オスマン帝国の君主
オスマン帝国の皇帝 Osmanlı padişahları | |
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過去の君主 | |
オスマン家の紋章 | |
最後の皇帝メフメト6世 | |
初代 | オスマン1世 |
最終代 | メフメト6世 |
称号 | 皇帝陛下 |
宮殿 | ドルマバフチェ宮殿 |
任命権者 | 帝位請求者 |
始まり | 1299年 |
終わり | 1923年10月29日 |
現王位請求者 | ハルーン・オスマン |
オスマン帝国の皇帝︵オスマンていこくのこうてい、Osmanlı padişahları︶は、1299年から1923年10月29日までオスマン帝国で用いられた称号。
36代624年間にわたって現在のトルコ共和国の地に君臨し、現在のトルコ人︵オスマン人︶の元となった。
概要[編集]
歴代君主の呼称については、通例的に﹁スルタン﹂︵イスラム世界における世俗の最高権力者の称号︶が用いられる。これは、オスマン帝国の君主たちがイスラム的な権威をまとった君主号としてこれを使用した。﹁スルタン﹂の呼称以外に公的文書に一義的に君主を示す場合には﹁パーディシャー﹂︵大王あるいは皇帝の意、﹁帝王﹂とも訳される︶を使い、スルタンの称号だけならば他の王族や貴顕にも使用されている︵ただし碑文や銘文ではオスマン帝国の君主に﹁パーディシャー﹂はあまり使用されなかった︶[1]。またイスラム世界の指導者的称号である﹁カリフ﹂もムラト2世︵第6代︶の頃から自称的だが碑文や銘文に使用されはじめ、16世紀以後アラブ地域の支配を固めるにつれ[# 1]、元来はクライシュ族︵ムハンマドの出自︶のみがつけるカリフ位にトルコ人[# 2]のオスマン家はつけないしきたりだったが、オスマン帝国の大宰相も務めた文人リュトフィー・パシャやイスラム長老のエビュッスウードなどの擁護もあり、オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねる﹁スルタン=カリフ制﹂が行われるようになった[2]。 ﹁スルタン﹂の称号を使うようになったのは少なくともオルハン︵第2代︶の時代からで、彼が建築させたモスクに﹁スルタン﹂の称号が刻まれていた[3]。次のムラト1世︵第3代︶の時代にはこれ以外に﹁ハン﹂︵トルコ系遊牧民族の君主号︶が使われてたことが彼の建てたモスクの碑文にある[4]。 これ以外には、メフメト2世︵第7代︶の頃から使われ始めた﹁ハン﹂に由来する﹁ハーカーン﹂という呼称[# 3]、用例としては少ないがアレクサンドロス大王の後継者的な意味合いで﹁ズルカルナイン︵双角王︶﹂、コンスタンティノポリス征服後の﹁カエセリ・ルーム︵ローマのカエサル︶﹂[# 4]、後の時代にはセリム1世︵第9代︶がマムルーク朝を倒してアラビア地方を征服した際の﹁両聖都︵マッカとマディーナ︶の守護者﹂なども存在する[5]。歴代君主[編集]
帝位請求者[編集]
●(37) アブデュルメジト2世、1922年 - 1944年 先代︵最後の皇帝︶メフメト6世の従弟 32代アブデュルアズィズ1世の子 ﹁スルタン﹂ではないが﹁カリフ﹂の称号は継承︵1922-1924年︶。1924年にカリフ制そのものが廃止され退位[6]。 ●(38) アフメト4世、1944年 - 1954年 33代ムラト5世の孫 ●(39) オスマン4世、1954年 - 1973年 先代の弟 33代ムラト5世の孫 ●(40) アブデュルアズィズ2世、1973年 - 1977年 32代アブデュルアズィズの孫 (37) アブデュルメジト2世の甥 ●(41) アリー1世、1977年 - 1983年 (38) アフメト4世の子 ●(42) オルハン2世、1983年 - 1994年 34代アブデュルハミト2世の孫 ●(43) エルトゥールル2世、1994年 - 2009年 先代の従兄 34代アブデュルハミト2世の孫 ●(44) バヤズィト3世、2009年 - 2017年 31代アブデュルメジト1世の曾孫 36代︵最後の皇帝︶メフメト6世の兄メフメト・ブルハネッティン・エフェンディの孫 ●(45) アリー2世、2017年 - 2021年 34代アブデュルハミト2世の曾孫 ●(46)ハルーン・オスマン、2021年 - 現在 34代アブデュルハミト2世の曾孫脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 18世紀後半のオスマン帝国では「この時のセリム1世のマムルーク朝征服時に、アッバース朝カリフの末裔をイスタンブルに連れ帰った際、セリムにカリフの位が禅譲された。」とされた。(小笠原(2018)p.119)
- ^ オスマン家自身も出自をトルコ系のオグズ族カユ氏族の系譜を名乗っていた。
- ^ トプカプ宮殿の「帝王の門」にメフメト2世を示す言葉に「二つの陸のハーカーン、二つの海のスルタン」という銘文がある他、西暦1470年に発行された大アクチェ貨という銀貨にもこの文字が彫られている。(小笠原(2018)p.93)
- ^ ただし、この「カエサル(カエセリ)」は古代イランの王を指す「キスラー」の対で用いられる言葉で、ローマ帝国の後継者というより「東西の王(キスラーとカエサル)を兼ねる者」とオスマン帝国の君主を称えているという方が近い。(小笠原(2018)p.95)
出典[編集]
- ^ 岩本(2017)p. 44-48; 小笠原(2018)p.6-7
- ^ 小笠原(2018)p.148-149「カリフとしてのスルタン」
- ^ 小笠原(2018)p.39
- ^ 小笠原(2018)p.48
- ^ 小笠原(2018)p.93-95・119
- ^ 小笠原(2018)p.282-284
参考文献[編集]
- 小笠原弘幸『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』中公新書、2018年。ISBN 978-4-12-102518-0。
- 岩本佳子 「「スルタン」から「パーディシャー」へ:オスマン朝公文書における君主呼称の変遷をめぐる一考察」『イスラム世界』88、2017年、29-56頁。