の[[長崎公園]]内にあり、長崎市統計課が杉の命日([[12月4日]])に献花式を毎年行っている。 |
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== 親族 == |
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長女・春子は[[手島精一]]の妻<ref name=usui>[http://repository.tokaigakuen-u.ac.jp/dspace/bitstream/11334/1179/1/KJ00000118921.pdf 官立東京女学校の基礎的研究 : 在学生の﹁生活史﹂の追跡調査]碓井知鶴子、東海学園女子短期大学 紀要 (19), 64-80, 1984-07-20</ref>。次女・里子は[[高山樗牛]]の妻。陽は[[東京女学校]]で学び、[[平井晴二郎]]の妻となったが若くして没した<ref name=usui/>。
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孫に[[オリエント学|オリエント学者]]の杉勇、日本光学工業(現ニコン)の元社長・会長の杉豊(勇の弟)がいる。第8回徳川賞受賞者 |
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孫に[[オリエント学|オリエント学者]]の[[杉勇]]、日本光学工業(現ニコン)の元社長・会長の杉豊(勇の弟)がいる。第8回徳川賞受賞者 |
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[http://www.tokugawa.ne.jp/encourage_2010.htm]の杉仁は曾孫。 |
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== 栄典 == |
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* [[1902年]](明治35年)[[12月15日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』第5837号「叙任及辞令」1902年12月16日。{{NDLDC|2949140}}</ref> |
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== 著書 == |
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*『杉亨二自叙傳』1915年/2005年3月復刻([[日本統計協会]]) |
*『杉亨二自叙傳』1915年/2005年3月復刻([[日本統計協会]]) |
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== 出典 == |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |
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*『杉亨二伝』 [[加地成雄]]、葵書房、1960年 |
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| author = 加地成雄 |
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* [[塚谷晃弘]]「杉亨二の学問と思想―明治の忘れられた一思想家像」[[史学雑誌]]76-8、[[1967年]]8月 |
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| title = 杉亨二伝 |
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* 第2回OLIS-慶應義塾大学保険フォーラム [http://www.hfea.info/data/20091107forum_komuro.pdf 福澤諭吉と保険事業] [[小室正紀]] |
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| publisher = 葵書房 |
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| date = 1960 |
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* {{Cite journal |和書 |
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| author =塚谷晃弘 |
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| title = 杉亨二の学問と思想: 明治の忘れられた一思想家像 |
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| journal = 史学雑誌 |
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| publisher = 史学会 |
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| date = 1967-08 |
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| pages = 72-86 |
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* {{Cite web|和書|url=http://www.olis.or.jp/hfea/pdf/20091107forum_komuro.pdf | title=福澤諭吉と保険事業 | author=小室正紀| authorlink=小室正紀| work=第2回OLIS-慶應義塾大学保険フォーラム | date=2009-11-07 | accessdate = 2023-07-01 | format=PDF}} |
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== 登場作品 == |
== 登場作品 == |
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* ﹃勝海舟﹄- [[子母澤寛]]の小説。新潮社、1964年<ref>{{Cite book |title=勝海舟 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000985848-00 |publisher=新潮社 |date=1964 |location=東京 |first=子母沢 |last=寛}}</ref>。﹁杉純道﹂として登場。
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* [[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]](1974年・[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、演:[[江守徹]]) - 「杉純道」として登場。 |
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** 『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』 - 上記の小説を基にした[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]](1974年、演:[[江守徹]])<ref>{{Cite web|和書|title=勝海舟(ドラマ)の出演者・キャスト一覧 {{!}} WEBザテレビジョン(4759) |url=https://thetv.jp/program/0000944759/cast/ |website=WEBザテレビジョン |access-date=2023-06-27 |language=ja}}</ref>。 |
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* '''﹃'''[[仰ぎ見る大樹]]'''﹄''' - [[戸辺秀]]の小説。[[健友館]]、2000年。杉亨二の生涯を勝海舟との師弟愛を交えて描く。<ref>{{Cite web|和書|title=仰ぎ見る大樹 |url=https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784773705034 |website=紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア |access-date=2023-06-27 |language=ja}}</ref>
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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*[[明六社]] |
*[[明六社]] |
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*[[統計局]] - [[統計センター]] (政表課を源流とする現存組織) |
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*[[呉文聰]] - [[寺田勇吉]] - [[岡松徑]] (政表課の同僚/部下) |
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*[[大隈重信]] - [[鳥尾小弥太]] (統計院の上司) |
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*[[清水次郎長]] (駿河国人別調の際に交流) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[ |
*[https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kenseijoho/toukeijoho/kokusei/r2-kokusei/515310.html 日本近代統計の祖「杉亨二(すぎこうじ)」先生] - 長崎県HP内の紹介ページ |
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*[https://ja-jp.facebook.com/nagasakitokei/ 長崎県統計課facebook] - 杉亨二をモチーフにしたキャラクター「杉さん」を紹介している。 |
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*[http://www.stat.go.jp/training/toshokan/sugi.htm 日本近代統計の祖「杉 亨二」(総務省統計研修所/統計資料館 内の紹介ページ)] |
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*[https://web.archive.org/web/20030430190345/http://www.pref.nagasaki.jp/toukei/kids/toukeinitsuite/nagasaki_toukei/toukei_nagasaki.htm 長崎県統計課『とうけいキッズ』内の紹介ページ] (アーカイブ) |
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*[https://web.archive.org/web/20110522205246/https://www.stat.go.jp/training/toshokan/sugi.htm 日本近代統計の祖「杉 亨二」(総務省統計研修所/統計資料館 内の紹介ページ)](アーカイブ) |
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生涯[編集]
杉泰輔の長男として肥前国長崎︵現在の長崎県長崎市︶に生まれる[1][注釈 1]。9-10歳の頃に両親と死別し、祖父・杉敬輔の友人上野俊之丞が経営する上野舶来本店︵長崎の時計店︶に丁稚奉公に入る[3](p31)。同店は精密機械の高度な技術を有していたほか、オランダからの書物をふくむ多様な舶来品をあつかっていた。そのため、緒方洪庵、緒方摂蔵、手塚律蔵、村田徹斎など多くの蘭学者が出入りしていた。杉はここで緒方摂蔵から借りて読んだ﹃医範提綱﹄[4] に感銘を受け、医学を志す[2](p12)。村田徹斎が大村藩の藩医になることになった際、杉は村田に従って大村に移り、村田の書生となる[3](p32)。1848年︵嘉永元年︶に大坂の適塾に入り、蘭学を勉強したが、脚気を患い、同年大村に帰った[5]。 1849年︵嘉永2年︶、江戸詰めになった村田にともなわれて江戸に出、手塚律蔵や杉田成卿からオランダ語のみならず英語・フランス語も習う[6](p11)。その後、中津藩の江戸藩邸で蘭学を講じることになる[注釈 2]。1853年︵嘉永6年︶には勝麟太郎︵勝海舟︶と知り合い、多忙な勝に代わって勝の私塾でオランダ語を教える[3](p33)。同時期に伊澤美作守︵伊沢政義︶とも懇意となる[5](p25)。 1856年︵安政3年︶、勝が長崎海軍伝習所に入所する際に同行を希望したが、幕府に勝が提出した同行者推薦名簿を見た老中阿部正弘が杉に興味を持った[注釈 3] ことから、結局長崎には行かず、伊沢の斡旋で阿部家の侍講︵顧問︶となった[5](p28)。杉による地理書や文法書の講釈を聴いた阿部は、感心して﹁入用の書あらば申出られたし幾何なりとも購入すべし﹂[7](p25) と言い、その後機会あるごとに杉を陪席させている[5](p30)。同年、杉は中林きん[注釈 4] ︵阿部家お側役であった中林勘之助の妹︶と結婚[5](p31) [9](p16)。この時期にヨーロッパ留学の話を進めていたが、阿部の死去により頓挫した︵結局、杉は生涯一度も海外に出ていない︶[10]。この際、杉は、物産学・政事学・兵学・究理学・航海学などを学ばせるための留学生派遣の要を説く嘆願書[7](pp26-27)を作成している[10]。 1860年︵万延元年︶に江戸幕府の蕃書調所教授手伝となった。1864年には幕府直参として登用され、蕃書調所が改組されてできた開成所の教授並となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際にバイエルン王国︵現在のドイツ・バイエルン州︶における識字率についての記述に触れたのが統計と関わるきっかけになった、と後年回想している[5](p41)。また、1866年︵慶應元年︶にオランダ留学から帰った西周、津田真道との交流からも、統計への興味を深めていった[6](p4)。津田から借りた留学中の統計学ノートを、杉は﹁形勢学論﹂[11] として翻訳している[10]。自叙伝[5](p36) によれば、名を改めて﹁亨二﹂としたのはこの頃である[注釈 5]。 明治維新後は、駿河に移封となった徳川家にしたがって静岡藩に仕え、他の開成所メンバーと同様に、向山黄村・津田真道が学頭をつとめる静岡学問所で教える[12]。沼津・府中の両奉行の協力を得て[注釈 6]、1869年︵明治2年︶に﹁駿河国人別調﹂︵人口センサス︶を実施したが、静岡藩上層部から版籍奉還を契機とする反対論が出たため、途中で打ち切った[9]。ただし、一部地域︵駿東郡の沼津および原︶での調査と集計は完成しており、そこから作成した﹁駿河国沼津政表﹂﹁駿河国原政表﹂[14] が残っている。その後は、西周が校長をつとめる沼津兵学校でフランス語を講じる[8](p88)。 明治3年7月︵1872年︶民部省に出仕。戸籍調査を命じられるが、これを拒否して辞任し、静岡に戻る[6](p15)。その際、民部・大蔵大輔であった大隈重信に建白書を提出し、婚姻の自由化と土下座の廃止を主張している[7](p57)。 明治4年12月24日︵1872年2月2日︶に太政官正院政表課大主記︵現在の総務省統計局長にあたる︶に任ぜられる。ここで政府内の事務について調査し、翌明治5年﹃辛未政表﹄[15] を作成した︵辛未は調査年の干支、﹁政表﹂は統計の意味︶。明治6年は﹃壬申政表﹄[16]、明治7年以降は﹃日本政表﹄[17] の編成を行う。このシリーズは次第に搭載する統計の範囲を拡大していき、後の﹃統計要覧﹄﹃日本統計年鑑﹄の源流となる[18]。 1873年︵明治6年︶には明六社の結成に参加している。 1874年︵明治7年︶太政官正院政表課課長となる[3](p35)。 現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査︵当時は﹁現在人別調﹂と称した︶を志し、その調査方法や問題点を把握するために1879年︵明治12年︶に日本における国勢調査の先駆となる﹁甲斐国現在人別調﹂を甲斐国︵山梨県︶で実施した。調査員2,000人を動員し、調査費用約5,760円を費やして、同年12月31日午後12時現在の甲斐国人口は397,416人という結果を得た。日本初の人口静態統計調査で、完成は1882年10月10日。︵なお、その後1885年︵明治18年︶にはおなじ地域の人口動態統計調査として﹁甲斐国人員運動調﹂を開始したが、杉の辞任により中止になっている。この調査はほとんど資料が残っておらず、詳細不明である。︶[10] [19] この間、太政官正院政表課は、1880年︵明治13年︶3月3日に政府の組織改編により会計部統計課となり、その翌年5月30日に統計院となった。しかし、統計院院長であった大隈重信が明治十四年の政変で下野したため、統計院の勢力は縮小する。1885年︵明治18年︶12月、内閣制度が発足して太政官が廃止となった機会に、杉は官職を辞した。最後の官職は統計院大書記官である。これ以後は民間にあって統計の普及につとめた。杉は眼を患っており、特に左目はこの頃までにほとんど見えなくなっていたということで、それが退官の理由だという推測もある[10](p80)。 政府で統計行政に携わっていたころから、杉は統計専門家や統計学者の養成にも力を注いでいた。統計学研究のための組織である表記学社︵1876年設立、1878年スタチスチック社に改名︶や製表社︵後に変遷を経て東京統計協会︶[注釈 7] を設立して後進育成を図った。1883年︵明治16年︶9月には統計院有志とともに半官半民の共立統計学校を設立し、自ら教授長に就任するが、2年で閉校となってしまった。この共立統計学校が輩出したのは一期生のみであるが、その卒業者名簿には、横山雅男ほか次世代を代表する統計家が名を連ねる。 この当時、statistics あるいはそれと同義のヨーロッパ諸言語の日本語訳として、﹁統計﹂のほか﹁政表﹂﹁製表﹂﹁表紀﹂﹁表記﹂﹁形勢学﹂﹁経国学﹂などが使われていた。杉も初期には﹁経国学﹂﹁政表﹂を使用していたが、やがて、本来の意味を表現していないとしてこれらの訳語に批判的になり、原語のまま﹁スタチスチック﹂とすることにこだわった[6]。﹁寸多﹂︵スタ︶﹁知寸﹂︵チス︶﹁知久﹂︵チック︶のように漢字2文字ずつを組み合わせた新字を作ることも提唱し、実際に使っている[21] [13]。 1903年︵明治36年︶法学博士[2](p10)。 1909年︵明治42年︶妻きん、74歳で死去[10](p139)。翌年、杉は国勢調査準備委員会委員となり、統計学者の呉文聰や衆議院議員の内藤守三らとともに、長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力した。第1回の国勢調査は1920年︵大正9年︶に行われたが、杉はそれを見届けることはできなかった。1917年︵大正6年︶12月4日、長年の運動が実って第1回国勢調査の経費を計上した予算案が公表されたその日に、杉は病のため世を去った[22](p103)。享年90。勲二等瑞宝章、没後従四位を追贈される。墓所は東京都豊島区染井霊園内。 胸像が出身地である長崎市の長崎公園内にあり、長崎市統計課が杉の命日︵12月4日︶に献花式を毎年行っている。親族[編集]
長女・春子は手島精一の妻[23]。次女・里子は高山樗牛の妻。陽は東京女学校で学び、平井晴二郎の妻となったが若くして没した[23]。 孫にオリエント学者の杉勇、日本光学工業︵現ニコン︶の元社長・会長の杉豊︵勇の弟︶がいる。第8回徳川賞受賞者 [1]の杉仁は曾孫。栄典[編集]
著書[編集]
- 『交易通史』 キイヒッツ著(訳書)、柳樊斎、1872年(明治5年)10月
- 『辛未政表』(編)、北畠茂兵衛ほか(発売)、1872年
- 『杉亨二自叙傳』1915年/2005年3月復刻(日本統計協会)
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●加地成雄﹃杉亨二伝﹄葵書房、1960年。doi:10.11501/2975113。 NCID BA42528068。 ●塚谷晃弘﹁杉亨二の学問と思想: 明治の忘れられた一思想家像﹂﹃史学雑誌﹄第76巻第8号、史学会、1967年8月、72-86頁、ISSN 00182478、NAID 40001511630。 ●小室正紀 (2009年11月7日). “福澤諭吉と保険事業” (PDF). 第2回OLIS-慶應義塾大学保険フォーラム. 2023年7月1日閲覧。登場作品[編集]
●﹃勝海舟﹄- 子母澤寛の小説。新潮社、1964年[1]。﹁杉純道﹂として登場。 ●﹃勝海舟﹄ - 上記の小説を基にしたNHK大河ドラマ︵1974年、演‥江守徹︶[2]。 ●﹃仰ぎ見る大樹﹄ - 戸辺秀の小説。健友館、2000年。杉亨二の生涯を勝海舟との師弟愛を交えて描く。[3]脚注[編集]
関連項目[編集]
- 明六社
- 統計局 - 統計センター (政表課を源流とする現存組織)
- 呉文聰 - 寺田勇吉 - 岡松徑 (政表課の同僚/部下)
- 大隈重信 - 鳥尾小弥太 (統計院の上司)
- 清水次郎長 (駿河国人別調の際に交流)
外部リンク[編集]
- 日本近代統計の祖「杉亨二(すぎこうじ)」先生 - 長崎県HP内の紹介ページ
- 長崎県統計課facebook - 杉亨二をモチーフにしたキャラクター「杉さん」を紹介している。
- 長崎県統計課『とうけいキッズ』内の紹介ページ (アーカイブ)
- 日本近代統計の祖「杉 亨二」(総務省統計研修所/統計資料館 内の紹介ページ)(アーカイブ)