ファシスト党
![]() 国家ファシスト党 Partito Nazionale Fascista | |
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![]() 党章 | |
指導者 | ベニート・ムッソリーニ |
書記長 | ミケーレ・ビアンキ |
スローガン |
Credere, Obbedire, Combattere (信じ、従い、戦う) |
党歌 | 『ジョヴィネッツァ』 |
創立 | 1921年11月9日 |
解散 |
1943年7月27日 (1947年12月22日から非合法化) |
合併元 |
イタリア戦闘者ファッシ イタリア・ナショナリスト協会 |
前身政党 | 革命ファシスト党 |
後継政党 | 共和ファシスト党 |
本部所在地 | ローマ(ブラスキ宮) |
機関誌 | ポポロ・ディタリア |
学生部 | ファシスト学生団 |
青年部 |
青年ファシスト前衛隊 (1921–1926) 全国バリッラ団 (1926–1937) リットーリオ青年団 (1937–1943) |
労働組合 |
国民総連盟 ドーポ・ラヴォーロ団 |
準軍事組織 | 黒シャツ隊(国防義勇軍に再編) |
党員・党友数 | 2,630,000人(1939年)[1] |
政治的思想 |
ファシズム[注 1] • ナショナリズム[2][3][4][5] • コーポラティズム[6][7] • 右派ポピュリズム[8][9] • 国民保守主義[2][3][4][5] • 社会保守主義[10][11][12] • 帝国主義[2][3] |
政治的立場 | 第三の位置 |
国内連携 |
国民ブロック (1921) 国民リスト (1924) |
国際連携 | 国際ファシスト会議 |
公式カラー | 黒色、トリコローリ |
党旗 | |
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イタリアの政治 イタリアの政党一覧 イタリアの選挙 |
概要[編集]
PNFは第一次世界大戦で政治家ベニート・ムッソリーニらが設立した政治団体﹁革命行動ファッショ﹂に起源を持ち[16]、民族主義による社会・国家や国民の団結︵ファッシ、古代ローマのファスケスを語源とする︶を説き、民族統一主義︵未回収のイタリア︶に基づいた参戦論を主張した。イタリア王国が大戦参加を決めるとムッソリーニらは志願兵として従軍して、塹壕戦を通じた愛国心や戦友愛の高揚を経験した。 復員後、ムッソリーニは﹁革命行動ファッショ﹂の精神を引き継いだ﹁イタリア戦闘者ファッシ﹂(FIC)を設立した。同団体を通じて独自の政治理論であるファシズム︵伊: Fascismo、日: 結束主義︶を掲げて社会主義及び民主主義・リベラリズムへの猛烈な批判を展開した。彼の異端的な思想はイタリア・ナショナリズム、サンディカリズム︵組合主義︶、コーポラティズム︵共同体主義︶、アナーキズム︵無政府主義︶、リビジョニズム︵修正マルクス主義︶の運動家達に影響を与えた。初期段階のファシズムは広範な支持を得られず、1919年の総選挙での議会進出を果たせなかったが、ジョヴァンニ・ジョリッティ首相との協力や民兵組織﹁行動隊﹂による直接行動を駆使して段階的に影響力を高めていった 1921年5月15日、﹃国民ブロック﹄にFICが参加して代議院に議席を得ると、同年11月9日にファシストの政治運動は国家ファシスト党︵Partito Nazionale Fascista、PNF︶として組織化された。 PNFのイデオロギーであるファシズムは多様な思想を習合させた独特の運動であり、推進された政治主張も多岐にわたっている。まず民族主義︵イタリア・ナショナリズム︶を重視し、民族統一主義による領土拡大を提唱した[17]。父祖である古代ローマへの顕彰も含め、領土主張は生存圏理論の一種である地中海世界全体での領土拡大を目指す﹁不可欠の領域﹂へ拡張され、イタリア帝国が形成された[18]。経済政策ではサンディリカリズムとコーポラティズムが影響を持ち、国家の指導下で企業体と労働組合が協調する事を目指し[19]、階級闘争を否定して階級協調を理想とした[20]。自由主義︵リベラル︶に対しては明確な敵対姿勢を見せたが、反動主義ではなかった[21]。また民族主義の観点から共産主義とも敵対したが[22]、ジョゼフ・ド・メーストルに代表される過激な保守主義にも反対した[23]。 1922年10月31日、ルイージ・ファクタ政権へのクーデターであるローマ進軍が成功してムッソリーニ政権が樹立され、PNFは連立与党の中心となった。1924年4月6日、旧国民ブロックをPNFに統合した上で新たな選挙連合﹁国民リスト﹂︵Lista Nazionale、LN︶を立ち上げ、60%以上の得票を得て議会で多数派を形成した。選挙勝利後も多党制の枠組みを維持していたが、反ファシスト運動との激しい対立を経て、1924年12月31日にムッソリーニは独裁制への移行を宣言して首席宰相及び国務大臣に就任、政府権限を大幅に強化した。これに合わせてPNFも一党制に向けて動き、党の諮問機関であるファシズム大評議会を国家の最高機関に定めた上でPNF以外の全政党へ解散命令を出し、1929年3月24日の総選挙で全議席を獲得してイタリアにおける一党独裁が確立された。 PNFは未来に向けて現代化されるイタリアが、同時に伝統に基づいた愛国心と団結を高める事によって社会的繁栄を迎えると看做していた[24]。規律を重視し、ストライキ等の抵抗的な労働運動は弾圧されたが、この時期、鉄道等は時刻表通りよく運行されていたという。PNFによるファシズム思想に基いた社会改革は第二次世界大戦への参戦によって水泡に帰し、ムッソリーニ幽閉後の1943年7月27日に解散を命じられた。1943年9月18日、ナチスの要請を受けてムッソリーニはPNFの後継政党として共和ファシスト党︵RNF︶を結党し、イタリア社会共和国︵RSI︶の政権与党となった。 1945年4月28日、RSI政府の崩壊とムッソリーニの死によりRNFは消滅した。 大戦後に成立した現在のイタリア共和国議会では民主主義に対する脅威として、後継組織である共和ファシスト党︵RNF︶と並んで再結党が禁止されている︵"Transitory and Final Provisions", Disposition XII)。一方でRNFの元党員らを中心にネオ・ファシズム政党﹁イタリア社会運動﹂︵MSI︶が結党され、国民同盟、自由の人民、イタリアの同胞などを通じて現代でも思想は引き継がれている。2022年にはイタリアの同胞党首のジョルジャ・メローニがイタリア首相に就任した。組織[編集]
象徴[編集]
- 党歌:『ジョヴィネッツァ』 (Giovinezza)
- 党章・党旗等
-
党旗(黒旗、ファスケス)
-
制服などに用いられた古代ローマの鷹紋章
スローガン[編集]
- Il Duce! (我らがドゥーチェ)
- Viva il Duce! (ドゥーチェ万歳)[25]
- Eja, eja, alalà! (万歳!万歳!万歳!)
- Viva la morte (犠牲を払え)
- Credere, obbedire, combattere ("信じ、従い、戦う")
- Libro e moschetto - fascista perfetto (書物と銃がファシストを作る)
- Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こそ全て、国家の外には何もない)
- Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。)
- Me ne frego (何も気に留めず)
- La libertà non è diritto è un dovere (自由は権利ではない、義務である)
- Noi tireremo diritto (我らは進む)
- La guerra è per l'uomo, come la maternità è per la donna (男の闘争性は、女の母性と同じである)[26]
指導体制[編集]
合議機関[編集]
1926年、1938年に制定された党規約[27]によると、ファシズムの指導は「ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じて行われる」とされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。
役職[編集]
指導者[編集]
氏名 (生没年) |
肖像 | 任期 | 兼務 | 背景 | 退任理由 | 出生地 | |
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ベニート・ムッソリーニ (1883–1945) |
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1921年11月9日 – 1943年7月27日 | 党の創設者としてファシズム運動の精神的指導者に位置付けられる。 | 反枢軸国勢力のクーデターによって幽閉。 | プレダッピオ (エミリア=ロマーニャ州) |
書記長[編集]
氏名 (生没年) |
肖像 | 任期 | その他の役職(前職及び退任後の役職含む) | 背景 | 退任理由 | 出生地 | |
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ミケーレ・ビアンキ (1883–1930) |
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1921年11月10日 - 1923年10月13日 | 前職は政治家。退役軍人。ローマ大学で法学を専攻後、
サンディカリズムの理論家として活躍。 ムッソリーニと行動を共にし、 初代書記長に任命される。 |
フランチェスコ・ジュンタが第2代書記長に指名。 | ベルモンテ・カーラブロ (カラブリア州) | ||
フランチェスコ・ジュンタ (1887–1971) |
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1923年10月13日 - 1924年4月23日 |
|
前職は弁護士。退役軍人。
トスカーナ州のファシズム運動を通じて台頭した。 第2代書記長となるが 政治情勢の変化から早期に退任する。 |
党規約改正により集団指導体制に移行。 | サン・ピエーロ・ア・シエーヴェ (トスカーナ州) | |
四頭体制 (ロベルト・ダヴァンツァティ、 |
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1923年10月13日 - 1924年4月23日 |
|
総選挙勝利後、
党組織の再編に伴い一時的に 書記長制から4名の合議制とした。 |
ロベルト・ファリナッチが第3代書記長に指名。 | ||
ロベルト・ファリナッチ (1892–1945) |
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1925年2月15日 - 1926年3月30日 |
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前職は鉄道局員。退役軍人。
ファシズム運動の急進派(非妥協派) の代表的人物であり、 反ユダヤ主義など排外的な政策を推進した。 |
ファシズム運動の穏健派(修正主義)を重用する
ムッソリーニと対立し、 解任される。 |
イゼルニア (モリーゼ州) | |
アウグスト・トゥラーティ (1888–1955) |
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1926年3月30日 - 1930年10月7日 | 前職は新聞記者。退役軍人。
党内では報道・宣伝分野で活躍した。 4年間に亘って書記長を務め、 非妥協派を抑えて党の集権化を達成した。 |
ファリナッチら非妥協派との政争を経て、
自ら書記長職を退任した。 |
パルマ (エミリア=ロマーニャ州) | ||
ジョヴァンニ・ジュリアーティ (1876-1970) |
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1930年10月7日 - 1931年12月12日 |
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前職は弁護士。退役軍人。歴代書記長では最年長で、
かつてはダンヌンツィオ派の運動に参加していた。 トゥラーティ辞任後の書記長となる。 |
アキーレ・スタラーチェが第7代書記長に指名。 | ヴェネツィア (ヴェネト州) | |
アキーレ・スタラーチェ (1889-1945) |
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1931年12月12日 - 1939年10月31日 |
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前職は陸軍士官。
古参のファシストの中で最もムッソリーニに盲目的であり、 国家指導者として神格化するプロパガンダを展開した。 |
過去最長の任期を務めていたが、
第二次世界大戦前に突然解任される。 以降は終戦直前まで国政から遠ざけられた。 |
サンニコーラ (プッリャ州) | |
エットーレ・ムーティ (1902-1943) |
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1939年10月31日 - 1940年10月30日 |
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前職は陸軍士官。
第一次世界大戦時に少年兵として アルディーティ(突撃兵)に参加したという逸話を持つ。 スペイン内戦でも爆撃機部隊の指揮官を務めるなどしている。 |
第二次世界大戦で軍務への復帰を希望し、
書記長職から退任。 |
ラヴェンナ (エミリア=ロマーニャ州) | |
アデルキ・セレーナ (1895-1970) |
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1940年10月30日 - 1941年12月26日 |
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前職は弁護士。退役軍人。
アブルッツォでのファシズム運動を指導し、 やがて国政に転じて大臣や下院議長を務めた。 エットーレ辞任後の書記長となる。 |
アルド・ヴィドゥソーニが第10代書記長に指名。 | ラクイラ (アブルッツォ州) | |
アルド・ヴィドゥソーニ (1914-1982) |
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1941年12月26日 - 1943年4月19日 |
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前職は弁護士。
第一次世界大戦を経験していない青年党員から、 27歳の若さで書記長に抜擢された。 |
カルロ・スコルツァが第11代書記長に指名。 | フォリアーノ・レディプーリア (フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州) | |
カルロ・スコルツァ (1897-1988) |
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1943年4月19日 - 1943年7月27日 |
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前職は陸軍士官。国家ファシスト党最後の書記長。
ムッソリーニを中心とした国家指導体制への回帰を主張した。 |
ディーノ・グランディらの党内クーデターに反対し、
王党派によって拘束される。 |
パオラ (カラブリア州) |
議席[編集]
下院 | ||||||
年度 | 票数 | 得票率 | 獲得議席 | 順位 | +/– | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1921年 | 1,260,007 | 19.1 | 105 / 535 |
第3党 | ![]() |
FICが国民ブロックから37議席を分配される |
1924年 | 4,653,488 | 64.9 | 375 / 535 |
第1党 | ![]() |
PNFが国民ブロックを統合 |
1929年 | 8,517,838 | 98.4 | 400 / 400 |
第1党 | ![]() |
PNF以外の全政党を非合法化 |
1934年 | 10,043,875 | 99.8 | 400 / 400 |
第1党 | 選挙後に下院を廃止 |
党史[編集]
ファシスト党誕生の背景[編集]
「イタリア戦闘者ファッシ」から政権獲得まで[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/March_on_Rome_1922_-_Alle_porte_di_Roma.png/250px-March_on_Rome_1922_-_Alle_porte_di_Roma.png)
独裁体制の確立[編集]
ムッソリーニ失脚と党の解体[編集]
ファシスト党の流れを汲む現代政党[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 近代イタリアにおいて展開されたファシズムと、そこから派生したナチズム、ファランジズム、ネオファシズムを区別する立場からは古典的ファシズムとも呼称される。
- ^ 全国ファシスタ党と訳される場合もある
- ^ 「イタリア人民」の意。
- ^ フランス政府の機密費を受けていたという。
- ^ ムッソリーニは、この計画が失敗に終わった場合、亡命できるよう準備していたという。
- ^ 1927年、「労働憲章」によってファシスト労働組織に改組
- ^ ただし、ピウス11世はムッソリーニ政権下のイタリアを必ずしも良くは思っておらず、1931年には回勅『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』で公式にファシスト党を非難している。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 大森実『人物現代史2 ムッソリーニ』講談社 講談社文庫 1994年8月 ISBN 4-06-185732-0
- 佐藤優「民族の罠(第五回)ファシズムの誘惑」『世界』745号 岩波書店 2005年
- ジョルジュ・ソレル『暴力論(上・下)』今村仁司、塚原史訳、岩波文庫、新版2007年 (上巻)ISBN 978-4003413814、(下巻)ISBN 978-4003413821
- 高橋進『イタリア・ファシズム体制論 : ファシズム大評議会と閣議(1)』
関連項目[編集]
- ファシズムの定義
- ムッソリーニ内閣
- ザ・ドクトリン・オブ・ファシズム
- ファシスト行動隊(en:Squadrismo)
- ジョヴァンニ・ジョリッティ
- キリスト教民主主義
- イタリアの歴史
- ティート・スキーパ
- ネオ・ファシズム