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紫の一本

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むらさきの一もとから転送)

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上巻[編集]

御城廻り并古城
  • がぜぼ谷
  • 千日谷
  • 戒行寺谷
  • 薬研谷
  • 地獄谷
  • 清水谷
  • 大上谷
  • 茗荷谷

下巻[編集]

  • 極楽の井
  • 蜘の井
  • 堀兼の井
  • 柳の井
  • 麹町の井
  • 亀之井
  • 亀井戸
  • 油の井
  • 策の井
  • 橋場渡
  • 竹町渡
  • 鎧の渡
  • 三文渡
  • 東国丸
  • 山一丸
  • 熊一丸
  • 神田一丸
  • 川武丸
  • 窮屈丸
  • きり/\゛す
小路
  • 藪小路
  • 松原小路
  • 広小路
  • 式部小路
馬場
郭公
紅葉
時の鐘

参照元[編集]


2[4]

31863[5]
戸田茂睡『むらさきの一もと』と三浦浄心『見聞集』の対比
『むらさきの一もと』巻上(御城廻り)[6]より 『見聞集』巻1「江戸の川橋にいはれ有事」[7]より
権現様御代の御時、唐人参府の節馳走に被下候雉子鶏を、此所にやらいをゆひて入置たるゆへ、雉子橋と云とぞ、雉子橋の御門と云は、此橋より坤にあたるか、 然ば、家康公、関東へ御打入以後、から国の帝王より、日本へ勅使わたる、数百人の唐人、江戸へ来りたり/是等をもてなし給ふには、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子をあつめ給ふ、此流の水上に鳥屋を作り、雉子をかぎりなく入置ぬ、其雉子屋のほとりに橋一つありけり、夫を雉子橋と名付たり、
その次一ッ橋、これも権現様御うち入の時分は、丸木の一ッ橋かゝりし故に、今に其名を云、 又、其下に、丸木を一本渡したる橋有ければ、是をひとつ橋、まろき橋共いひならはす、
また竹橋と云も、其比は竹にてかけたる橋なり、 又、其次に、竹をあみて渡したる橋有、是をばすのこ橋、竹橋とも名付たり

後世の受容[編集]


鹿[3]

41751[3]

9[1]


写本[編集]

翻刻[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 佐佐木(1913)
  2. ^ 吉田活堂『鵜舟のすさみ』、『百万塔』、『編修地誌備要典籍解題』3
  3. ^ a b c 水江(1975)
  4. ^ a b 横田(1989)
  5. ^ 「○慶長見聞集」斎藤月岑『睡余觚操』国立国会図書館蔵本、文久3年・1863年
  6. ^ 『戸田茂睡全集』国書刊行会、大正4年・1915年、218頁
  7. ^ 『仮名草子集成 第56巻』東京堂出版、2016年、222頁

参考文献[編集]

  • 佐佐木信綱『戸田茂睡論』竹柏会、1913年
  • 水江漣子「『紫の一本』の成立 天和期の江戸町方」『近世封建支配と民衆社会 和歌森太郎先生還暦記念』弘文堂、1975年
  • 横田康子「『紫の一本』の一考察」『戸田茂睡という人』横田真精、1989年