中将姫
中将姫︵ちゅうじょうひめ、天平19年8月18日︵747年9月30日︶- 宝亀6年3月14日︵775年4月22日︶︶は、奈良の當麻寺に伝わる﹃当麻曼荼羅﹄を織ったとされる、日本の伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材となった。
中将姫の墓塔
中将姫 當麻曼荼羅感得の場面︵﹁中将姫絵伝﹂(當麻寺中之坊霊宝殿 ︶より︶
︵當麻寺#当麻曼荼羅と中将姫説話も参照の事。︶
藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成とその妻の紫の前︵品沢親王の娘、又は、藤原百能︶の間には長い間子どもが出来ず、桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かる。しかし、母親は、その娘が5歳の時に世を去り、6歳の時に豊成は、照夜の前︵藤原百能、又は、橘諸房の娘︶を後妻とする。
中将姫は、美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになる。
13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。
14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じる。しかし、命乞いをせず、亡き実母への供養を怠らない、極楽浄土へ召されることをのみ祈り読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ず、雲雀山の青蓮寺へと隠す。翌年、豊成が見つけて連れ戻す。中将姫は﹃称讃浄土佛摂受経﹄1000巻の写経を成す。
天平宝字7年︵763年︶、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞す。その後、二上山の山麓にある當麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。
仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で﹃当麻曼荼羅﹄︵﹃観無量寿経﹄の曼荼羅︶を織ったとされている。
宝亀6年︵775年︶春、29歳で入滅。阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。