ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領

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ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
(ハノーファー選帝侯領)
Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg
(Kurfürstentum Hannover)
カレンベルク侯領 1692年 - 1814年 ヴェストファーレン王国
ハノーファー王国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 (ハノーファー選帝侯領)の国旗 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 (ハノーファー選帝侯領)の国章
(国旗) (国章)
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 (ハノーファー選帝侯領)の位置
(1789年)
公用語 低地ドイツ語
首都 ハノーファー
選帝侯
1692年 - 1698年 エルンスト・アウグスト
変遷
成立 1692年
グレートブリテン王国と同君連合に1717年
王国に昇格1814年

: Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg: Kurfürstentum HannoverKurhannover91692=1708

1815

1714[1]18071814

[]


169211708Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg使

[]

1720173131803

1692

1705()171541719

17001321831

歴史[編集]

グレートブリテン王国との関係[編集]


17141719

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1731168962173317281733400

6217421743



殿

七年戦争[編集]


11754 - 17632

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1793 - 179716179517991795

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1799 - 18021801244101801退

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180351852675

18051805 - 1806121806

180718101810沿

33

1813101814

ハノーファー選帝侯[編集]

カール4世金印勅書の規定により選帝侯領は不可分と定められていた。すなわち、領土の拡張はできるが、領土を分割相続することは禁止されていた。これはブラウンシュヴァイク=リューネブルクで多くの公国が成立した結果をもたらした分割相続の伝統と相反するものであった。継承は男子長子相続制をとったが、当時ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家が採用したサリカ法に反するルールであったため、この変更は帝国の承認を必要とした。継承法の変更は1692年、皇帝レオポルト1世によって承認された。

神聖ローマ帝国は1806年に解散されたが、ゲオルク3世の政府は解散が最終決定であるとは考えず、1814年まで選帝侯とブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。

ハノーファー選帝侯
肖像画 名前 在位
エルンスト・アウグスト 1692年 - 1698年 1692年、皇帝レオポルト1世に9番目の選帝侯に指名されるものの、帝国議会の承認を得る前に死去。
ゲオルク・ルートヴィヒ 1698年- 1727年 1708年に帝国議会から正式に選帝侯として認められる。1714年、グレートブリテン王およびアイルランド王に即位。1719年、ブレーメン=フェルデン英語版を獲得。
ゲオルク・アウグスト 1727年 - 1760年 1731年、ラント・ハーデルン英語版を獲得。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ 1760年 - 1806年 1801年、連合王国の国王に即位。1803年、オスナブリュック司教領英語版を獲得。ナポレオン戦争での占領や併合によりハノーファーの統治権を1801年初に失い、4月に奪回、1803年5月に失い、1805年秋に奪回、1806年初に失い、1813年10月に奪回。1806年、神聖ローマ帝国の消滅により選帝侯位を失ったが、ゲオルク3世は消滅を認めず、ハノーファー王に即位する1814年まで選帝侯を称した。ハノーファー王位は1814年から1815年のウィーン会議で承認された。

脚注[編集]



(一)^ 1818063Auguste Himly, Histoire de la formation territoriale des États de l'Europe centrale. 1876, vol. 1, pp. 9596.

参考文献[編集]