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「水野廣徳」の版間の差分

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Stingfield (会話 | 投稿記録)
基礎情報、日本人捕虜観への影響
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{{基礎情報 軍人

[[画像:Mizuno Hironori.jpg|200px|thumb|晩年の水野]]

| 氏名 = 水野 廣徳

| 各国語表記 =

| 画像 = Mizuno Hironori.jpg

| 画像サイズ = 180px

| 画像説明 =

| 渾名 =

| 生年月日 = [[1875年]][[5月24日]]

| 生誕地 = [[愛媛県]][[松山市]]

| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1875|5|24|1945|10|18}}

| 死没地 = 愛媛県[[今治市]]

| 埋葬日 =

| 埋葬地 =

| 所属組織 = {{IJNAVY}}

| 軍歴 = 1900 - 1917

| 最終階級 = [[大佐|海軍大佐]]

| 除隊後 = 軍事評論家、[[著作家]]

}}



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[[愛媛県]][[松山市]]に生れる。幼少に両親を失い、伯父に育てられる。伯父の妻は[[秋山好古]]・[[秋山真之|真之]]兄弟の親戚。

[[愛媛県]][[松山市]]に生れる。幼少に両親を失い、伯父に育てられる。伯父の妻は[[秋山好古]]・[[秋山真之|真之]]兄弟の親戚。




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== 作品 ==

== 作品 ==

;『[[此一戦]]』

;『[[此一戦]]』

:明治44年(1911年)に博文館より刊行された[[日本海海戦]]を描いたルポルタージュである。明治38年(1905年)[[5月27日]]、[[東郷平八郎]]司令長官率いる[[連合艦隊]]は、当時無敵の艦隊として世界に名を轟かせたロシア・[[バルチック艦隊]]を[[日本海]]に迎え撃った。海軍大尉として従軍した水野は、日露両艦隊の戦力比較から[[丁字戦法]]、後に東郷ターンと言われた奇跡の敵前大回頭など、日本海海戦の実像を臨場感をもって記した。また戦闘の合間にある[[士官]]・兵卒の会話、バルチック艦隊の大遠征、秋山真之が敵艦に乗艦し[[降伏]]を受け入れる緊迫した場面などが克明に描かれている。当時のベストセラー作品であるが、[[常陸丸事件]]で降伏を拒否し自決した軍人を好意的に描き、その後の日本人[[捕虜]]観への影響が指摘される<ref>[[吹浦忠正]]『捕虜たちの日露戦争』NHKブックス、2005年。131頁</ref>。なお、『此一戦』が無許可出版であったので処罰されたとする評論がいくつかあるが、これは2作目の『次の一戦』の時のことである。『此一戦』は許可を受けての刊行であり、許可を得る際に当局の意を受けて海軍充実の意見を加筆しているし、東郷らの題字や[[加藤友三郎]]らの序文が掲載されてもいる。

:明治44年(1911年)に博文館より刊行。[[日本海海戦]]を描いたルポルタージュ。

:明治38年(1905年)[[5月27日]]、[[東郷平八郎]]司令長官率いる[[連合艦隊]]は、当時無敵の艦隊として世界に名を轟かせたロシア・[[バルチック艦隊]]を[[日本海]]に迎え撃った。海軍大尉として従軍した水野は、日露両艦隊の戦力比較から[[丁字戦法]]、後に東郷ターンと言われた奇跡の敵前大回頭など、日本海海戦の実像を臨場感をもって記した。また戦闘の合間にある[[士官]]・兵卒の会話、バルチック艦隊の大遠征、秋山真之が敵艦に乗艦し[[降伏]]を受け入れる緊迫した場面などが克明に描かれている。

:なお、『此一戦』が無許可出版であったので処罰されたとする評論がいくつかあるが、これは2作目の『次の一戦』の時のことである。『此一戦』は許可を受けての刊行であり、許可を得る際に当局の意を受けて海軍充実の意見を加筆しているし、東郷らの題字や[[加藤友三郎]]らの序文が掲載されてもいる。

;『次の一戦』

;『次の一戦』

:大正3年([[1914年]])に金尾文淵堂より刊行。日米戦争の未来戦記。

:大正3年([[1914年]])に金尾文淵堂より刊行。日米戦争の未来戦記。

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[[Category:日本のジャーナリスト]]

[[Category:日本のジャーナリスト]]

[[Category:反戦運動家]]

[[Category:反戦運動家]]

[[Category:日本の著作家]]

[[Category:愛媛県出身の人物]]

[[Category:愛媛県出身の人物]]

[[Category:1875年生]]

[[Category:1875年生]]


2014年2月9日 (日) 02:24時点における版

水野 廣徳
生誕 1875年5月24日
愛媛県松山市
死没 (1945-10-18) 1945年10月18日(70歳没)
愛媛県今治市
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1900 - 1917
最終階級 海軍大佐
除隊後 軍事評論家、著作家
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  1. ^ 「大正14年4月の中央公論に水野廣範(「廣徳」の誤り)氏は次の様に掲げた。我等は米国人の米国魂を買い被ぶることは愚かなると共に之を侮ることは大なる誤りである。…」
  2. ^ 吹浦忠正『捕虜たちの日露戦争』NHKブックス、2005年。131頁

関連項目

外部リンク

参考文献