下御霊神社
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下御霊神社 | |
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所在地 | 京都府京都市中京区寺町通丸太町下る下御霊前町 |
位置 | 北緯35度01分01秒 東経135度46分04秒 / 北緯35.01694度 東経135.76778度座標: 北緯35度01分01秒 東経135度46分04秒 / 北緯35.01694度 東経135.76778度 |
主祭神 |
吉備聖霊 崇道天皇 伊予親王 藤原大夫人 藤大夫 橘大夫 文大夫 火雷天神 |
社格等 | 旧府社 |
創建 | 貞観5年(863年) |
例祭 | 5月第3日曜日(御霊祭) |
下御霊神社︵しもごりょうじんじゃ︶は、京都市中京区下御霊前町にある神社。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。
歴史[編集]
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年︵863年︶5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来、京都御所の産土神として崇敬された。 元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある下出雲寺御霊堂に祀られていた。北には上出雲寺御霊堂と呼ばれていた上御霊神社があった。後に新町出水に移され、その後、天正18年︵1590年︶に豊臣秀吉の都市整備にともない現在地である西園寺実氏の別荘・常盤井殿があった地に遷座した。 享保年間︵1716年 - 1736年︶には霊元天皇の霊を配祀している。 現社殿は天明8年︵1788年︶の天明の大火で旧社殿が焼失したのち、仮皇居の内侍所仮殿を寛政3年︵1791年︶に移建したものである。 明治時代になると府社に列せられている。 なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社︵式内大社︶を当社に比定している。祭神[編集]
祭神は以下の八柱で、﹁八所御霊﹂と称される。 ●吉備聖霊︵吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している︶ ●崇道天皇︵桓武天皇の皇太子、早良親王︶ ●伊予親王︵桓武天皇の皇子︶ ●藤原大夫人︵伊予親王の母、藤原吉子︶ ●藤大夫︵藤原広嗣︶ ●橘大夫︵橘逸勢︶ ●文大夫︵文屋宮田麻呂︶ ●火雷天神︵菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈している︶ これらの諸神はいずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。 相殿に天中柱皇神として霊元天皇が祀られているが、これは当時の神主である出雲路信直・直元父子が天皇と親交があったことによると考えられている[1]。境内[編集]
●本殿︵京都市指定有形文化財︶ - 寛政3年︵1791年︶に仮皇居の内侍所仮殿を移築したもの。 ●幣殿︵京都市指定有形文化財︶ ●廻廊︵京都市指定有形文化財︶ ●拝所︵京都市指定有形文化財︶ ●拝殿 ●社務所 ●神明社︵内宮・外宮︶ ●八幡社 ●春日社 - 文政年間︵1818年 - 1831年︶建立。 ●猿田彦社・垂加社・柿本社 - 猿田彦の他、垂加神道を唱えた山崎闇斎と柿本人麻呂を祀る。 ●稲荷社 ●宗像社 ●天満宮社 - 祭神‥北野大神 ●大国主社 ●五社相殿社 - 斎部社、大将軍社、高知穂社、愛宕社、日吉社 ●神楽所 ●鳳輿舎 ●神門文化財[編集]
重要文化財[編集]
●霊元天皇宸翰御祈願文京都市指定有形文化財[編集]
●本殿 ●幣殿 ●拝所 ●廻廊祭事[編集]
明治までは神輿迎が7月18日に御霊祭は8月18日に行われていたが、明治以降は5月1日が神幸祭、18日が還幸祭と改められ、8月18日は例祭日と定められて東遊が奉奏される。現在では還幸祭は5月の第3か第4日曜日に行われており、宵宮では地域の小学校と連携した子供神輿も催されている。脚注[編集]
- ^ 山口和夫「霊元院政について」(初出:今谷明・高埜利彦 編『中近世の宗教と国家』(岩田書院、1998年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7) 2017年、P229-230