インターナショナル (歌)
フランス語: L'Internationale ロシア語: Интернационал 英語: The Internationale 中国語: 国际歌/國際歌 朝鮮語: 국제가/인터내셔널가/인터나쇼날가 ベトナム語: Quốc tế ca | |
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和訳例:国際歌/インターナショナル | |
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作詞 | ウジェーヌ・ポティエ(1871年) |
作曲 | ピエール・ドジェーテル(1888年) |
採用時期 |
革命歌、労働歌として 1890年代 国歌として 1918年 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 1922年 ソビエト連邦 1931年 中華ソビエト共和国 |
採用終了 |
国歌として 1944年 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 1944年 ソビエト連邦 1937年 中華ソビエト共和国 |
試聴 | |
小史[編集]
﹁インターナショナル﹂の誕生[編集]
﹁インターナショナル﹂は19世紀末フランスのパリ・コミューン︵1871年︶の直後に﹁L'Internationale﹂として誕生した[2]。作詞者はパリ・コミューンに参加していたウジェーヌ・ポティエ(Eugène Pottier;1816 - 1887)である[2]。パリ・コミューンは1871年5月末に多数の犠牲者を出して鎮圧されると、直後の6月にポティエは亡命先のイギリスで詩﹁インターナショナル﹂を発表した[2][3][4]。この詩はラ・マルセイエーズの曲にあわせて歌われるようになった[5]。また、この詩はコミューン議会の同僚であったギュスターブ・ルフランセに捧げられている[3]。 パリ・コミューンの﹁闘士﹂だったポティエには犯罪者として死刑宣告がなされ、国外に逃亡した[2]。1887年にフランスに帰国したが、間もなく困窮して死んだ[2]。葬儀には赤旗を掲げた参列者が集まったが、警官によって排除された[2]。ポティエは共産主義運動の﹁殉教者﹂の1人とみなされるようになり、その命日は共産主義者にとって記念日の一つとされるようになった[2]。 この詩ははじめ集会などで朗読されるのみであった[3]が、翌1888年にフランス労働党リール支部勤労者音楽隊(La Lyre des Travailleurs)の依頼で、その団員だったピエール・ドジェーテル(Pierre Degeyter; 1848 - 1932)が﹁L'Internationale﹂に曲をつけた[2][3]。ピエールはリールの音楽院で音楽を学んだ人物で、作曲のほか演奏も担当した[2]。ピエールの曲にのせた﹁L'Internationale﹂の初演奏は1888年7月とされている[2]。ラ・ヴィニェット街のキャバレーでピエールが労働者に歌い聞かせたこの曲は、リールの労働者の間で歌われるうちにノール県にも伝わり、1895年にはゲート派の組合大会、1899年にはフランス労働党大会でも歌われ、フランス全土へと広がっていった[3][4]。そして、大会に臨席した外国代表らによって、各国に広まっていった[4]。曲の権利を巡る騒動[編集]
作曲者がピエール・ドジェーテルである︵つまり、彼が共産主義者である︶と知れると社会生活に悪影響が及ぶため、作曲者は単に﹁ドジェーテル﹂と姓だけがクレジットされ、個人が特定できないように名は伏せられていた[2]。このため、のちに著作権権利者を巡って争いが起きることになった[2]。 労働者合唱団の創設者のひとりで、リール市長やフランスの国会議員を歴任したギュスターヴ・ドゥロリという人物が、﹁L'Internationale﹂の詩・曲の権利を有すると主張するようになった[2]。﹁詩﹂の権利はもともとポティエの未亡人にあったが、これを別の人物に売り渡し、これをさらにドゥロリが買収した[2]。﹁曲﹂は、ピエール・ドジェーテルの兄弟のアドルフ・ドジェーテル(Adolphe Degeyter)が作曲したとし、ドゥロリがアドルフから権利を譲り受けたと主張した[2]。ドゥロリの主張は認められ、のちにドゥロリとフランス社会党が権利を分け合うようになった[2]。 その頃ピエールはリールを不在にしており、一連の出来事を知らないままでいた[2]。リールに戻って曲の権利が失われていることを知ると、ピエールは自分が作曲者であり、曲の権利を有するとして訴え出た[注 1][2]。この訴えが退けられると、ピエールは1904年に本格的な法廷闘争を始めた[2]。 裁判では双方が作曲者であると主張した[2]。ドジェーテル家の家族が証人として出廷したが、家族のあいだでも意見が分かれた[2]。10年の係争の末に、ピエールは敗訴した[2]。 1914年の夏に第一次世界大戦が始まり、大きな国難に接したアドルフは、実は嘘をついていたという﹁告白文﹂を認めて1915年に送付した[2]。この告白に拠れば、当時の市長だったドゥロリに逆らっては町で生きてゆくことができなくなると恐れ、ドゥロリに言われるがままになっていたということだった[2]。 この告白文によって、戦後の1922年に、ピエールが正当な作曲者と認められた[2]。ピエールは共産主義活動のシンボルになり、共産党大会ではピエールの指揮で﹁L'Internationale﹂が演奏された[2]。一方、この頃共産主義者と社会主義者は仲違いをするようになっており、社会主義者の出版物では引き続き﹁L'Internationale﹂の作曲者はアドルフ・ドジェーテルと宣伝された[2]。﹁インターナショナル﹂の広がり[編集]
﹁L'Internationale﹂が、広く注目をあつめるようになったのは、1896年にリールで行われた労働者の大会で演奏されたときである[2]。この大会には国外からも参加者があり、彼らを通じて広がっていった[2]。1902年にはロシア語に翻訳された[6][3]。 1910年には、コペンハーゲン︵デンマーク︶で社会主義者の象徴として歌われたという記録がある[2]。オリジナルのフランス語版は6番までの歌詞があったが、他言語に翻訳される際にはいくつか割愛され、2番か3番あたりまでになっている場合がある[5]。1900年の英訳版は5番までであり、アメリカやカナダではこれが有名である[5]。イギリス、アイルランド、オーストラリアなどでは6番までの英訳歌詞が知られている[5]。 1917年には、ロシアで社会主義革命︵ロシア革命︶が成功してロシア・ソビエト社会主義共和国が誕生すると、1918年に国歌に採用された[1][7][3]。ソビエト連邦では第二次世界大戦中の1944年にスターリンが新しい国歌を定めるまで、﹁インターナショナル︵Интернационал︶﹂が国歌として歌われた[1][7][注 2]。 1922年には、ロシア革命5周年を記念して﹁インターナショナル﹂が初めて日本に紹介された[1]。掲載したのは当時の雑誌﹃種蒔く人﹄で、このとき和訳歌詞ともに紹介された[1]。 レーニンは次のように評している[4]。ポチエは貧困のうちに死去した。だが彼は自分について真の不朽の記念碑をのこした。彼は歌によるもっとも偉大な宣伝家のひとりであった。彼が最初の歌をつくった時には、社会主義的労働者の数は、たかだか数十をもってかぞえられた。しかし、いまでは何千万と言うプロレタリアがウジェーヌ・ポチエの歴史的な歌を知っているのである。— ウラジーミル・レーニン、「ウジェーヌ・ポチエ」『レーニン全集』36巻243頁
1913年1月3日
歌詞[編集]
フランス語原文 | 英語版[11] | ドイツ語版[12][13] | ロシア語版(元国歌) | 中国語版(元国歌) | 日本語版[14] |
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Debout, les damnés de la terre |
Arise ye prisoners of starvation. |
Steht auf, Verdammte dieser Erde, |
Вставай, проклятьем заклеймённый, |
起來,饑寒交迫的奴隸!
起來,全世界受苦的人!
滿腔的熱血已經沸騰,
要為真理而鬥爭!
舊世界打個落花流水,
奴隸們起來,起來!
不要說我們一無所有,
我們要做天下的主人!
Chorus
這是最後的鬥爭,
團結起來到明天,
英特納雄耐爾
就一定要實現!
從來就沒有什麼救世主,
也不靠神仙皇帝!
要創造人類的幸福,
全靠我們自己!
我們要奪回勞動果實,
讓思想衝破牢籠!
快把那爐火燒得通紅,
趁熱打鐵才能成功!
Chorus
壓迫的國家、空洞的法律,
苛捐雜稅榨窮苦。
富人無他務盡享逍遙,
窮人的權利只是空話。
受夠了﹁監護﹂下的沉淪,
平等呼喚新的法律‥
從來沒有無義務的權利,
也沒有無權利的義務!
Chorus
礦井和鐵路的帝王們,
在神壇上奇醜無比。
除了去掠奪他人的勞動,
他們還會做些什麼?
在他們的保險箱裡,
勞動的財富堆積成山!
從那些剝削者的手裡,
人民只是在討回血債!
Chorus
帝王用硝煙迷惑我們,
我們要向暴君開戰。
讓軍中戰士一齊罷工,
使暴力機器亂作一團。
食人魔若敢再下命令,
叫我們送死成其虛榮‥
他們將看到我們的子彈,
全都射向自己的將軍!
Chorus
是誰創造了人類世界?
是我們勞動群眾!
一切歸勞動者所有,
哪能容得寄生蟲?!
最可恨那些毒蛇猛獸,
吃盡了我們的血肉!
一旦把它們消滅乾淨,
鮮紅的太陽照遍全球!
Chorus
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起て、地に伏す者よ |
古典語の歌詞も存在し、主に古典語に精通した知的エリートによって書かれている。
ラテン語版[10] | ギリシア語(古代)[10] | 漢文版[10][15] | ヴェーダ語[16] |
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Consurgite, damnati mundi! |
Στῆτε, τῆς γῆς ὦ ὑποταρτάριοι, |
起󠄁也,爲人汚辱咒罵者󠄁!
起󠄁也,天下飢󠄁寒󠄁之奴隸!
滿腔󠄁熱血沸騰󠄁,
拼死一戰決矣。
舊社󠄁會毀之徹底,
新社󠄁會造󠄁之光華。
莫道󠄁吾等一錢不値,
從今要普有天下。
Chorus
此乃吾等之
最後決死爭,
同英德納󠄁雄納󠄁爾
人類󠄀方重興!
非英雄,
非天皇老帝󠄁,
無人可解放吾等,
此事僅可靠吾等。
需掃󠄁盡萬重之壓迫󠄁,
爭取吾等之權利。
趁此洪爐火熱,
正好發憤錘礪。
Chorus
壓迫󠄁之國、空󠄁洞之法,
苛捐雜稅榨窮苦‥
富人無務獨逍遙。
窮人之權僅空󠄁話,
吾等不堪受護佑下之沈淪。
平󠄁等需新法,
無無義務之權,
平󠄁等!亦無無權之義務!
Chorus
礦井及󠄁鐵路之帝󠄁王,
奇醜無比於󠄁神󠄀壇之上。
斯等搶奪勞動,
然更󠄁無所󠄁求?
於󠄁其箱篋之中,
勞動之創造󠄁一無所󠄁有!
斯等僅從剝削󠄁者󠄁之手中,
討囘血債。
Chorus
國君欲以霢以迷󠄁吾等,
吾等需合而與暴君戰。
令士卒拒戰於󠄁軍中,
不爲暴君戰。
若斯等堅持與吾等戰,
令吾等英勇󠄁犧牲‥
斯等將知吾等之彈丸,
將射於󠄁吾等之將官。
Chorus
僅有偉󠄁大之勞動軍,
僅有吾世界之勞工,
有權以享大地;
何容寄生蟲!
霹靂聲巨雷忽震,
殘暴賊滅跡銷聲。
觀夫!光華萬丈󠄁,
照耀󠄁吾紅日一輪。
Chorus
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Udihi, baddha nāgara! |
各国のインターナショナル[編集]
日本[編集]
Интернационал | |
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和訳例:インターナショナル(国際歌) | |
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作詞 | アルカジー・コッツ(1902) |
作曲 | ピエール・ドジェーテル(1888) |
採用時期 |
1918年 (ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国国歌) 1922年 (ソビエト連邦国歌) |
採用終了 |
1944年 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 ソビエト連邦 |
試聴 | |
ロシア・ソビエト連邦[編集]
ソビエト連邦では、1944年までソビエト連邦と、その構成国であるロシア・ソビエト社会主義共和国の国歌とされた。1944年以降は国歌ではなくなりながらも、ソ連共産党の党歌とされ、共産党の党大会などで歌われた。しかし、1991年にソビエト連邦が崩壊すると、この歌を公式な場で歌う機会は少なくなっているが、今日でもロシア連邦共産党の党歌として使われている。国際歌 国际歌 | |
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作詞 | 瞿秋白(1923年) |
作曲 | ピエール・ドジェーテル(1888年) |
採用時期 | 1931年11月7日 |
採用終了 | 1937年9月22日 |
試聴 | |
中華人民共和国[編集]
北朝鮮[編集]
朝鮮民主主義人民共和国でも、朝鮮人民軍功勲国家合唱団が朝鮮語でカバーしている。インターナショナルの登場する作品[編集]
1936年[要出典]のグリエール作曲﹁ブリヤート-モンゴル自治共和国のための英雄行進曲﹂において、﹁インターナショナル﹂の旋律が引用されている。[要出典] 1973年のイタリア映画﹃フェリーニのアマルコルド﹄主人公チッタの村にファシスト党員がやってくる。夜、党員たちが集まってバールで飲んでいると広場の鐘楼からインターナショナルの響きが蓄音機から流れてくる。怒ったファシストたちが鐘楼めがけて銃を乱射する。 1981年のアメリカ映画﹃レッズ﹄はロシア革命を描いており、﹁インターナショナル﹂が劇中で使用されている[1]。 1997年のアメリカ映画﹃エアフォース・ワン﹄では、ラデク将軍が釈放される際に刑務所の囚人が自然に合唱し、ハイジャック犯の首謀者・イワン・コルシュノフが管制室のマイクを操作し、機内全体にその合唱を響かせた。 2000年にアメリカでインターナショナルの歌そのものの歴史を主題としたドキュメンタリー映画"The Internationale"が製作・公開された[要出典]。 2001年公開の日本映画﹃光の雨﹄では、登場人物が肩を組んで歌う場面が登場する。 2003年公開の日本映画﹃スパイ・ゾルゲ﹄では、主人公ゾルゲが刑死する場面で﹁インターナショナル﹂の旋律が流れる。 2007年の中国映画﹃八月一日﹄は、第一次国共内戦の一環である1927年8月1日に起きた南昌蜂起を描いている。周恩来が江西大旅社から出てきて、武装蜂起する場面で﹁インターナショナル﹂が使用されている。 2011年の中国映画﹃開天闢地﹄は第一次国共内戦を描いており、オープニング曲に﹁インターナショナル﹂が使用されている。 2017年の韓国映画﹃金子文子と朴烈︵パクヨル︶﹄は関東大震災の時代を描いており、無政府主義の独立運動家たちが合唱をする場面が登場する。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 最初に訴え出たのは、「Court of Honour」という「個人の名誉」を取り扱う法廷。
- ^ 正確には、1918年から1922年までロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国歌となり、1922年に同共和国を中心としてソビエト連邦が形成されて、その連邦国歌となっている。
- ^ 3人のうち、佐野碩については日本では旧著作権法下(没後50年)で保護期間を満了したが、ウィキペディアのサーバがあるアメリカ合衆国では佐野の没後50年の時点で保護期間が70年になっていたため、依然保護期間内である。
出典[編集]
参考文献[編集]
●鐙屋一﹁映画﹃東方紅﹄における歴史と政治: 周恩来と﹁文革﹂以前の毛沢東崇拝﹂﹃目白大学人文学研究﹄第10号、目白大学、2014年、93-109頁。 ●鐙屋一﹁﹁文革﹂期における合唱組曲﹃長征組歌﹄とその政治的意義﹂﹃目白大学人文学研究﹄第12号、目白大学、2016年、147-167頁。 ●荒川有史﹁︿インターナショナル﹀への旅﹂﹃文学と教育﹄第151号、文学教育研究者集団、1990年、28-39頁。 ●絲屋寿雄﹁﹃インターナショナル﹄の思い出﹂﹃日本労働歌革命歌選集戦前編解説書 解放のうたごえ﹄音楽センター、1972年、14-15頁。 ●井上頼豊; 福田定良; 松島栄一﹁日本大衆音楽史﹂﹃知性増刊 日本のうたごえ﹄河出書房、1956年、38-45頁。 ●河西秀哉﹁1950年代うたごえ運動論﹂﹃大原社会問題研究所雑誌﹄707・708、大原社会問題研究所、2014年、7-19頁。 ●佐々木孝丸﹁"インターナショナル"歌い始め﹂﹃日本労働歌革命歌選集戦前編解説書 解放のうたごえ﹄音楽センター、1972年、12-13頁。 ●関鑑子﹁うたごえ運動の理論: 音楽とは何か﹂﹃知性増刊 日本のうたごえ﹄河出書房、1956年、56-61頁。 ●叢小榕﹁文化大革命期の文芸作品における音楽の普遍的芸術性と解釈の多面性について﹂﹃明星大学研究紀要人文学部﹄第54号、明星大学、2018年、27-34頁。 ●モーリス・トレーズ﹁不滅のうた﹃インターナショナル﹄﹂﹃日本労働歌革命歌選集戦前編解説書 解放のうたごえ﹄音楽センター、1972年、8-11頁。 ●西尾治郎平; 矢沢保﹃日本の革命歌﹄一声社、1974年。全国書誌番号:86030112。 ●西尾治郎平; 矢沢保﹁革命歌をたずねて: すりきれた取材ノートから﹂﹃日本の革命歌﹄一声社、1974年、217-247頁。全国書誌番号:86030112。 ●矢沢保﹁解説﹂﹃日本労働歌革命歌選集戦前編解説書 解放のうたごえ﹄音楽センター、1972年、22-53頁。 ●矢沢保﹁自由と解放のうたごえ: 革命歌の歴史﹂﹃日本の革命歌﹄一声社、1974年、249-306頁。全国書誌番号:86030112。 ●山田和秋﹃﹁青年歌集﹂と日本のうたごえ﹄明石書店、2013年。 ●﹃国のうた﹄弓狩匡純・著,文藝春秋社,2004 ●米原いたる﹁戦前の外国の革命歌と日本の革命運動の関連について﹂﹃日本労働歌革命歌選集戦前編解説書 解放のうたごえ﹄音楽センター、1972年、4-5頁。 ●李正旭﹁村山知義における演劇と映像の融合﹂﹃文学研究論集﹄第29号、筑波大学比較・理論文学会、2011年、87-104頁。 ●﹃新版 ロシアを知る事典﹄平凡社,2004,ISBN 4-582-12635-9関連項目[編集]
- ロバート・ワイアット - 本曲をレパートリーとする
- アレア - 同上
- ソウル・フラワー・モノノケ・サミット - アルバム『レヴェラーズ・チンドン』でカバー
- メーデー歌(聞け万国の労働者)
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