カルルク
カルルク︵古代テュルク語‥![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Old_Turkic_letter_OQ.svg/12px-Old_Turkic_letter_OQ.svg.png)
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Old_Turkic_letter_L1.svg/12px-Old_Turkic_letter_L1.svg.png)
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Old_Turkic_letter_R1.svg/12px-Old_Turkic_letter_R1.svg.png)
[1]、英: Qarluq︶とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄・葛邏禄・葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ ︵Khallokh︶、アラビア語では قارلوق ︵Qarluq︶と記された。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Old_Turkic_letter_OQ.svg/12px-Old_Turkic_letter_OQ.svg.png)
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Old_Turkic_letter_L1.svg/12px-Old_Turkic_letter_L1.svg.png)
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Old_Turkic_letter_R1.svg/12px-Old_Turkic_letter_R1.svg.png)
︵q.r.l.uq︶…﹃オルホン碑文﹄
●Karluck…ラシード・ウッディーン﹃集史﹄
●Karlugh、Karligh…アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー﹃世界征服者の歴史﹄
●Karlik…アブル=ガーズィー・ハン﹃テュルクの系譜﹄
●Kharlakhi…イブン・ハウカル
●Kazlak…ミルフワーンド
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/%E5%9B%9E%E9%B6%BB%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png/350px-%E5%9B%9E%E9%B6%BB%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png)
8世紀後半の周辺国。
天宝の初め︵742年頃︶、抜バシ悉ュ蜜ミ部・回ウイ紇グル部・歌カル邏ル禄ク︵葛邏禄︶部の3部族は東突厥︵第二可汗国︶に叛き、抜バシ悉ュミ蜜ル部の部族長である阿史那施を推して頡イル跌ティ伊リシ施ュ・可カガ汗ンとし、回ウイ紇グル部の部族長である骨クト力ゥル裴グ・羅ボイと歌カル邏ル禄ク部の部族長はそれぞれ左葉護︵左ヤブグ︶・右葉護︵右ヤブグ︶と称した。
天宝3載︵744年︶8月、抜バシ悉ュミ蜜ル部・回ウイ紇グル部・葛カル邏ル禄ク部の3部族は東突厥の烏オズ蘇ミ米シ施ュ可カ汗ガを殺し、その首を唐の京師に伝え、太廟に献上した。東突厥では烏蘇米施可汗の弟である白眉特テギ勤ンの鶻隴匐が即位して白眉可汗となり、抜バシ悉ュミ蜜ルの頡イル跌ティ伊リシ施ュ・可カガ汗ンと対立した。その後、回ウイ紇グル部と葛カル邏ル禄ク部は頡イル跌ティ伊リシ施ュ・可カガ汗ンを殺し、回ウイ紇グル部の骨クト力ゥル裴グ・羅ボイラを奉じて骨クト咄ゥル禄グ・毘ビル伽ゲ・闕キョ可ル・汗カガンとした。その後、骨クト力ゥル裴グ・羅ボイラはふたたび唐に遣使を送って入朝したため、懐仁可汗の称号を拝命した。
葛カル邏ル禄クは鬱ウテ督ュケ軍ン山を拠点とする回ウイ紇グルに臣従する一方、金山︵アルタイ山脈︶と北庭都護府︵ビシュバリク︶においては葉ヤブ護グとして自立し、唐にも毎年朝貢した。葛カル邏ル禄クの葉ヤブ護グ・頓トン毘・ビ伽ルゲは東突厥の西葉護︵西ヤブグ︶である阿布思を捕縛した功により、金山郡王に封ぜられた。天宝の間は5回入朝した。
天宝10載︵751年︶、ズィヤード・イブン・サーリフの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍が、天山山脈の西北麓のタラス河畔で衝突した︵タラス河畔の戦い︶。この時、歌カル邏ル禄クがアッバース軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、大敗を喫した。
至徳︵756年 - 758年︶の後、歌カル邏ル禄クは強盛となって回紇と双璧をなし、十姓可汗︵オンオク・カガン‥西突厥可汗︶の故地︵イリ地方︶に移って碎スイ葉ア・怛タ邏ラ斯スの諸城を占拠した。これ以降、歌カル邏ル禄クは唐に入朝しなくなった。
大暦年間︵766年 – 779年︶の後、西突厥を受け継いだ黄姓と黒姓の突テュ騎ルギ施シ二姓は次第に衰退していったため、多くは歌カル邏ル禄クや回ウイ鶻グに附き、一部はチュイ川上流に逃れた。
[3]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Old_Turkic_letter_OQ.svg/12px-Old_Turkic_letter_OQ.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Old_Turkic_letter_L1.svg/12px-Old_Turkic_letter_L1.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Old_Turkic_letter_R1.svg/12px-Old_Turkic_letter_R1.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Old_Turkic_letter_Q.svg/12px-Old_Turkic_letter_Q.svg.png)
名称[編集]
カルルクの存在は東西史料の両方に記されており、さまざまな記名がある。 ●歌邏禄…﹃旧唐書﹄、﹃新唐書﹄ ●葛邏禄、葛禄…﹃新唐書﹄![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Old_Turkic_letter_OQ.svg/12px-Old_Turkic_letter_OQ.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Old_Turkic_letter_L1.svg/12px-Old_Turkic_letter_L1.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fe/Old_Turkic_letter_R1.svg/12px-Old_Turkic_letter_R1.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Old_Turkic_letter_Q.svg/12px-Old_Turkic_letter_Q.svg.png)
構成部族[編集]
﹃新唐書﹄回鶻伝下によると、歌邏禄︵カルルク︶には3つの部族がおり、北庭都護府︵現在の昌吉回族自治州ジムサル県︶の西北、金山︵アルタイ山脈︶の西に住んでいたという。顕慶2年︵657年︶、唐によってそれぞれに都督府が置かれた。 ●謀落︵謀剌、Bulāq︶部→陰山都督府 ●熾俟︵婆匐、Čigil︶部→大漠都督府/金附州 ●踏実力部→玄池都督府 また、これら三部族を三姓歌邏禄︵ウチュ・カルルク、Üč Qarluq︶とも呼んだ。歴史[編集]
西突厥の支配[編集]
初めは西突厥の構成種族として現れ、歌邏禄︵カルルク︶の他に咄陸︵都陸︶・弩失畢・処月・処密・姑蘇などがいた。 貞観元年︵627年︶、西突厥の統葉護可汗︵在位‥619年頃 - 628年︶は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国々に対する恩賞を与えなかったため、諸部の衆は怨みを抱き始め、遂に歌カル邏ル禄ク種の多くがこれに離反した。 貞観13年︵639年︶、西突厥の乙毘咄陸可汗︵在位‥638年 - 653年︶は阿史那賀魯を葉護︵ヤブグ‥官名︶に任命し、怛邏斯川︵タラス川︶に住まわせた。これによって阿史那賀魯は処密・処月・姑蘇・歌カル邏ル禄ク・弩失畢の五姓の衆を統べることとなる。 貞観20年︵646年︶頃、東突厥の阿史那斛勃が乙注車鼻可汗と称して唐の羈縻︵きび︶支配から自立すると、西の歌カル邏ル禄クは北の結クル骨グとともに車鼻可汗に附いた。 貞観23年︵649年︶、太宗は右驍衛郎将の高侃に命じて迴ウイ紇グ部・僕ボク骨トゥ部などの兵を招き寄せて車鼻可汗を襲撃させると、歌カル邏ル禄ク部の泥孰闕キョ俟ル・利イル発テベル︵部族長︶や抜塞匐部・処木昆部の莫バガ賀テュ咄ル・俟イル斤キン︵部族長︶らが部落を率いて車鼻可汗に背き、相次いで唐に投降してきた。その後、唐は阿史那賀魯の部落を賀魯州とし、歌カル邏ル禄クと挹怛︵エフタル︶の2部を併せて葛邏州とし、雲中都督府に属させた。 永徽元年︵650年︶9月、車鼻可汗が高侃によって捕えられると、唐はその余衆と歌カル邏ル禄クの左廂を鬱督軍山︵ウテュケン山︶に移住させて渾河州とし、渾河州刺史に統領させ、歌カル邏ル禄クの右廂を狼山都督府とし、狼山都督に統領させた[2]。唐はこの後、単于都護府と瀚海都護府を設置した。 こうして歌カル邏ル禄クの部衆はモンゴル高原の鬱ウテ督ュケ軍ン山に移住したが、アルタイ山脈の西に残った歌カル邏ル禄クもいた。顕慶元年︵656年︶、彼らは処密・処月・姑蘇・弩失畢らとともに西突厥の阿史那賀魯に附いて反乱を起こした。8月、左衛大将軍の程知節は阿史那賀魯の所部である歌カル邏ル禄クの獲剌頡発および処月の預支俟イル斤キンらと楡幕谷で戦い、これを破した。 [3]回紇との同盟と独立[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/%E5%9B%9E%E9%B6%BB%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png/350px-%E5%9B%9E%E9%B6%BB%E5%B8%9D%E5%9B%BD.png)