入江文郎
いりえ ぶんろう / ふみお 入江 文郎 | |
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生誕 |
1834年5月16日(天保5年4月8日) 日本 出雲国島根郡松江(現・島根県松江市) |
死没 |
1878年1月30日(43歳没) フランス共和国 パリ6区カジミール・ドラヴィーニュ街 |
墓地 | モンパルナス墓地(フランス パリ14区) |
国籍 | 日本 |
別名 | 観寮(号)、原伯(字)、泉 |
職業 | 医師、フランス学者、官吏 |
子供 | 元義(養子) |
入江 文郎︵いりえ ぶんろう / ふみお[1]、1834年5月16日︵天保5年4月8日︶ - 1878年︵明治11年︶1月30日︶は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本のフランス学者。旧松江藩士。旧名・泉、字を原伯といい、観寮︵かんりょう︶と号した。本姓は劉[2]。
幕末におけるフランス学先駆者の一人であり[3]、幕府の蕃書調所︵のち開成所︶教授方となってフランス語の翻訳と指導に従事。明治に入ると新政府の大学教官としてフランスに派遣され、研究のかたわら留学生総代を務めたが、病のためパリで客死した。
来歴[編集]
天保5年4月8日︵1834年5月16日︶、松江藩医入江元範の子として出雲国島根郡松江に生まれる。支藩広瀬藩の藩儒山村黙斎、次いで松江藩儒妹尾謙三郎︵雨森精斎︶に学び、嘉永7年︵1854年︶から江戸に遊学。奥医師竹内玄洞に就いて蘭学を修めた。安政4年︵1857年︶、父・元範が重病との知らせを受けて帰国。父の死去により家を継いで藩医となったのち、翌安政5年︵1858年︶から再び江戸に遊学した。万延元年︵1860年︶の冬には50日間横浜に遊学し、フランスの通訳官アンリ・ヴーヴ︵Henri Weuve︶からフランス語を学んでいる[4]。 文久元年︵1861年︶、幕府の洋学研究教育機関・蕃書調所︵文久2年5月に洋書調所、文久3年8月に開成所と改称︶の教授手伝出役に採用され、林正十郎、小林鼎輔とともにフランス学を担当。翌文久2年︵1862年︶3月に幕府外国方翻訳掛を兼ねた[5]。また文久2年中には再び横浜のヴーヴのもとに100日間遊学[6]。12月に江戸に戻ると藩からも洋学教授方を命じられ、同じ蕃書調所教授方の松江藩士間宮観一、布野雲平の2人とともに江戸藩邸で指導に当たった[7]。慶応2年12月︵1866年2月︶、旗本に取り立てられ開成所教授職並に昇進[8]。次いで三兵伝習所での翻訳業務のため林正十郎とともに横浜への派遣を命じられ、教授方のまま開成所勤務を離れた[9]。三兵伝習所江戸移転後の慶応3年︵1867年︶10月には陸軍所勤務となり、翌慶応4年︵明治元年・1868年︶3月に陸軍御用兼勤を免じられるまでフランス軍事顧問の文書翻訳に従事[10]。幕府崩壊後の同年7月、職を辞して松江藩籍に戻った[11]。 明治元年12月、新政府により開成所の官制が改められると開成学校二等教授として復職。翌明治2年︵1869年︶、寄宿寮総取締を命じられた[12]。開成学校を包括する大学校︵ほどなく大学と改称︶の官制が定められた同年7月には大学中博士に就任。大学南校の変則課程でフランス学を担当した[13]。その後、大学に代わり文部省が新設された明治4年︵1871年︶7月に文部中教授に更任されたのち、翌年9月の官制改革で文部省六等出仕となった[14]。 この間、明治4年1月に大学中博士鈴木暢︵唯一︶、大学大助教小林儀秀︵小太郎︶とともに学術研究のため1年ほどの予定で欧州派遣を命じられ[15]、翌2月に横浜を出港。マルセイユを経て7月︵1871年8月︶にパリに到着し、はじめ第1区アルジェ通りに滞在。ほどなく第6区カジミール・ドラヴィーニュ通りのホテル・サン=シュルピスに移った[16]。既にオーギュスト・コントに傾倒し哲学を研究していた入江は、パリではコントの定めた修学順序に従って諸学科を復習したという[17]。また岩倉使節団の文部理事官随員今村和郎がフランスでの学制調査のため米国を後にした明治5年1月︵1872年3月︶には、文部理事官が担当する調査の分担を命じられた[18]。同年6月︵1872年7月︶、入江、鈴木、小林の3人に帰国命令が発せられたが、入江は2年間の延長を願い出て滞在を継続[19]。明治6年︵1873年︶2月に在仏弁理公使鮫島尚信から栗本貞次郎の後任として留学生総代を命じられ、以後フランス留学生たちの世話に当たったほか[20]、文部理事官帰国後もパリ東洋語学校教員としてフランスに残っていた今村とともに、同年9月にパリで開かれた第1回国際東洋学者会議に参加している[21]。 明治6年12月、陸・海軍省派遣をのぞく官費海外留学生の一斉召還が決定され[22]、翌明治7年︵1874年︶6月には入江にも再び帰国命令が発せられたが、病のため出発を延期。療養のため私費で滞在を続けた。しかし、ついに帰国することなく明治10年︵1877年︶1月の官制改革の際に文部省を退官[23]。明治11年︵1878年︶1月30日、喉頭結核のため宿舎のホテル・サン=シュルピスで死去し、パリのモンパルナス墓地に葬られた。享年45[24]。没後、モンパルナス墓地と島根県能義郡広瀬町の洞光寺に墓碑が、東京の青山墓地に記念碑が建設された[25]。 入江は生涯独身であったため、入江家は姉・しずの三男美弥三郎が相続し、のちに入江元義と名乗った[26]。陸軍軍人であった元義の子には、陸軍少将入江元、陸軍中将堀井富太郎夫人知恵子がいる[27]。なお、留学生名簿や﹃西航備忘録﹄を含む文書、写真、名刺などの入江関係資料が現存しており、これらは入江家から島根県立博物館︵現・島根県立古代出雲歴史博物館︶に寄贈されている[28]。また国立国会図書館憲政資料室が所蔵する辻新次関係文書にも関係資料が含まれている[29]。著作[編集]
- 市川文吉送別文(山岸光宣編 『幕末洋学者欧文集』 弘文荘、1940年11月)
- 日本学士院 「『市川文吉送別文集』について : いわゆる幕末洋学者欧文集」(『日本学士院紀要』第35巻第2号、1978年3月、NAID 40002849203)、田中貞(1988・2014)に翻刻されている。
- 『西航備忘録』
- 田中隆(1999)に影印が収録されている。
- 留学生名簿
- 4種類の名簿が残されており[30]、藤田(1940・1948)、田中隆(1999)、小川などに一部が翻刻されている。
- 書簡下書
- 田中貞(1988・2014)、田中隆(1999)に翻刻されている。
- "De la prononciation japonaise des signes chinois." in Congrès international des Orientalistes (ed.), Congrès international des Orientalistes: Compte-rendu de la première session, Paris 1873, Tome premier, Maisonneuve et Cie, 1874.
- "Les Peuples ètrangers connus des anciens Chinois." in Congrès international des Orientalistes (ed.), op. cit..
- 翻訳
- フランス軍事顧問作成文書(勝安芳 『陸軍歴史 下』巻二十五、巻二十六)
- 勝安芳著 『陸軍歴史 下』 改造社、1928年8月 / 原書房〈明治百年史叢書〉、1967年11月、ISBN 9784562001378
- 勝海舟全集刊行会編 『勝海舟全集 14 陸軍歴史IV』 講談社、1975年1月
- 勝部真長ほか編 『勝海舟全集 17』 勁草書房、1977年11月、ISBN 978-4326398591
- 「シャノワンヌ、ブリューネ、メッスローの意見書」(篠原宏著 『陸軍創設史 : フランス軍事顧問団の影』 リブロポート、1983年12月、ISBN 4845701014)
- 「ウスリ地方ノ説」(『中外新聞』第12号、慶応4年4月10日)
- 吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第十七巻 新聞篇』 日本評論社、1933年6月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第四巻 新聞篇』 日本評論新社、1955年3月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第十八巻 新聞篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4535042586
- 明治文化研究会編 『幕末明治 新聞全集 第三巻』 大誠堂、1934年12月 / 世界文庫、1961年11月
- 北根豊監修 『日本初期新聞全集 13』 ぺりかん社、1988年8月、ISBN 4831590134
出典[編集]
(一)^ 日本国内の仏文史料には﹁Bunrau﹂、フランスでの史料には﹁Fumio﹂と記されており、それぞれ本人による使用も確認できるという。田中貞︵2014︶、515頁参照。
(二)^ 桃︵1989︶、7頁、147頁。
(三)^ 田中隆︵1999︶、3頁。
(四)^ 田中隆︵1999︶、5-7頁、1頁。藤田︵1948︶、96-99頁。
(五)^ 宮地正人 ﹁混沌の中の開成所﹂︵東京大学編 ﹃学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー﹄ 東京大学︿東京大学コレクション﹀、1997年12月、ISBN 4130202057︶26頁、34頁。倉沢剛著 ﹃幕末教育史の研究 一 直轄学校政策﹄ 吉川弘文館、1983年2月、ISBN 4642032517、289頁。
(六)^ 高橋︵1982︶、225-227頁。田中貞︵2014︶、448-451頁。
(七)^ 桃︵1989︶、6-7頁、9頁。倉沢剛著 ﹃幕末教育史の研究 三 諸藩の教育政策﹄ 吉川弘文館、1986年4月、ISBN 4642032533、306-308頁。
(八)^ 前掲宮地、38頁。前掲倉沢︵1983︶、289頁。
(九)^ 東京外国語大学史編纂委員会編 ﹃東京外国語大学史﹄ 東京外国語大学、1999年11月、33頁。前掲宮地、38頁。前掲倉沢︵1983︶、250頁。
(十)^ 前掲東京外国語大学史編纂委員会、33頁。桃︵1989︶、9頁。
(11)^ 田中隆︵1999︶、10頁。
(12)^ 倉沢剛著 ﹃学制の研究﹄ 講談社、1973年3月、56-58頁。国立公文書館所蔵 ﹁職務進退・職務進退部類﹂。
(13)^ 前掲倉沢︵1973︶、58頁、45-46頁。田中隆︵1999︶、80頁。加太邦憲編輯 ﹃加太邦憲自歴譜﹄ 加太重憲、1931年1月、83頁。
(14)^ 前掲倉沢︵1973︶、269-271頁、664-665頁。﹁文部大丞田中不二麿以下五名洋行中ニ付免官ニ不及ノ件﹂︵国立公文書館所蔵 ﹁諸官進退・諸官進退状第十巻﹂︶。田中隆︵1999︶、11-12頁。
(15)^ 東京大学百年史編集委員会編 ﹃東京大学百年史 通史一﹄ 東京大学、1984年3月、ISBN 4130010514、168-169頁。前掲倉沢︵1973︶、215-216頁。
(16)^ 田中貞︵2014︶、461-465頁。藤田︵1948︶、100-102頁。田中隆︵1999︶、65頁、54頁。
(17)^ 田中隆︵1999︶、15頁。
(18)^ 小林哲也 ﹁﹃理事功程﹄研究ノート﹂︵﹃京都大学教育学部紀要﹄第20号、1974年3月、NAID 40000743240︶84頁、86頁。田中隆︵1999︶、11頁。
(19)^ 田中隆︵1999︶、11頁、83頁。明治5年7月付木戸参議宛入江願書︵国立公文書館所蔵 ﹁単行書・大使書類原本在英雑務書類﹂ 62-63コマ、149-150コマ︶。明治5年9月13日付在英木戸参議宛入江書簡︵木戸孝允関係文書研究会編 ﹃木戸孝允関係文書1﹄ 東京大学出版会、2005年10月、ISBN 4130979914︶。明治6年4月19日付大木文部卿上申︵国立公文書館所蔵 ﹁単行書・大使書類原稿本朝公信・人﹂23コマ︶。明治6年4月22日発本朝公信第53号︵外務省調査部編纂 ﹃大日本外交文書 第六巻﹄ 日本国際協会、1939年6月、37-38頁︶。明治6年7月3日発大使公信第28号︵同、66-68頁︶。﹁仏国在留入江六等出仕帰朝ノ儀伺﹂︵国立公文書館所蔵 ﹁公文録・明治七年・第百七十一巻﹂︶。
(20)^ 高橋︵1982︶、220-222頁、230-232頁。藤田︵1948︶、102-103頁。田中隆︵1999︶、82頁。田中貞︵2014︶、499-509頁。
(21)^ 飯田史也著 ﹃近代日本における 仏語系専門学術人材の研究﹄ 風間書房、1998年2月、ISBN 4759910778、48-56頁。飯田史也 ﹁1873年第一回国際東洋学者会議に関する史的考察 : 会員構成及び組織運営を中心にして﹂︵﹃福岡教育大学紀要﹄第53号第4分冊、2004年2月、NAID 40006262211︶3頁、5頁。桃︵1989︶、157頁。
(22)^ 石附実著 ﹃近代日本の海外留学史﹄ ミネルヴァ書房、1972年9月、ISBN 4623007464、177-178頁。吉田昌弘 ﹁﹁学制﹂海外留学制度の特質 : 海外留学生管轄問題をもとにして﹂︵﹃日本教育史研究﹄第35号、日本教育史研究会、2016年9月、NAID 40020978379︶18-20頁。井田︵1987︶、139-142頁。前掲倉沢︵1973︶、788-791頁。
(23)^ 田中隆︵1999︶、12-13頁、85頁。前掲 ﹁仏国在留入江六等出仕帰朝ノ儀伺﹂。﹁入江文郎月給ヲ辞スル儀ニ付伺﹂︵﹁公文録・明治九年・第四十四巻﹂︶。前掲倉沢︵1973︶、814頁、825頁。﹁入江元文部省六等出仕満年賜金給与届﹂︵﹁公文録・明治十年・第九十六巻﹂︶。
(24)^ 田中貞︵2014︶、467-468頁。富田︵1979︶、116-120頁。藤田︵1948︶、114-115頁。田中隆︵1999︶、13-15頁、86頁。
(25)^ 富田︵1979︶、130-132頁。﹃法政大学史資料集﹄第26集。
(26)^ 田中貞︵2014︶、515頁。田中隆︵1999︶、15頁、87-90頁。
(27)^ 田中隆︵1999︶、93頁。
(28)^ 田中隆︵1999︶、16-17頁。入江文郎資料の寄贈について (PDF, 16 KB) 、島根県報道発表資料、 平成17年3月4日分。小川、107頁。
(29)^ ﹃国立国会図書館月報﹄第336号、1989年3月、28-29頁。
(30)^ 田中隆︵1999︶、37頁。
参考文献[編集]
- 藤田東一郎 「西園寺公ら明治初年仏国留学生の総代入江文郎について」(『書物展望』第114号、書物展望社、1940年12月)
- 藤田 東一郎、「入江文郎に関する研究 : 帝国学士院蔵幕末洋学者欧文集中の仏文の執筆者たる」 『日本學士院紀要』 1948年 6巻 1号 p.91-115, doi:10.2183/tja1948.6.91
- 桃裕行 「松江藩の洋学と洋医学(上)」(『日本医史学雑誌』第1303号、日本医史学会、1942年5月)
- 「入江文郎と桃節山」(『仏蘭西学研究』第7号、日本仏学史研究会、1976年5月)
- 「国際東洋学会議と入江文郎」(日本歴史学会編 『日本歴史』第428号、1984年1月、NAID 40003066556)
- 桃裕行著 『桃裕行著作集 第6巻 松江藩と洋学の研究』 思文閣出版、1989年11月、ISBN 4784205691
- 高橋邦太郎 「補綴・入江文郎伝」(『蘭学資料研究会研究報告』第276号、1973年11月)
- 「留学生 入江文郎」(『日本仏学史研究』第4号、日本仏学史研究会、1973年12月)
- 「明治初年の仏国留学生」(『学鐙』第72巻第2号、丸善、1975年2月)
- 高橋邦太郎著 『日仏の交流 : 友好三百八十年』 三修社、1982年5月、ISBN 438403718X
- 田中貞夫 「黎明期における一仏学者の生涯 : 入江文郎をめぐって」(『文学部論集』第3巻第1号、創価大学文学部、1974年3月、NAID 40003397883)
- 「フランス留学生・入江文郎」(田中貞夫著 『幕末明治初期 フランス学の研究』 国書刊行会、1988年10月 / 2014年5月改訂版、ISBN 9784336057624)
- 富田仁 「モンパルナス墓地に眠る明治の人びと」(『明治村通信』第52号、明治村東京事務所、1974年9月)
- 「入江文郎と仏蘭西学 : 墓と顕彰碑」(『日本仏学史研究』第6号、日本仏学史研究会、1975年6月)
- 富田仁著 『読書探訪 ふらんす学の小径』 桜楓社、1979年10月
- 井田進也 「中江兆民のフランス : 明治初期官費留学生の条件」(『文学』第44巻第7号、岩波書店、1976年7月、NAID 40003385470 / 第44巻第8号、1976年8月、NAID 40003385481 / 第44巻第10号、1976年10月、NAID 40003385462)
- 井田進也著 『中江兆民のフランス』 岩波書店、1987年12月、ISBN 4000015370
- 田中隆二 「明治初年日本人フランス留学生総代(松江出身) 博士 入江文郎 : 事績と資料」(『山陰地域研究』第12号、島根大学汽水域研究センター、1996年3月、NAID 40004579871 / 第13号、1997年8月、NAID 40004579865)
- 「松江藩フランス学先覚者入江文郎」(田中隆二著 『幕末・明治期の日仏交流 中国地方・四国地方篇(一)松江』 渓水社、1999年2月、ISBN 4874405320)
- 「村上英俊・入江文郎建碑関係資料」(法政大学大学史資料委員会編 『法政大学史資料集』第26集、2006年2月)
- 小川三枝 「「入江文郎の二枚紙の在仏留学生名簿」についての考察」(『古代文化研究』第15号、島根県古代文化センター、2007年3月、NAID 40015957102)
関連文献[編集]
- 仏学会編纂 『入江文郎先生之伝』 仏学会、1891年10月
- 『伝記』第8巻第12号、伝記学会、1941年12月
- 前掲 『法政大学史資料集』第26集
- "Notice Biographique sur M. Iriye Benzo." Revue Française du Japon, no 15, 1893.
- Tanaka Sadao. "Essai sur l'etude de la langue Française au Japon, en particulier de Irie Fumio." Ippan Kyōikubu Ronshū (Bulletin de l'université Sôka), no 4, 1980, NAID 110007148161.
- "Irie Fumio et ses études en France." par Tanaka Sadao, Les débuts de l'étude du Français au Japon, France Tosho, 1983.