別役成義
別役 成義 べっちゃく なりよし | |
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熊本鎮台所属時(前列右端) | |
生誕 |
1844年11月10日 土佐国、土佐藩 |
死没 |
1905年3月27日(60歳没) 日本、東京府 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1872 - 1890 |
最終階級 | 少将 |
別役 成義︵べっちゃく なりよし、1844年11月10日︵天保15年10月1日︶ - 1905年︵明治38年︶3月27日︶は、土佐藩士、迅衝隊士。日本の陸軍軍人。栄典は正四位勲二等。最終階級は陸軍少将。幼名は柳馬、号は能山。
来歴[編集]
1844年︵天保15年︶、土佐国土佐郡鴨部村能茶山︵現在の高知市︶にて別役八十平成照の子として生まれる。号の﹁能山﹂は故郷の能茶山から取っている。 戊辰の役には迅衝隊に所属し従軍。1872年︵明治5年︶、藩兵となって上京し、高知藩歩騎砲工四科兵の工兵を創意訓練する。 西南戦争では熊本城に籠城。1879年︵明治12年︶4月、工兵第5方面提理となり、1883年︵明治16年︶2月、工兵第4方面提理に異動。1884年︵明治17年︶10月、工兵大佐に昇進。1886年︵明治19年︶3月、工兵会議議長心得に就任。1887年︵明治20年︶6月、工兵監となった。1890年︵明治23年︶8月、陸軍少将へ進級と同時に予備役編入となった[1]。 日清戦争のときには召集され、1894年︵明治27年︶8月、留守歩兵第5旅団長兼留守第3師団長事務取扱に就任した。翌1895年︵明治28年︶8月20日に功により勲二等瑞宝章を授かり、9月15日に残務処理を終えて軍務から退いた[2]。1898年︵明治31年︶に後備役に編入[2]。 1900年︵明治33年︶の義和団の乱︵北清事変︶でも召集され、10月18日に留守第5師団長兼留守第9旅団長となり、翌1901年︵明治34年︶12月27日に免じられた[2]。 1905年︵明治38年︶年3月、東京牛込鷹匠町の自宅において死去。享年62。死後、その功績を以てして正四位に叙せられた。 詩、書画、刀剣を好み、特に鑑刀においては宮内省御剣係をつとめる刀剣界の重鎮だった。親族[編集]
家に男子がいなかったため、矢野初太郎の三男友顕を養子に迎え跡継ぎとした。また二女幸重は森雅守砲兵少佐に嫁ぐが、森はイタリアで客死した[3]。栄典[編集]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[4]
- 1895年(明治28年)8月20日 - 勲二等瑞宝章[5]
- 1902年(明治35年)1月17日 - レジオンドヌール勲章コマンドゥール[6]
- 勲二等旭日重光章
脚注[編集]
(一)^ ﹃明治卅八年叙勲﹄巻1、﹁陸軍少将勲二等別役成義旭日重光章加授ノ件﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10112592700 。
(二)^ abc﹃明治卅八年叙勲﹄巻1、﹁陸軍少将勲二等別役成義旭日重光章加授ノ件﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10112592700 。リンク先4ページめの﹁履歴書﹂
(三)^ ﹃会津会雑誌第37号﹄小松八四郎﹁森梧六君﹂︵森梧六は雅守の弟で砲兵大佐。︶
(四)^ ﹃官報﹄第1933号﹁叙任及辞令﹂1889年12月6日。
(五)^ ﹃官報﹄第3644号﹁叙任及辞令﹂1895年8月21日。
(六)^ ﹃官報﹄第5565号﹁敍任及辭令﹂1902年1月24日。