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[[ファイル:Crown, Sword and Globus Cruciger of Hungary2.jpg|thumb|360px| |
[[ファイル:Crown, Sword and Globus Cruciger of Hungary2.jpg|thumb|360px|王笏、聖冠、剣、宝珠]] |
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⚫ | [[File:MZK 002 Nr 06 Die ungarischen Reichsinsignien - Fig. 01 Krone des hl. Stephan.jpg|thumb|1857]] |
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'''聖イシュトヴァーンの王冠'''︵せいイシュトヴァーンのおうかん︶または'''ハンガリーの聖冠'''︵ハンガリーのせいかん、 |
'''聖イシュトヴァーンの王冠'''︵せいイシュトヴァーンのおうかん︶または'''ハンガリーの聖冠'''︵ハンガリーのせいかん、{{lang-hu|''Magyar Szent Korona''}}︹<small>マジャル・セント・コロナ</small>︺、{{lang-de|''Stephanskrone''}}︹<small>シュテファンスクローネ</small>︺、{{lang-hr|''Kruna svetoga Stjepana''}}、{{lang-la|''Sacra Corona''}}、{{lang-en|''Holy Crown of Hungary''}}︶は、現存する王冠の中で唯一の聖なる象徴︵holy attribute︶として知られる[[西洋の冠|王冠]]である。
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==概要== |
==概要== |
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[[ハンガリー王国]]の[[戴冠式|戴冠]]の証として数えられ、12世紀以降ハンガリーの王が代々引き継いできたものである。宝珠は[[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー家]]の[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]の紋章が描かれたものであるが、冠を含めた他の証はすべて[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]にちなむものである。 |
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この王冠は'''聖イシュトヴァーンの王冠の地'''(ハンガリー、[[クロアチア]]、[[リエカ]]周辺)からの持ち出しが禁じられている |
この王冠は'''[[ハンガリー王国の歴史的地域|聖イシュトヴァーンの王冠の地]]'''︵ハンガリー、[[クロアチア]]、[[リエカ]]周辺︶からの持ち出しが禁じられている。ハンガリー王はこの冠を受けない限り、正式な戴冠を受けたと認められない。ハンガリー史上の50人以上の王がこの冠を受けてきた。この冠を受けなかったのは[[ヤーノシュ・ジグモンド]]と[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]の2人のみである。
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聖イシュトヴァーンの王冠が'''聖冠'''(''Szent Korona'')と呼ばれるようになったのは[[1256年]]からである。[[14世紀]]頃から、王家の権力は単純に君主に象徴されるものではなくなり、明確で客観的な事物である冠が象徴としての役割を持つようになった。言い換えれば、ハンガリー王国は王を飾る王冠を求めるのではなく、王冠に合う王を求めるようになったといえる。これはヨーロッパでも珍しい状況である。 |
聖イシュトヴァーンの王冠が'''聖冠'''(''Szent Korona'')と呼ばれるようになったのは[[1256年]]からである。[[14世紀]]頃から、王家の権力は単純に君主に象徴されるものではなくなり、明確で客観的な事物である冠が象徴としての役割を持つようになった。言い換えれば、ハンガリー王国は王を飾る王冠を求めるのではなく、王冠に合う王を求めるようになったといえる。これはヨーロッパでも珍しい状況である。 |
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[[1401年]]のハンガリー公式印章は「ハンガリーの聖冠封」と銘打っている。 |
[[1401年]]のハンガリー公式印章は「ハンガリーの聖冠封」と銘打っている。更にハンガリー王国の国旗・国章及び1990年以降の[[ハンガリーの国章]]においては、聖冠が意匠として描かれている。またハンガリーにおいて聖冠は[[法源]]としても扱われ、ハンガリーの法制にも影響を及ぼしている{{sfn|山岡規雄|2016|p=3-4}}。 |
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==王冠の歴史== |
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⚫ | [[ファイル:Ferenc József.jpg|300px|thumb|right|ハンガリー王として戴冠する[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]]] |
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==王冠の起源== |
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ハンガリー科学協会およびハンガリーカトリック監督会が提唱した説によれば<ref> Zombori, I, Csefalvay, P., Maria Antonietta De Angelis: A Thousand Years of Christianity in Hungary - Hungariae Christianae Millennium - Published by the Hungarian Catholic Episcopal Conference, Budapest, 2001, for the exhibition in the Musea of Vatican, Vatican City, 10 October 2001 - 12 January 2002 - under the auspices of Prime Minister Viktor Orban</ref>、現存するハンガリーの聖冠は'''コロナ・グラエカ'''(corona graeca)と'''コロナ・ラティーナ'''(corona latina)の2つのパーツで出来ており、[[東ローマ帝国]]の影響を受けた[[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]の時代に現在の形に加工された、とされている(ベーラ3世は東ローマ帝国の皇室で育ち、一時は皇太子でもあった)。 |
ハンガリー科学協会およびハンガリーカトリック監督会が提唱した説によれば<ref> Zombori, I, Csefalvay, P., Maria Antonietta De Angelis: A Thousand Years of Christianity in Hungary - Hungariae Christianae Millennium - Published by the Hungarian Catholic Episcopal Conference, Budapest, 2001, for the exhibition in the Musea of Vatican, Vatican City, 10 October 2001 - 12 January 2002 - under the auspices of Prime Minister Viktor Orban</ref>、現存するハンガリーの聖冠は'''コロナ・グラエカ'''(corona graeca)と'''コロナ・ラティーナ'''(corona latina)の2つのパーツで出来ており、[[東ローマ帝国]]の影響を受けた[[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]の時代に現在の形に加工された、とされている(ベーラ3世は東ローマ帝国の皇室で育ち、一時は皇太子でもあった)。 |
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のちに聖イシュトヴァーンとして[[列聖]]される |
のちに聖イシュトヴァーンとして[[列聖]]されるイシュトヴァーン1世の戴冠をもって、[[ハンガリー王国]]の成立とされる(戴冠の日付は諸説あり、[[1000年]]の[[12月25日]]とも、[[1001年]][[1月1日]]とも言われる)。 |
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ハートヴィク司教(1095年 - 1116年)の記した、 [[ローマ教皇]]が「祝福とともに」イシュトヴァーン1世に贈ったものであるという記録をもって聖冠の起源とする説がある。[[カールマーン (ハンガリー王)|カールマーン]]の要求によって編纂されたハートヴィク司教の伝記がこの説の根拠となっている。「ハートヴィク伝」によれば[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]は[[エステルゴム]]のアストリック大司教をローマに派遣し、ローマ教皇に王冠を求めた/請求した(ask for/require)(原注 原典のラテン語はどちらにも解釈できる)。ここでは「ローマ教皇」(Pope)とだけ記載されており、ローマ教皇の名前は書かれていない。だが[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ミェシュコ1世]]の使節が早く到着したため、王冠はポーランド王のために作られることとなった。その折、教皇は夢の中に天使があらわれ、別の国からの使者が現れて、王のための冠を求めるだろうとのお告げを受けた。次の日、実際にアストリックが教皇に謁見して冠を求めたため、教皇はアストリックに冠を与えた……という記録である。「ハートヴィク伝」は[[1200年]]頃にハンガリーで祈祷書として使われていたが、そこでは当時の教皇として[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]の名が上げられている。シルウェステル2世が王冠を授けたいきさつはキリスト教圏全域に広がったため、1613年、王冠守護者の |
ハートヴィク司教(1095年 - 1116年)の記した、 [[ローマ教皇]]が「祝福とともに」イシュトヴァーン1世に贈ったものであるという記録をもって聖冠の起源とする説がある。[[カールマーン (ハンガリー王)|カールマーン]]の要求によって編纂されたハートヴィク司教の伝記がこの説の根拠となっている。「ハートヴィク伝」によれば[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]は[[エステルゴム]]のアストリック大司教をローマに派遣し、ローマ教皇に王冠を求めた/請求した(ask for/require)(原注 原典のラテン語はどちらにも解釈できる)。ここでは「ローマ教皇」(Pope)とだけ記載されており、ローマ教皇の名前は書かれていない。だが[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ミェシュコ1世]]の使節が早く到着したため、王冠はポーランド王のために作られることとなった。その折、教皇は夢の中に天使があらわれ、別の国からの使者が現れて、王のための冠を求めるだろうとのお告げを受けた。次の日、実際にアストリックが教皇に謁見して冠を求めたため、教皇はアストリックに冠を与えた……という記録である。「ハートヴィク伝」は[[1200年]]頃にハンガリーで祈祷書として使われていたが、そこでは当時の教皇として[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]の名が上げられている。シルウェステル2世が王冠を授けたいきさつはキリスト教圏全域に広がったため、1613年、王冠守護者の{{仮リンク|レーヴァイ・ペーテル|hu|Révay Péter}}が、聖冠はシルウェステル2世からイシュトヴァーン1世へと授けられたものだと宣言するに至った。しかしながら、この伝承は脚色されているとも考えられている。たとえば[[ミェシュコ1世]]([[935年]]? - [[992年]][[5月25日]])は、シルウェステル2世の在位期間([[999年]] - [[1003年]])より前に死亡している。さらに、イシュトヴァーン1世が列聖された[[1083年]]頃に書かれた "Greater Legend" によれば、「彼(イシュトヴァーン1世)の父の死から50年後(……)教皇から祝福の手紙が届き(……)主に認められたイシュトヴァーン1世が王に選ばれた。イシュトヴァーン1世は塗油を受けて、誉れ高き王冠を戴冠した」とある。この伝承では、聖冠がローマから授けられたという描写が完全に欠落している。さらに、[[バチカン]]にはこの聖冠を授与したことを示す文書が全く存在しない。ローマから王冠を授与することは、ハンガリー王国に対しての影響力を象徴するため、ローマにとって明確な利益になるにもかかわらずである。 |
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聖冠の起源について、有名だが信頼性に欠けるこんな話がある。ティートマル・フォン・メルゼブルク(Thietmar von Merseburg, ? - 1018年)による報告で、そこには[[神聖ローマ皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]がイシュトヴァーン1世の戴冠に同意し、教皇も祝福を与えた、と記述されており、多くの歴史家がこのとき聖冠も与えられたのだと主張したが、この報告には王冠についての記述は全くなく、聖冠がローマ教皇から与えられたものだとする根拠とはならなかった。 |
聖冠の起源について、有名だが信頼性に欠けるこんな話がある。ティートマル・フォン・メルゼブルク(Thietmar von Merseburg, ? - 1018年)による報告で、そこには[[神聖ローマ皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]がイシュトヴァーン1世の戴冠に同意し、教皇も祝福を与えた、と記述されており、多くの歴史家がこのとき聖冠も与えられたのだと主張したが、この報告には王冠についての記述は全くなく、聖冠がローマ教皇から与えられたものだとする根拠とはならなかった。 |
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[[エナメル]]画に使われている技法が複数あることや、彫刻がサークレット部(コロナ・グラエカ)でギリシャ語、バンド部(コロナ・ラティーナ)でラテン語であることなどを考えると、2つのパーツがそれぞれ異なる時代に作られた、ということになる。しかしながら、王冠を分解した記録はまったく残っておらず、記録上はイシュトヴァーン1世が戴冠したものと同一のものと見なされていたのである。 |
[[エナメル]]画に使われている技法が複数あることや、彫刻がサークレット部(コロナ・グラエカ)でギリシャ語、バンド部(コロナ・ラティーナ)でラテン語であることなどを考えると、2つのパーツがそれぞれ異なる時代に作られた、ということになる。しかしながら、王冠を分解した記録はまったく残っておらず、記録上はイシュトヴァーン1世が戴冠したものと同一のものと見なされていたのである。 |
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⚫ | 聖冠は戴冠式の際にのみ使用され、使用しない時は常に2人の王冠守護者に守られている。王冠守護者以外にこの聖冠に触れることができるのは2人だけである。時の{{仮リンク|ハンガリー宮中伯|hu|Nádor}}(俗界最高の地位)が戴冠式の間、聖冠を台座に起き、時の大司教(聖職者最高の地位)が王に冠をかぶせる。 |
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==分類== |
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王冠にはその使用上、3つの種類がある。 |
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*装飾用:特に使用に制限はない。 |
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*指導用:特定の場合にしか使用できない。 |
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*相続用:戴冠の際しか使用できない。ハンガリーの聖冠はこれにあたる。 |
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⚫ | 聖冠は戴冠式の際にのみ使用され、使用しない時は常に2人の王冠守護者に守られている。王冠守護者以外にこの聖冠に触れることができるのは2人だけである。時の |
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⚫ | 水面下での広範な調査で王冠が本物であると確かめられた後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]政府の命令で王冠はハンガリーに返還された。[[1978年]]、[[ジミー・カーター]]大統領の下でのことで、ハンガリー王家の服飾についての学術的調査が始まったのはここからである。[[共産主義]]の凋落の後、[[1990年]]に王冠は紋章への復帰を果たした。国民議会は、[[コシュート・ラヨシュ]]が[[1849年]]に定めた王冠のない紋章よりも、戦前の紋章を選んだ。 |
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[[2000年]]1月1日、聖冠と笏・宝珠・剣はハンガリー国立美術館から[[国会議事堂 (ハンガリー)|国会議事堂]]へと移動された。 |
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==王冠の構成== |
==王冠の構成== |
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[[ファイル:Szent Korona Decsy.jpg|thumb|360px|right|王冠の絵図 1792年当時のもの(左が前面、右が後面)]] |
[[ファイル:Szent Korona Decsy.jpg|thumb|360px|right|王冠の絵図 1792年当時のもの(左が前面、右が後面)]] |
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⚫ | [[File:MZK 002 Nr 06 Die ungarischen Reichsinsignien - Fig. 01 Krone des hl. Stephan.jpg|thumb|1857年の図]] |
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聖冠は[[金]]製で、90のエナメル画、宝石、天然の真珠、 [[ガーネット|アルマンディン]]等でできており、構造上3つに分けることができる。すなわち、下方の円環部 |
聖冠は[[金]]製で、90のエナメル画、宝石、天然の真珠、 [[ガーネット|アルマンディン]]等でできており、構造上3つに分けることができる。すなわち、下方の円環部﹁'''コロナ・グラエカ'''﹂、上方の交差した帯﹁'''コロナ・ラティーナ'''﹂、現在はねじれてしまっている頂部の'''十字架'''の3つである。王冠の金や宝石の物質的価値は、[[19世紀]]前半の試算で[[フォリント]]金貨2万枚といわれた。
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円環部の左右4本ずつ、後部に1本の鎖には、それぞれ下げ飾りがついている。 |
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===コロナ・グラエカ=== |
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コロナ・グラエカは幅5.2 cm、直径20.5 cm。 |
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円環部の後部の、カッティングされた2つの[[アクアマリン]]は、マーチャーシュ2世︵神聖ローマ皇帝[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]︶によって補充されたものである。正面の絵は﹁[[全能者ハリストス]]︵[[イエス・キリスト]]の別名︶﹂が描かれている。イエスの左右には[[大天使]][[ミカエル]]と[[ガブリエル]]が描かれており、その半分のサイズで殉教者[[聖ゲオルギオス]]、[[聖ディミトリオス]]、[[聖コスマ]]、[[聖ダミアノ]]がともに描かれている。
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円環部の後部には[[東ローマ帝国]]皇帝[[ミカエル7世ドゥーカス]]が描かれている。その下左側にはコン︵スタンティノス︶と刻まれた人物が描かれているが、これはミカエル7世ドゥーカスの子で共同皇帝をつとめた{{仮リンク|コンスタンティノス・ドゥーカス|en|Konstantios Doukas}}、もしくはその同名の弟{{仮リンク|コンスタンティノス・ドゥーカス (共同皇帝)|en|Constantine Doukas (co-emperor)|label=コンスタンティノス}}のいずれかであると考えられている。その右にはハンガリー王[[ゲーザ1世 (ハンガリー王)|ゲーザ1世]]︵1074年 - 1077年︶が描かれ、﹁Geovitsas pistos krales tourkias﹂︵誠実なトルコ人の王︶と書かれている。当時、ハンガリー人は東ローマ帝国でトルコ人と呼ばれていた。これは[[東ローマ帝国]]の階級制度によるもので、皇帝とハンガリー王の間には明確な区別があり、ゲーザ1世よりもむしろ[[聖人]]や東ローマ皇帝のほうが重く見られていたのである。このことは、ハンガリー王の名前が黒や青文字で書かれているのに対し、皇帝の名前が赤で書かれていることからもうかがえる。
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⚫ | 全能者ハリストスとミカエル7世の前後の飾り板は、それぞれ別の方法で接着されている。全能者ハリストスの板が縁にフィットしているのに対して、皇帝の飾り板は形が合わない。板のフレームを上方に折りたたんで、縁にくぎづけにすることで接着している。したがって、ミカエル7世のエナメル画は、王冠のオリジナルデザインには含まれておらず、どこか別の場所で使用されていたものだと考えられる。 |
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コロナ・グラエカの、湾曲して先がとがった飾り板は東ローマ帝国における女帝の冠に特有の形である。すなわち、コロナ・グラエカは女性用の王冠だったのである。 コロナ・グラエカはミカエル7世から、ゲーザの王妃であるシナデネ︵後に東ローマ皇帝となる[[ニケフォロス3世ボタネイアテス|ニケフォロス・ボタネイアテス]]の姪︶に贈られた冠が元である。その時贈られたのは新品の王冠ではなく、皇帝の宝物から選ばれた王冠を造り直したものであると考えられている。古い人物が描かれていたか、ハンガリーの女王にはふさわしくない絵だったのか、ともかく古いエナメル画が取り除かれ、造り直された。その結果、現在のような形のコロナ・グラエカがハンガリーに贈られたのである。
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====コロナ・グラエカのエナメル画==== |
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File:The Greek Pantokrator on the Hungarian Holy Crown.jpg|全能者ハリストス |
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File:Archangel Michael on the Holy Crown of Hungary.jpg|大天使ミカエル |
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;王冠全体 |
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File:St Gabriel the Archangel on the Holy Crown of Hungary.jpg|大天使ガブリエル |
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File:St George on the Holy Crown of Hungary.jpg|[[聖ゲオルギオス]] |
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File:St Demeter on the Holy Crown of Hungary.jpg|聖ディミトリオス |
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:コロナ・ラティーナはおそらく、元々は[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]の宝物であったのだと推測されるが、それ以外にも、戴冠の証として用いられるべき品が、王冠と同時に用意されていた。 |
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File:St Damian on the Holy Crown of Hungary.jpg|聖ダミアノ |
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File:St Cosmas on the Holy Crown of Hungary.jpg|聖コスマ |
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File:Michael VII Doukas on the Holy Crown.jpg|[[ミカエル7世ドゥーカス]] |
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File:Géza I.jpg|ゲーザ1世 |
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File:Constantine Doukas (co-emperor) on the Holy Crown.jpg|コンスタンスティノス・ドゥーカス、もしくはコンスタンティン・ドゥーカス |
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⚫ | 刻印された字体や聖人の絵から製造年代が推定できる。古い字体の大文字が並ぶ中で、トマス(Thomas)のTとパウルス(Paulus)の2個目の「u」は、東ローマ帝国の硬貨に使われている[[ラテン文字]]と共通する特徴がある。この書体は、11世紀半ばには廃れた。これは教皇から[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]に贈られた聖骨箱や小型祭壇と同様の字体であり、証明することこそできないが、イシュトヴァーン1世が献上物と交換に王冠を受け取ったという可能性もある。しかしながら使徒の絵は、使われている技法で判断する限り[[1000年]]頃に制作されたものではない。 |
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⚫ | 交差している帯は金のワイヤーで縁取られ、下方で綴じて装飾の体系を締めくくっている。中央のパネルには12個、全部で72個の真珠があしらわれており、キリストの使徒の数を暗示している([[使徒行伝]]10章1節)。 |
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⚫ | 中央交叉部のパネルには四角形の[[七宝|エナメル]]のパネルがあり、全能者ハリストスが描かれている。4本のバンドには2つずつ、合計8つの絵がある。これには使徒のうち、「使徒行伝」1章13節に書かれた中の最初の8人([[ペトロ]]、[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]、[[ヤコブ (イエスの兄弟)|ヤコブ]]、[[アンデレ]]、[[フィリポ (福音宣教者)|ピリポ]]と[[トマス (使徒)|トマス]]、[[バルトロマイ]]と[[マタイ]])が描かれている。 |
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⚫ | 頂点の十字架は、キリストのエナメル画を貫通する形で荒っぽく取り付けてある。取り付けられたのは16世紀ごろと推測される。十字架は17世紀ごろから衝撃で曲がったような形になっているが、王冠をしまう鉄の箱に入れる際、きちんと仕舞わないまま蓋を閉めてしまったせいだと考えられる。 |
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==王冠の法的効果== |
==王冠の法的効果== |
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{{main|{{仮リンク|聖なる王冠の理論|hu|Szent Korona-tan}}}} |
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⚫ | [[ファイル:Ferenc József.jpg|300px|thumb|right|ハンガリー王として戴冠する[[フランツ・ヨーゼフ1世]]]] |
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そうなると、[[聖母マリア]]が名目上のハンガリー王として考えられるが、摂政の[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[プロテスタント]]であったため叶わず、Szent Korona Állameszményがその替わりとなった。これは、聖冠をハンガリーの法的代表として、聖冠が単独で君主や国家の根幹としての権力を担うという考え方である<ref >[[南塚信吾]]他、﹃新版世界各国史 ドナウ・ヨーロッパ史﹄、山川出版社、1999年、60頁</ref>。 |
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⚫ | カーロイ1世は生涯に3回戴冠式を行っている。これは、1310年の聖冠による戴冠以外は正式な戴冠として認められなかったためである。このように、戴冠は法的な義務として認識されてきた。他にも、聖冠の権力を示すより近年の例としてはこのようなものがある。第一次世界大戦後のハンガリーにおいて、[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]はハンガリー王位を取り戻そうとして失敗し([[カール1世の復帰運動]])、ハンガリー王は空位となった。それから1946年に共和政体が敷かれるまで、ハンガリーは[[ハンガリー王国 (1920-1946)|王がいない王国]]を続けた。 |
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⚫ | ハンガリーの公文書や紋章に以前と同じように聖冠が使われていることは、近隣諸国にとって論争の的であった。[[トリアノン条約]]で領土の大半を失った[[マジャル人|マジャール人]]勢力が、再び聖イシュトヴァーンの王冠の地を要求しているのではないかと疑ったのである。ハンガリー人は、中央ヨーロッパ1000年の動乱の中で生き残った象徴として、王冠に当然の敬意を持っていた。だが、聖冠の特殊な権力を主張する右派の政治運動を前にして分裂に追い込まれることとなったのである。 |
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そうなると、[[聖母マリア]]が名目上のハンガリー王として考えられるが、摂政の[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[プロテスタント]]であったため叶わず、Szent Korona Állameszmény がその替わりとなった。これは、聖冠をハンガリーの法的代表として、聖冠が単独で君主や国家の根幹としての権力を担うという考え方である<ref >[[南塚信吾]]他、﹃新版世界各国史 ドナウ・ヨーロッパ史﹄、山川出版社、1999年、60頁</ref>。この考えに基づくハンガリーの公法では、聖冠は国の主権を表現し、正統な君主と特権諸身分との間の有機的統一を確立し、ハンガリーのすべての[[法源]]を構成するものとされた。これは﹁聖なる王冠の理論︵{{lang-hu|Szent Korona-tan}}︶﹂と呼ばれる{{sfn|山岡規雄|2016|p=3}}。この考えは、ハンガリーの右傾化を促進した。聖イシュトヴァーンの王冠の地の再保障を目指した右派は、最終的に[[アドルフ・ヒトラー]]の[[第三帝国]]に結びつき、[[第二次世界大戦]]の悲劇を生み出すに至った。
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== 現代の宝器 == |
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⚫ | ハンガリーの公文書や紋章に以前と同じように聖冠が使われていることは、近隣諸国にとって論争の的であった。[[トリアノン条約]]で領土の大半を失った[[マジャル人|マジャール人]]勢力が、再び聖イシュトヴァーンの王冠の地を要求しているのではないかと疑ったのである。ハンガリー人は、中央ヨーロッパ1000年の動乱の中で生き残った象徴として、王冠に当然の敬意を持っていた。だが、聖冠の特殊な権力を主張する右派の政治運動を前にして分裂に追い込まれることとなったのである。 |
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⚫ | 水面下での広範な調査で王冠が本物であると確かめられた後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]政府の命令で王冠はハンガリーに返還された。[[1978年]]、[[ジミー・カーター]]大統領の下でのことで、ハンガリー王家の服飾についての学術的調査が始まったのはここからである。[[共産主義]]の凋落の後、[[1990年]]に王冠は紋章への復帰を果たした。国民議会は、[[コシュート・ラヨシュ]]が[[1849年]]に定めた王冠のない紋章よりも、戦前の紋章を選んだ。 |
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2011年に制定された『[[ハンガリー基本法]]』前文においては、イシュトヴァーン1世の戴冠を国家建国と位置づけ、「聖冠」が「歴史的な憲法の成果」を示し、「ハンガリーの立憲国家の継続性及び民族の統合を体現」し、ハンガリー民族の構成員は「それに敬意を払う」と言及されている{{sfn|山岡規雄|2016|p=3、34}}。一方で[[国民主権]]・[[政教分離原則|国と教会の分離]]の原則から、聖冠が憲法解釈の基準たり得えないという批判や、法的継続性の観点から「聖なる王冠の理論」が憲法の成果とみなすことは困難であるという考えもある{{sfn|山岡規雄|2016|p=4}}。また刑法典第334条は、聖なる王冠・国歌・国旗・国章を損壊もしくは侮辱する者に1年以下の拘禁刑を科すると定めている{{sfn|山岡規雄|2016|p=8}}。 |
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== クラウンジュエル == |
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ヨーロッパでは珍しく、戴冠のシンボルがほとんど全て現存している。[[2000年]]1月1日、聖冠はハンガリー国立美術館からハンガリー内閣府へと移動された。笏・宝珠・剣もまた移動された。 |
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[[File:Koronazasi ekszerek Decsy.jpg|thumb|right|250px|王笏・宝珠・剣(1792年)]] |
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{{main|{{仮リンク|ハンガリー王のクラウンジュエル|hu|Magyar koronázási jelvények}}}} |
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⚫ | ヨーロッパでは珍しく、ハンガリー王の戴冠のシンボル({{仮リンク|クラウンジュエル (宝器)|en|Crown jewels}})はほとんど全て現存している。戴冠用のマントは、刺繍の記述がある通り、確実にイシュトヴァーン1世と王妃[[ギーゼラ・フォン・バイエルン|ギーゼラ]]が[[1031年]]頃に作らせたものだと判明している。 |
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⚫ | 宝珠と笏もまた、イシュトヴァーン1世の時代のものと判断される。[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]や[[ブルグント王国|ブルグント王]]ルドルフ3世など、当時の支配者はそれぞれ固有の笏を持っている。これらの、先に宝珠がついた短い笏はこの時代に固有のものである。 |
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[[マント]]は破損を恐れ、国立美術館の不活性ガス容器から移動されなかった。王冠等とは異なり、この赤いマントは[[1030年]]頃に作られた[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]による純正品だと考えられている。古写本によれば、マントは王妃と侍女の手作りで、マントの背部中央には、イシュトヴァーン1世唯一のポートレイトが描かれている(ここでの王冠は、やはり現存する聖冠と異なっている)。[[ラテン語]]の刺繍によれば、このマントは[[司教]]の礼拝用ローブだったようである。 |
[[マント]]は破損を恐れ、国立美術館の不活性ガス容器から移動されなかった。王冠等とは異なり、この赤いマントは[[1030年]]頃に作られた[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]による純正品だと考えられている。古写本によれば、マントは王妃と侍女の手作りで、マントの背部中央には、イシュトヴァーン1世唯一のポートレイトが描かれている(ここでの王冠は、やはり現存する聖冠と異なっている)。[[ラテン語]]の刺繍によれば、このマントは[[司教]]の礼拝用ローブだったようである。 |
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* Tóth E. Das ungarische Krönungspectrum, in Folia Archaeologia 47, 2000. |
* Tóth E. Das ungarische Krönungspectrum, in Folia Archaeologia 47, 2000. |
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* Vajay Sz. De Corona Regia. Corona. Regni, Sacra Corona: Königskronen und Kronensymbolik in mittelalterlichen Ungarn, in Ungarn Jahrbuch 7, 1976m pp. 37-64. |
* Vajay Sz. De Corona Regia. Corona. Regni, Sacra Corona: Königskronen und Kronensymbolik in mittelalterlichen Ungarn, in Ungarn Jahrbuch 7, 1976m pp. 37-64. |
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*{{Cite web |和書|url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9906764_po_201501b.pdf?contentNo=1 |title=基本情報シリーズ(21)各国憲法集(10) ハンガリー憲法 |accessdate= 2021-09-14 |author=山岡規雄 |year= 2016|format=pdf |website=国立国会図書館 |work= |publisher=国立国会図書館調査及び立法考査局 |ref=harv}} |
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==関連項目== |
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*[[ボヘミア王冠領]] |
*[[ボヘミア王冠領]] |
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*[[ブラチスラヴァ城]]:1552年から1784年の間まで、王冠が納められていた。各50人のハンガリー人歩兵とオーストリア人歩兵の2隊の警備兵の保護下にあった。 |
*[[ブラチスラヴァ城]]:1552年から1784年の間まで、王冠が納められていた。各50人のハンガリー人歩兵とオーストリア人歩兵の2隊の警備兵の保護下にあった。 |
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*{{仮リンク|ハンガリー人の王冠|en|Hungarian Crown}} |
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==外部リンク== |
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*[http://kep.tar.hu/mollach/50283774#2 The crown jewels (images)] |
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[[Category:クロアチアの歴史]] |
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[[Category:ハンガリーの国の象徴]] |
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Crown%2C_Sword_and_Globus_Cruciger_of_Hungary2.jpg/360px-Crown%2C_Sword_and_Globus_Cruciger_of_Hungary2.jpg)
概要
[編集]王冠の歴史
[編集]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e4/Ferenc_J%C3%B3zsef.jpg/300px-Ferenc_J%C3%B3zsef.jpg)
王冠の構成
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/MZK_002_Nr_06_Die_ungarischen_Reichsinsignien_-_Fig._01_Krone_des_hl._Stephan.jpg/220px-MZK_002_Nr_06_Die_ungarischen_Reichsinsignien_-_Fig._01_Krone_des_hl._Stephan.jpg)
コロナ・グラエカ
[編集]コロナ・グラエカのエナメル画
[編集]-
全能者ハリストス
-
大天使ミカエル
-
大天使ガブリエル
-
聖ディミトリオス
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聖ダミアノ
-
聖コスマ
-
ゲーザ1世
-
コンスタンスティノス・ドゥーカス、もしくはコンスタンティン・ドゥーカス
コロナ・ラティーナ
[編集]十字架
[編集]頂点の十字架は、キリストのエナメル画を貫通する形で荒っぽく取り付けてある。取り付けられたのは16世紀ごろと推測される。十字架は17世紀ごろから衝撃で曲がったような形になっているが、王冠をしまう鉄の箱に入れる際、きちんと仕舞わないまま蓋を閉めてしまったせいだと考えられる。
王冠の法的効果
[編集]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/13/Coat_of_arms_of_Hungary.png/100px-Coat_of_arms_of_Hungary.png)
クラウンジュエル
[編集]![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3e/Koronazasi_ekszerek_Decsy.jpg/250px-Koronazasi_ekszerek_Decsy.jpg)
出典
[編集]- ^ 山岡規雄 2016, p. 3-4.
- ^ Zombori, I, Csefalvay, P., Maria Antonietta De Angelis: A Thousand Years of Christianity in Hungary - Hungariae Christianae Millennium - Published by the Hungarian Catholic Episcopal Conference, Budapest, 2001, for the exhibition in the Musea of Vatican, Vatican City, 10 October 2001 - 12 January 2002 - under the auspices of Prime Minister Viktor Orban
- ^ 南塚信吾他、『新版世界各国史 ドナウ・ヨーロッパ史』、山川出版社、1999年、60頁
- ^ 山岡規雄 2016, p. 3.
- ^ 山岡規雄 2016, p. 3、34.
- ^ 山岡規雄 2016, p. 4.
- ^ 山岡規雄 2016, p. 8.
参考文献
[編集]- Bárány-Oberscall M. von, Die Sankt Stephans-Krone und die Insinien des Königreichs Ungarn, Vienna-Munich 1974
- Benda K.-Fügedi E. Tausend Jahre Stephanskrone, Budapest 1988.
- Deér J., Die Heilige Krone Ungarnsin, in Denkschriften der Österreichsischen akademie d. Wiss. Phil.hist. Kl, 91, Vienna 1966.
- Fügedi E., Medieval Coronations in Hungary in Studies in Mediaeval and Renaissance History 3, 1981.
- Kovács É.-Lovag Zs., Die Ungarischen Krönungsingien, Budapest 1980.
- Tóth E., Szelényi K., Die heilige Krone von Ungarn, Budapest 2000.
- Tóth E., A koronázási palást és jogar (The Coronational Cloak and Sceptre), Szeged 2000.
- Tóth E. Das ungarische Krönungspectrum, in Folia Archaeologia 47, 2000.
- Vajay Sz. De Corona Regia. Corona. Regni, Sacra Corona: Königskronen und Kronensymbolik in mittelalterlichen Ungarn, in Ungarn Jahrbuch 7, 1976m pp. 37-64.
- 山岡規雄 (2016年). “基本情報シリーズ(21)各国憲法集(10) ハンガリー憲法” (pdf). 国立国会図書館. 国立国会図書館調査及び立法考査局. 2021年9月14日閲覧。
関連項目
[編集]- イシュトヴァーン1世
- ハンガリー王国の歴史的地域
- ハンガリーの歴史
- ボヘミア王冠領
- ブラチスラヴァ城:1552年から1784年の間まで、王冠が納められていた。各50人のハンガリー人歩兵とオーストリア人歩兵の2隊の警備兵の保護下にあった。
- ハンガリー人の王冠