長谷川好道
表示
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Hasegawa_Yoshimichi.jpg/220px-Hasegawa_Yoshimichi.jpg)
長谷川 好道︵はせがわ よしみち、1850年10月1日︵嘉永3年8月26日︶ - 1924年︵大正13年︶1月27日︶は、日本の陸軍軍人。韓国駐剳軍司令官、参謀総長、朝鮮総督を歴任。官位は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・伯爵。
略歴
1850年︵嘉永3年︶10月1日、長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。剣術師範であった父について剣術を修める。戊辰戦争には精義隊小隊長として参戦する。
明治後は大阪兵学寮学生となり、1871年︵明治4年︶8月に陸軍少尉心得、同年12月には陸軍大尉・5番大隊長。1872年︵明治5年︶4月、陸軍少佐、翌年5月歩兵第1連隊長心得、同6月中佐として西南戦争に従軍する。戦後、広島鎮台歩兵第11連隊長、同鎮台参謀、大阪鎮台参謀長、中部監軍部参謀を経て陸軍大佐に昇進する。1885年︵明治18年︶フランス差遣を命ぜられ、翌年の1886年︵明治19年︶12月、陸軍少将・歩兵第12旅団長に昇進する。歩兵第12旅団長時代に、日清戦争に出征して旅順攻撃で戦功を立てる。
1895年︵明治28年︶、軍功により男爵を授爵して華族に列せられる。1896年︵明治29年︶6月、陸軍中将に進んで第3師団長、1898年︵明治31年︶には近衛師団長。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などに善戦した。1904年︵明治37年︶6月、陸軍大将に進級し、同年9月には朝鮮駐剳軍司令官に就任。
1906年︵明治39年︶4月、功一級金鵄勲章を受章し、翌年9月、子爵に陞爵。1908年︵明治41年︶の軍事参議官を経、1912年︵明治45年︶1月20日、参謀総長。1915年︵大正4年︶、元帥府に列せられる。
この間、伯爵に陞爵した長谷川は1916年︵大正5年︶10月16日、寺内正毅の後任として朝鮮総督に就任する[1]。総督在任中の朝鮮で起こった三・一独立運動に対し、軍を動員して鎮圧したことなどが武断政治として批判を浴び、土地調査事業を完了させたものの、わずか3年で斎藤実に交替する。
1924年︵大正13年︶1月28日薨去。墓所は東京都港区南青山・青山霊園。
備考
栄典
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[2]
- 1894年(明治27年)5月29日 - 勲二等瑞宝章[3]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 男爵、功三級金鵄勲章、旭日重光章[4]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功一級金鵄勲章、旭日桐花大綬章、明治三十七八年従軍記章[5]
- 1908年(明治41年)12月1日 - 金杯一組[6]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[7]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 大正三四年従軍記章[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]