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「郡司成忠」の版間の差分

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橄欖岩 (会話 | 投稿記録)
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義勇隊はカムチャツカ西岸のオゼルナヤ川河口近辺に上陸することには成功したが、7月になって[[コサック]]兵に襲われた。これによって義勇隊員に16人の死者が出た上、郡司は捕らえられ、[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー]]の西にあるミルコフという村に監禁される。そして会長を監禁された報效義会は引き揚げを決定。この時点で占守島に居た70人のうち、郡司夫人を含む56人は島を離れた。こうして、第二次報效議会は実質上解散した。

義勇隊はカムチャツカ西岸のオゼルナヤ川河口近辺に上陸することには成功したが、7月になって[[コサック]]兵に襲われた。これによって義勇隊員に16人の死者が出た上、郡司は捕らえられ、[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー]]の西にあるミルコフという村に監禁される。そして会長を監禁された報效義会は引き揚げを決定。この時点で占守島に居た70人のうち、郡司夫人を含む56人は島を離れた。こうして、第二次報效議会は実質上解散した。



なお、残った14人も順次島を離れていき、[[1908年]](明治41年)には別所佐吉という会員とその妻子の計7人のみが島の住人という状態になった。

なお、残った14人も順次島を離れていき、[[1908年]](明治41年)には[[別所佐吉]]という会員とその妻子の計7人のみが島の住人という状態になった。



===第二次拓殖後の郡司===

===第二次拓殖後の郡司===


2009年11月28日 (土) 09:11時点における版

郡司成忠

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19154[15]

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1919[16]

脚注

  1. ^ 綱淵謙錠『濤』下巻、新潮社、1986年、54-55頁
  2. ^ 添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』、刀水書房、1982年、50-58頁
  3. ^ 長沢和俊『日本人の冒険と探検』、白水社、1973年、186頁
  4. ^ 『濤』下巻、317-338頁
  5. ^ 綱淵謙錠『極 白瀬中尉南極探検記』、新潮社、1990年、188頁
  6. ^ 『極 白瀬中尉南極探検記』、189頁
  7. ^ 『極 白瀬中尉南極探検記』、221頁
  8. ^ 『極 白瀬中尉南極探検記』、226-227頁
  9. ^ 『極 白瀬中尉南極探検記』、282頁
  10. ^ 夏堀正元『北の墓標』、埼玉福祉会、1995年、300-301頁
  11. ^ 『極 白瀬中尉南極探検記』、285-292頁
  12. ^ 『北の墓標』、319頁
  13. ^ 豊田穣『北洋の開拓者:郡司成忠大尉の挑戦』、講談社、1994年、291頁
  14. ^ 『北の墓標』、332-334頁
  15. ^ 『北の墓標』、385-389頁
  16. ^ 寺沢毅 『北千島の自然誌』 丸善〈丸善ブックス〉、1995年 76 頁




1986

 1990

1994

1995

1996289-292

81971178-196

1973213-239