「波多野精一」の版間の差分
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== 生涯 == |
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[[1877年]](明治10年)[[長野県]][[筑摩郡]]松本町(現:[[松本市]])に旧[[松本藩]]士波多野敬の次男として生まれる。[[1882年]](明治15年)父が[[大蔵省]]官吏となり、[[東京市]][[麹町区]]飯田町に移る。 |
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[[東京高等師範学校|高等師範学校]]附属小・中学校︵現 |
[[東京高等師範学校|高等師範学校]]附属小・中学校︵現‥[[筑波大学附属小学校|筑波大附属小]]、[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中・高]]︶を経て、[[1893年]]︵明治26年︶[[第一高等中学校]]に入学し、[[1896年]]︵明治29年︶東京帝国大学文科大学に入学し、哲学科で学ぶ。[[1899年]]︵明治32年︶同大学を卒業する。卒業論文は﹁ヒュームがカントに及ぼせる影響﹂で、カントの﹃[[純粋理性批判]]﹄序文の解釈を試みる。大学院に進学し、[[ラファエル・フォン・ケーベル|ケーベル博士]]の指導のもとで、近世哲学を研究する。なおケーベル博士は﹁おれの弟子は波多野一人だ、他にはない﹂と語ったという<ref>玉川学園公式ウェブ http://www.tamagawa.jp/introduction/enkaku/history/detail_6750.html より。</ref>。
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[[1900年]]︵明治34年︶[[東京専門学校]]︵現 |
[[1900年]]︵明治34年︶[[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]]︵現‥[[早稲田大学]]︶講師を嘱託され、西洋哲学史を教える。[[1901年]]︵明治34年︶﹃西洋哲学史要﹄を刊行する。また、この年に[[植村正久]]から[[洗礼]]を受け、キリスト教徒になる。[[1904年]]︵明治37年︶東京帝国大学大学院を修了する。修了論文は﹁スピノザ研究﹂︵ドイツ語で書かれる︶。そして、早稲田大学海外留学生としてドイツの[[ベルリン大学]]、[[ハイデルベルク大学]]へ留学し、[[アドルフ・フォン・ハルナック|ハルナック]]、[[ヴィンデルバント]]、[[ヨハネス・ヴァイス]] ([[:en:de:Johannes Weiß|Johannes Weiß]])、[[エルンスト・トレルチ]]などの講義を聞く。
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[[1906年]]︵明治39年︶に帰国し、早稲田大学文学部で教える。また倉田やすと結婚する。[[1907年]]︵明治40年︶東京帝国大学文科大学講師を嘱託され、﹁原始基督教﹂を講義し、[[1908年]]︵明治41年︶﹃基督教の起源﹄を刊行する。[[1909年]]︵明治42年︶東京帝国大学大学院を修了する︵文学博士︶。[[1910年]]︵明治43年︶にはドイツ語で書かれた卒業論文の翻訳である﹃スピノザ研究﹄を刊行する。[[1917年]]︵大正6年︶[[早稲田大学]]における騒擾により辞職し、その後、[[京都帝国大学]]文学部哲学科宗教学講座の担当として迎え入れられることになり、京都へ移住する。
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[[1906年]]︵明治39年︶に帰国し、早稲田大学文学部で教える。また倉田やすと結婚する。[[1907年]]︵明治40年︶東京帝国大学文科大学講師を嘱託され、﹁原始基督教﹂を講義し、[[1908年]]︵明治41年︶﹃基督教の起源﹄を刊行する。[[1909年]]︵明治42年︶東京帝国大学大学院を修了する︵文学博士︶。[[1910年]]︵明治43年︶にはドイツ語で書かれた卒業論文の翻訳である﹃スピノザ研究﹄を刊行する。[[1917年]]︵大正6年︶[[早稲田大学]]における騒擾により辞職し、その後、[[京都帝国大学]]文学部哲学科宗教学講座の担当として迎え入れられることになり、京都へ移住する。
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=== 略年譜 === |
=== 略年譜 === |
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*[[1877年]]([[明治]]10年) - 長野県筑摩郡松本町(現 |
*[[1877年]]([[明治]]10年) - 長野県筑摩郡松本町(現:松本市)に生まれる。 |
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*[[1888年]](明治20年) - 8月に[[東京高等師範学校|高等師範学校]]附属小学校高等科(現 |
*[[1888年]](明治20年) - 8月に[[東京高等師範学校|高等師範学校]]附属小学校高等科(現:[[筑波大学附属小学校]])卒業。 |
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*[[1893年]](明治26年) - 高等師範学校尋常中学科(現 |
*[[1893年]](明治26年) - 高等師範学校尋常中学科(現:[[筑波大学附属中学校・高等学校]])卒業(第1回卒業生)。 |
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*1893年(明治26年) - [[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]入学。 |
*1893年(明治26年) - [[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]入学。 |
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*[[1896年]](明治29年) - [[東京大学|東京帝国大学]]文科大学哲学科入学。 |
*[[1896年]](明治29年) - [[東京大学|東京帝国大学]]文科大学哲学科入学。 |