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[[明治]]元年︵[[1868年]]︶3月、明治新政府の[[参与]]に就任する。同月、従五位下左京亮、同年閏4月、従四位下侍従に昇進する。明治3年︵[[1870年]]︶、熊本藩知事で兄の[[細川護久]]に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。
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[[明治]]元年︵[[1868年]]︶3月、明治新政府の[[参与]]に就任する。同月、従五位下左京亮、同年閏4月、従四位下侍従に昇進する。明治3年︵[[1870年]]︶、熊本藩知事で兄の[[細川護久]]に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。
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[[1872年]]︵明治5年︶から[[1879年]]︵明治12年︶まで、アメリカを経て[[ケンブリッジ大学]]に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、[[華族]]に加えられる。[[1880年]]︵明治13年︶、[[外務省]]に入省して[[ベルギー]]や[[オランダ]]の[[特命全権公使|公使]]、[[1882年]]︵明治15年︶、[[元老院議官]]には就任する。[[1884年]]︵明治17年︶7月8日、[[男爵]]。[[1890年]]︵明治23年︶7月から翌年10月、[[1897年]]︵明治30年︶7月から1906年︵明治39年︶4月まで貴族院議員をつとめた。[[1891年]]︵明治24年︶4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる<ref>﹃官報﹄第6769号、明治39年1月25日。</ref>。
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[[1872年]]︵明治5年︶から[[1879年]]︵明治12年︶まで、アメリカを経て[[ケンブリッジ大学]]に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、[[華族]]に加えられる。[[1880年]]︵明治13年︶、[[外務省]]に入省して[[ベルギー]]や[[オランダ]]の[[特命全権公使|公使]]、[[1882年]]︵明治15年︶、[[元老院議官]]には就任する。[[1884年]]︵明治17年︶7月8日、[[男爵]]。[[1890年]]︵明治23年︶7月から翌年10月、[[1897年]]︵明治30年︶7月から1906年︵明治39年︶4月まで貴族院議員をつとめた。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる<ref>﹃官報﹄第2195号、明治23年10月22日。</ref>。[[1891年]]︵明治24年︶4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる<ref>﹃官報﹄第6769号、明治39年1月25日。</ref>。
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養子に、甥︵護久の次男︶の[[長岡護全|護全]]と、[[長岡護孝|護孝]]︵もりたか、実父は[[細川利永]]の婿養子・[[細川利文]]、夫人は[[細川護成]]の娘・英子︶がいる。
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養子に、甥︵護久の次男︶の[[長岡護全|護全]]と、[[長岡護孝|護孝]]︵もりたか、実父は[[細川利永]]の婿養子・[[細川利文]]、夫人は[[細川護成]]の娘・英子︶がいる。
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2014年3月23日 (日) 13:21時点における版
長岡護美 | |
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 天保13年9月19日(1842年10月22日) |
死没 | 明治39年(1906年)4月8日 |
改名 | 良之助(幼名)→喜連川金王丸→紀氏→長岡護美 |
別名 | 左兵衛督、子徽(字)、雲海(号) |
墓所 | 東京都品川区北品川の東海寺 |
官位 | 従五位下、左京亮、従四位下、侍従、従二位 |
主君 | 細川護久 |
藩 | 下野喜連川藩世嗣→肥後熊本藩大参事 |
氏族 | 細川氏→喜連川氏→長岡氏 |
父母 |
父:細川斉護、母:長(飯銅氏) 養父:喜連川煕氏 |
兄弟 | 細川慶前、細川韶邦、細川護久、津軽承昭、護美 |
妻 | 正室:知久子(大村純熙の三女) |
子 | 養子:護全、護孝 |
長岡 護美︵ながおか もりよし︶は、明治期の外交官・華族︵子爵︶・貴族院議員。錦鶏間祗候、麝香間祗候。肥後熊本藩主・細川斉護の六男。
生涯
嘉永3年︵1850年︶5月、喜連川藩主・喜連川煕氏の養子となり金王丸と称した。嘉永7年12月1日、将軍徳川家定に拝謁する。安政3年︵1856年︶4月に元服し、喜連川紀氏と名乗った。官位は左兵衛督。しかし、安政5年︵1858年︶4月28日、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った[1]。 明治元年︵1868年︶3月、明治新政府の参与に就任する。同月、従五位下左京亮、同年閏4月、従四位下侍従に昇進する。明治3年︵1870年︶、熊本藩知事で兄の細川護久に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。 1872年︵明治5年︶から1879年︵明治12年︶まで、アメリカを経てケンブリッジ大学に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、華族に加えられる。1880年︵明治13年︶、外務省に入省してベルギーやオランダの公使、1882年︵明治15年︶、元老院議官には就任する。1884年︵明治17年︶7月8日、男爵。1890年︵明治23年︶7月から翌年10月、1897年︵明治30年︶7月から1906年︵明治39年︶4月まで貴族院議員をつとめた。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。1891年︵明治24年︶4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる[3]。 養子に、甥︵護久の次男︶の護全と、護孝︵もりたか、実父は細川利永の婿養子・細川利文、夫人は細川護成の娘・英子︶がいる。栄典・授爵
- 外国勲章等