兼重元宣
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兼重元宣 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 永正6年(1509年) |
死没 | 天正8年(1580年)[注釈 1] |
別名 | 通称:弥三郎[1] |
官位 | 左衛門尉[1]、下総守[1] |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 大江姓毛利氏庶流兼重家 |
父母 | 父:兼重元鎮、母:吉川経世の娘[1] |
兄弟 | 元宣、長久[1] |
妻 | 粟屋伊豆守の娘[1] |
子 | 元続[1] |
兼重 元宣︵かねしげ もとのぶ︶は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は兼重元鎮で、元宣は毛利元就の従弟にあたる。
生涯[編集]
永正6年︵1509年︶、兼重元鎮の子として生まれる。幼少の頃より、毛利元就や毛利隆元の側近として仕え、後には隆元付きの家臣となる。 天文10年︵1541年︶10月15日に父が死去してその跡を継ぎ、天文15年︵1546年︶2月に安芸国吉田庄の兼重名、天文19年︵1550年︶12月には安芸国高田郡佐々井村の常定名・岩門︵合計2町3段︶を宛がわれた。 天文19年︵1550年︶7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠を誓った起請文においては、10番目に﹁兼重弥三郎元宣﹂と署名している[注釈 2][2]。 天文20年︵1551年︶9月11日、安芸国西条の明神山城塀際における合戦において、下人を喪いつつも武功を挙げ、同年9月28日に元就と隆元の連署の感状を与えられた。 弘治3年︵1557年︶11月18日には佐々井村の丸山名を宛がわれ、弘治4年︵1558年︶閏6月11日には佐々井村、周防国山代本郷、周防国深川の代官を兼任した。 永禄5年︵1562年︶、元宣は隆元に従って出雲国へ出陣した。元就と隆元らが出雲国へ出陣している隙を突き、豊前の大友宗麟が尼子義久に呼応して、戸次鑑連︵立花道雪︶に毛利方の豊前松山城を攻撃させたため、隆元は元就の命を奉じて豊前松山城の後詰となるべく、元宣、粟屋元真、赤川元保以下3000の将兵を率いて出雲国赤穴から厳島神社と岩国を経由して翌永禄6年︵1563年︶1月に防府へ帰還した。しかし、将軍足利義輝の調停により毛利氏と大友氏の講和が成立したため、同年5月22日に元就は元宣へ書状を送り、隆元の出雲到着を急がせている。その後、隆元は厳島神社や吉田郡山城へ立ち寄りながら国衆や家中衆が参陣するのを待っていたが、出雲出陣直前の8月3日晩に和智誠春の饗応を受けた直後に激しい腹痛を起こし翌朝に急死した。隆元の急死に元宣ら群臣は大いに悲嘆した。 永禄8年︵1565年︶4月14日、毛利輝元より左衛門尉の官途を与えられたが、永禄11年︵1568年︶3月6日、嫡子の元続に所領や代官職を譲る。天正5年︵1577年︶12月30日には下総守の受領名を輝元より与えられた。 天正8年︵1580年︶に死去[注釈 1]。享年72。嫡男の元続が後を継いだ。人物[編集]
- 元宣は毛利隆元と親しく幾度も書状のやりとりをしており、『閥閲録』には隆元からの書状が収められているが、その隆元の書状において、元宣の事を「宣(または元乃夫、述)」と呼び、自らの署名を「基(または元)」とするものが幾つも存在し、気安い関係が見受けられる。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ab﹃閥閲録﹄巻52﹁兼重五郎兵衛﹂と巻138﹁兼重勘左衛門﹂に収められている兼重氏の家譜では、いずれも元宣の没年月日を天正8年2月9日︵1580年2月23日︶としているが、2月9日以降も吉川元春と書状の遣り取りを行い、天正8年4月14日の吉川元春書状では元宣が病の養生をしていることが書かれているため、家譜の没年月日は正しくないとされる。一方で、同年12月22日付の兼重元続宛て毛利輝元書状で元宣の後を元続に継がせるよう述べているため、実際には天正8年12月頃に死去したものと考えられる。
(二)^ この起請文において諱も記している36人の重臣は署名順に、福原貞俊、志道元保、坂広昌︵元貞︶、門田元久、秋広就正、和智元俊、福原就房、桂元忠、桂就延、兼重元宣、渡辺長、赤川就秀、国司元相、粟屋元真、粟屋元親、粟屋元秀、赤川元秀、飯田元泰、粟屋元宗、井上元在︵元光︶、赤川元保、光永元方、長屋千太郎、福原元正、志道元親、桂元親、坂保良︵元祐︶、志道元信、志道通良︵口羽通良︶、桂元澄、敷名元範、南方元次、内藤元種、秋山元継、三田元親、井原元造。