出雲阿国

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出雲阿国
出雲の阿国像(京都市東山区)

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  • 多聞院日記』の天正10年5月(1582年6月)の条に、「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。
    • 「於若宮拜屋加賀國八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了」
      • 上記を、8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、逆算して国を1572年生まれとするのが通説化している。しかし、加賀の国出身の8歳・11歳の娘という解釈もあり得る。
  • 時慶卿記』の慶長5年7月1日(1600年8月9日)の条に、京都近衛殿の屋敷で雲州(出雲)のクニと菊の2人が「ややこ踊り」を夜まで演じていたという確実な歴史資料がある。
    • 「近衞殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳一人ハクニト云菊ト云二人其外座ノ衆男女十人計在之」
      • 上記により、「クニ」と名乗っていた評判の踊り子がおり近衛という代表的貴族からも破格の好待遇を受けていた一座がいたことがわかる。
  • 『当代記』の慶長8年(1603年)4月の条
    • 「此頃カフキ踊ト云事有出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ上ル縱ハ異風ナル男ノマネヲシテ刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ女ト戲ル體有難クシタリ京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ度々躍ル其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公ハ不見給
      • 江戸幕府が阿国歌舞伎を快く思っていないということが既に察知されているという事が分かる。
  • 『時慶卿記』より遡るものとして次の記録があり、これらも国(クニ)を指す可能性がある。
    • 御湯殿の上日記』の天正9年9月(1581年10月)の条には、御所で「ややこ踊り」が演じられたと記載されている。
    • 言経卿記』の天正15年2月(1588年3月)の条には、出雲大社の巫女が京都で舞を踊ったと記載されている。
  • 『出雲の阿国 出雲から見た阿国』に阿国の生涯などについて記載されている。 
    • 「歌舞伎の祖出雲阿国は、出雲大社の巫女であったといわれ、事実そのように書きしるした江戸時代の記録が数多く残っている。」
    • 「三九郎の出自について、芸能と得意とする奈良の春日大社の神人もしくは隷属民とされ、《芸能を得意とする神人は、はじめ興福寺内の諸坊に参会があると雇われて狂言などを演じていたが、やがて興福寺、春日社以外にも出かけて芸能興行をおこなうてようになる》
  • 『千家七種』所収「出雲阿国伝」に阿国の生家が記されている。
    • 《出雲大社宮鍛冶職中村三右衛門カ(コレヨリ以下注釈ナリ)普通書ニハ小村トアリ又阿国カ実家中村ト名乗ルハ杵築の内中村ト云処二居住シタルヲ以テ家号トセル也今中村の南端二鍛冶原ト云畠には処とあり)アリ即チ阿国ガ旧宅の蹟ナリカジ原ト云フハ中村家ハ旧大社ノ鍛冶職ナリシ故ナリ焼シテ今ハ杵築鍛冶屋小路二住ス是同家居住スル二依ツテ町アル也旧来ヨリ杵築二於テ芝居興行時ハ必其芝居座元ヲ勤ムル旧例ナリキ是亦オ国ガ余栄ナルベシ(下略)》

関連作品[編集]

映画
テレビドラマ
舞台

その他[編集]

  • 京都で歌舞伎が演じられてから400年目の2003年、四条河原で「復元阿国歌舞伎」が上演された。(総合演出:野村万之丞、台本:小笠原恭子)[12]

脚注[編集]



(一)^   52009109 

(二)^ (1968)

(三)^  101  2008291

(四)^ abc 2009ISBN 978-4-473-03530-1206-211

(五)^ abcdef 2009ISBN 978-4-473-03530-1198-205

(六)^ 2003ISBN 4-87903-091-013

(七)^ 84

(八)^ abcd 2017 ISBN 9784585221982 pp.69-73.

(九)^ abc 

(十)^   1984158-160

(11)^  2009ISBN 978-4-473-03530-1206-211

(12)^ 西

参考文献[編集]

関連項目[編集]