佐竹義準
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佐竹 義準 さたけ よしのり | |
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生年月日 | 1869年7月1日(明治2年5月22日) |
没年月日 | 1924年4月8日(54歳没) |
出身校 |
東京帝国大学法科大学卒業 (現・東京大学法学部) |
配偶者 | 佐竹成子 |
子女 | 長男・佐竹義利 |
親族 |
兄・松浦厚(貴族院議員) 弟・大隈信常(貴族院議員) 弟・井上勝純(貴族院議員) |
在任期間 | 1915年8月28日 - 1924年4月8日 |
佐竹 義準︵さたけ よしのり[1]、1869年7月1日︵明治2年5月22日︶ - 1924年︵大正13年︶4月8日︶は、日本の華族、官僚。旧久保田藩主家佐竹氏の一門である佐竹東家を嗣いで男爵に叙せられた。陸軍歩兵中尉、貴族院議員。
生涯[編集]
平戸藩知事︵最後の藩主︶松浦詮の四男に生まれる。初名は準。1901年︵明治34年︶東京帝国大学法科大学を卒業。 佐竹東家は﹁佐竹四家﹂と言われる佐竹一門であり、久保田藩では家老を務める家格であったが、先代当主の佐竹義寿が1884年︵明治17年︶に没したのちは、義寿の娘の佐竹克子、ついで義寿の義母にあたる佐竹銀子︵先々代当主佐竹義祚の継室︶が女戸主となっていた。1900年︵明治33年︶佐竹四家のうち北家・西家・南家は華族に列し、各当主は男爵が授けられているが、東家は女戸主であったため華族とはならなかった。 義準は銀子の養子となって1903年︵明治36年︶12月に家督を相続、佐竹東家の第23代当主となった。1906年︵明治39年︶9月、義寿の戊辰戦争での活躍が功績とされて佐竹東家も華族に列し、義準に男爵が授けられた。1907年︵明治40年︶9月、統監秘書官となり、以後朝鮮総督府取調局事務官、朝鮮総督府印刷所長などを務めた。 1915年︵大正4年︶8月28日、補欠選挙で貴族院議員︵男爵議員︶に選ばれ[2][3]、1924年︵大正13年︶に没するまでその地位にあった。 墓は雑司ヶ谷霊園にある。家族[編集]
- 父母
- 妻
- 伊達邦成の長女・成子
- 子女
脚注[編集]
参考文献[編集]
●﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度七十年史﹄大蔵省印刷局、1962年。 ●霞会館華族家系大成編輯委員会﹃平成新修旧華族家系大成 上巻﹄霞会館、1996年。日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 佐竹家(東家)初代 1906年 - 1924年 |
次代 佐竹義利 |