妖艶毒婦伝 般若のお百
妖艶毒婦伝 般若のお百 | |
---|---|
監督 | 石川義寛 |
脚本 | 高田宏治 |
出演者 |
宮園純子 村井国夫 南原宏治 高野真二 小松方正 若山富三郎 |
音楽 | 津島利章 |
撮影 | 山岸長樹 |
編集 | 堀池幸三 |
製作会社 | 東映京都撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1968年10月12日 |
上映時間 | 90分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
﹃妖艶毒婦伝 般若のお百﹄︵ようえんどくふでんはんにゃのおひゃく︶は、1968年公開の日本映画。宮園純子主演・石川義寛監督。東映京都撮影所製作・東映配給[1]。モノクロ映画。
概要[編集]
1968年から1969年にかけて全3作品が製作された宮園純子主演による﹃妖艶毒婦伝﹄シリーズの第一作[2][3]。 歌舞伎や講談でも有名な江戸中期の毒婦・妲己のお百をモデルに[4][5]、夜鷹の母から淫らな血を受け継いだ女の宿命と、愛欲の爆発を描く[4][6]。最初からシリーズ化が発表され[4]、本作は東映京都撮影所製作でモノクロだったが、監督が中川信夫に交代した第二作﹃妖艶毒婦伝 人斬りお勝﹄、第三作﹃妖艶毒婦伝 お勝兇状旅﹄は、東映東京撮影所の製作でカラー映画となり、宮園の役名も第一作がお百で、第二作、第三作ではお勝に変わり、さらに同じお勝でも同一人物でなく、シリーズは繋がりがない。あらすじ[編集]
浅草・奥山の掛小屋の花形太夫・お百は夜鷹の子として生まれた。美しく成長したお百は、妖艶この上ない美貌と柔肌を持ち、男という男を地獄の底に突き落とす怖い毒婦の本性を次第に表す。やがて金塊強奪の一味に加わるが、裏切られ捕らえられて佐渡へ流された。強欲な島役人や獣性を剥き出しにする無宿人どもの中に投げ込まれるが、色仕掛けで島抜けに成功。お百は悪党一味を誘い、再び金塊強奪を企てる。キャスト[編集]
●お百‥宮園純子 ●恩田新九郎‥村井国夫 ●仙石伊織‥南原宏治 ●榊兵衛‥高野真二 ●権十郎‥小松方正 ●お紋‥三島ゆり子 ●雪‥小島恵子 ●南蛮鉄の文造‥関山耕司 ●と金の渡次‥芦屋雁之助 ●小宮山周防‥関根永二郎 ●阿波徳‥堀正夫 ●岡村外記‥中村錦司 ●田村六藤次‥高並功 ●上総屋総兵衛‥那須伸太朗 ●八兵衛‥川浪公次郎 ●牛若の沢市‥平河正雄 ●弁慶綱五郎‥藤本秀雄 ●伊勢長‥大城泰 ●五斗竹‥畑中伶一 ●生田の庄八‥堀田真三 ●甚吉‥阿波地大輔 ●お時‥岡田千代 ●音羽の巳之吉‥若山富三郎スタッフ[編集]
●監督‥石川義寛 ●企画‥岡田茂、松平乗道 ●原案‥高橋猛 ●脚本‥高田宏治 ●撮影‥山岸長樹 ●美術‥富田治郎 ●照明‥井上孝二 ●録音‥東城絹児郎 ●音楽‥津島利章 ●編集‥堀池幸三製作[編集]
企画[編集]
企画は当時の東映映画本部長兼企画製作部長兼京都撮影所︵以下、東映京都︶所長・岡田茂プロデューサー[1][7][8]。脚本の高田宏治は﹁"極妻"に至るぼくの女侠路線の原点﹂と話しているが[9]、岡田の着想はエロ要素を押し出した"毒婦もの"であった[4][7]。岡田が女優の活路を構想し[7]、東映の新シリーズ"毒婦もの"第一弾として本作を企画した[7][10]。 本作公開の1か月前から、同じ岡田企画で[11]東映初の"女侠もの""女ケンゲキ"[12]藤純子主演の﹁緋牡丹博徒﹂が始まっており[13]、同じ傾向の女侠映画を二つやる必要はなかった。﹃大奥㊙物語﹄が興したエロ時代劇のブームで[12]、当時は異常性愛路線も敷かれ、女だてらに刺青いっぱいの女剣戟の流行を合わせ[14]、"毒婦"猟奇路線と東映"名物"セックス路線︵東映ポルノ︶に加えて女侠をミックスした新シリーズである[4][14]。"毒婦もの"というのは戦前から作られていた映画ジャンルで[15][16]、高橋お伝や阿部定、夜嵐お絹といった歴史的に世間を騒がせた実録女性犯罪を取り上げた映画を指す[15][16]。本作の主人公・お百とは、生い立ち等がかなり違うが、江戸時代を代表する毒婦・妲己のお百のことで[4][5]、本作は実録映画でもある[4][7]。主演の宮園純子には脱ぐことを条件に主演オファーを出した[17][18]。 岡田は1964年2月に東映京都所長就任以降も当初は時代劇中心のラインナップを組んだが[19][20][21]、興行不振が続くため[22]、1965年に時代劇をテレビに移す決断を下し[23][24][25][26][27]、岡田が東映京都所長就任前の1963年に54本作られた[28]時代劇を他のジャンルの映画に転換する過程に於いて、﹁映画ではテレビでは出来ない"不良性感度"映画を製作する﹂と宣言し[29][30][31][32][33]、東映京都の専門である時代劇からの転換が比較的容易なヤクザとエロを二本柱に[33][34][35][36]、1965年に﹁東映好色新路線﹂としてエロ映画を大手映画会社で初めて路線化する方針を打ち出した[31][35] [37][38][39][40][41][42]。岡田は1969年の東映社内報で﹁セックス、暴力といったものは娯楽映画の基礎的条件の一つで、表現形式はいろいろ変わっていくと思いますが、消えるということはありませんよ﹂などと述べている[43]。 1965年に発表された﹁東映好色新路線﹂第一弾は﹃四畳半襖の下張﹄︵﹃四畳半物語 娼婦しの﹄︶だったが[11][44]、公開が1年延びた[41]。さらに藤純子主演で﹃毒婦・高橋お伝﹄、大川橋蔵主演﹃女犯破戒﹄[44]、﹃番町人肌絵図﹄︵下飯坂菊馬脚本を予定︶[44]、平安朝時代のセックスと暴力を描く佐久間良子主演﹃女盗賊﹄[44]、井原西鶴原作の﹃好色親不孝﹄︵野口竜雄脚本を予定︶[44]、明治・大正・昭和と三代の売春三部作﹃日本売春伝﹄︵佐治乾脚本を予定︶[44]、﹃大奥㊙物語﹄を製作すると発表した[35]。しかし﹃毒婦・高橋お伝﹄は藤純子に拒否され[44]、代わりに配役した佐久間良子には[44]、﹁作品の意図は分かるけれど、好色路線といわれては出る気はしません﹂と断固拒否され[41]、大川橋蔵のために企画した延命院日当を描く﹃女犯破戒﹄も﹁ボクにできるわけがない﹂と拒否され[40]、小川知子には﹃尼寺㊙物語﹄で﹁もっと裸になれ!﹂と怒鳴り[45]、東映から逃げられるなど[45][46]、東映の看板俳優たちに嫌がられ、なかなか路線化に至らず、エロ路線が軌道に乗るには製作まで2年を要した﹃大奥㊙物語﹄の大ヒットまでかかった[47][48]。1965年に企画に挙げた﹃毒婦・高橋お伝﹄が岡田が発案した最初の"毒婦もの"とみられ、"毒婦もの"を1967年から実行に移したいと考えていたが[7]、"大奥もの"が当たったため先延ばしになっていた[7]。1968年6月の映画誌で岡田が"毒婦もの"について、﹁1969年の正月映画として準備している"刺激性路線"﹃妖婦百人﹄。登場人物は題名どおり高橋お伝、妲己のお百、夜嵐お絹その他、有名な妖婦、毒婦を総登場させてドラマを構成する。誰が明治時代の妖婦で、誰が徳川時代の毒婦であっても一切お構いなし。そういうことにこだわらず型破りに作ってみせる。今までは"逃げ"の週間といわれていた番組も、これからは、この種の見せ場のはっきりとした企画の作品で逆に"儲け"の週間番組に切り替えてみせる﹂などと述べており[49]、このうち、妲己のお百を取り上げたのが本作。石井輝男とやった異常性愛路線での﹃明治大正昭和 猟奇女犯罪史﹄や[37][50][51][52][53][54]、牧口雄二に撮らせた﹃戦後猟奇犯罪史﹄﹃毒婦お伝と首斬り浅﹄などは[54][55]、"毒婦オールスター映画"のようなもので[49]、これらは今日、映画は勿論、テレビの再現ドラマでよく作られる実録犯罪ものや、東映実録路線のハシリに位置し[15][51][54][56][57]、伊藤俊也は﹁猟奇犯罪史﹂というのは岡田社長から持ち出された企画と述べている[57]。 1968年5月に岡田茂が映画本部長兼企画製作部長に就任し、東映の映画製作は岡田に一任された[58][59][60]。ここから岡田の指揮下で[58][61]、東映は暴力とエロを前面に押し出した"不良性感度路線"を突き進み、特異なエネルギーを放った[23][24][61][62]。本作の一つ前の番組が﹃ごろつき﹄/﹃不良番長﹄、一つ後が﹃人生劇場 飛車角と吉良常﹄/﹃夜の歌謡シリーズ 命かれても﹄、二つ前が﹃徳川女刑罰史﹄であった[63]。 1965年の正月大作﹃徳川家康﹄が不振だったことから[22]、岡田は1965年に製作予定だった時代劇の大半を中止させ[22][58][64]、以降は正統的時代劇はめっきり減り、岡田が東映京都所長就任前の1963年に54本作った時代劇は[28]、1968年に0になり[63]、エロかグロ要素を含む時代劇設定の映画が﹃忍びの卍﹄[65]、﹃尼寺㊙物語﹄[66][67]、﹃徳川女系図﹄[68]、﹃怪談 蛇女﹄﹃怪猫 呪いの沼﹄[69]、﹃大奥絵巻﹄[70]と本作も含む7本で、﹃怪談蛇女﹄以外の6本が岡田企画であった。監督[編集]
監督の石川義寛はシリーズ二作目﹃妖艶毒婦伝 人斬りお勝﹄、三作目﹃妖艶毒婦伝 お勝兇状旅﹄の監督・中川信夫の弟子[71]。新東宝時代に中川の怪談映画に助監督や脚本として就いた人で[71]、1961年の新東宝倒産で、1963年に東映所属になったとされるが[71]、1964年に岡田茂が東映京都所長に就任以降[72]、監督は東映を辞めさせられたり[72][73]、テレビ時代劇などに配当転換させられたため[24][72][73]、本作製作時に東映に所属していたかは分からないが、1971年に三船プロダクションに移籍したとされ[71]、それまでは東映が製作に関わった﹃水戸黄門﹄﹃大奥﹄など[71]、主に東映のテレビ時代劇を演出していた[71]。東映での監督作は1968年のお盆映画﹃怪猫呪いの沼﹄と本作のいずれも岡田企画の2本で、本作が最後の映画監督作。キャスティング[編集]
主演の宮園純子は1960年に東映ニューフェイス第7期合格後、東映が量産するプログラムピクチャーに多数出演するが[4]、主演にはなかなか抜擢してもらえず[6]、本作が入社8年目にして初主演作[3][6][74]。宮園はおとなしいなどと評され[4]、"清純派"イメージの女優であったが[6][17]、宮園には脱ぐことを条件に主演オファーがなされ[18]、相当悩んだ末に﹁この役はぜひやりたかった。だから脱いでも構わない。これから大女優になりたい。頑張り続けた8年間が報われる﹂と決心し、主演オファーを受けた[4][18]。作品の評価[編集]
興行成績と影響[編集]
意外に地方で大受けし[17]、シリーズ化が正式決定[17]。1968年から1969年にかけて、各社で女侠もの、女侠客映画が大流行したため[12]、宮園主演で新たに﹃おんな刺客卍﹄が製作されるなど[12][74]、宮園は一時、東映の主演級女優になったが[12][74]、長くは続かず[74]、1971年に﹃水戸黄門﹄のレギュラーになってからは映画から離れた[74]。同時上映[編集]
﹃ごろつき﹄ 監督‥マキノ雅弘 脚本‥石松愛弘 主演‥高倉健脚注[編集]
(一)^ ab“妖艶毒婦伝 般若のお百”. 日本映画製作者連盟. 2019年12月23日閲覧。 2019年12月25日閲覧。
(二)^ “妖艶毒婦伝シリーズ”. 日本映画製作者連盟. 2019年12月23日閲覧。 2019年12月25日閲覧。
(三)^ ab“80人を倒す宮園純子回転回し切りで剣の達人に”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 9. (1969年3月25日)
(四)^ abcdefghij﹁"毒婦"で宮園純子が初の主演ファイトとお色気の体当たり﹂﹃週刊明星﹄1969年9月29号、集英社、116頁。
(五)^ ab﹁内外映画封切興信録 ﹃妖艶毒婦伝 般若のお百﹄﹂﹃映画時報﹄1968年11月号、映画時報社、40頁。
(六)^ abcd﹁グラビア 芸能ドキュメント おとな︵ハダカ︶への脱皮 宮園純子・園まりの体当たり演技﹂﹃アサヒ芸能﹄1968年10月6日号、徳間書店、3-5頁。
(七)^ abcdefg加東康一・由原木七朗﹁スタアと共に人形佐七で復活した松方弘樹﹂﹃映画情報﹄1966年1月号、国際情報社、62頁。
(八)^ 佐藤重臣﹁エロが国家を保護しはじめたのか ハレンチ化を一手に背負う東映映画に流れるものは?﹂﹃キネマ旬報﹄1969年7月上旬号、キネマ旬報社、44頁。
(九)^ 鉄腕脚本家 高田宏治|作品解説1/ラピュタ阿佐ケ谷 - ラピュタ阿佐ヶ谷
(十)^ ﹁タウン映画︹封切映画紹介︺﹃妖艶毒婦伝・般若のお百﹄﹂﹃週刊新潮﹄1968年10月26日号、新潮社、16頁。
(11)^ ab私の東映30年 1991, pp. 147–149.
(12)^ abcde“"女ケンゲキ映画"時代 剣とエロが見せ場 ︻大映、東映、松竹が競う︼ 恥も外聞も捨てて... まかり通る女上位劇画”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 5. (1969年5月28日)
(13)^ クロニクル東映2 1991, p. 44.
(14)^ ab﹁トピック・コーナー 私も脱ぎますワ﹂﹃映画情報﹄1968年11月号、国際情報社、62頁。
(15)^ abcアナーキー日本映画史 2012, pp. 216–217.
(16)^ abジャネット・スタイガー(訳‥山口菜穂子)﹁つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース﹂﹃紀要言語文化23号2006年3月 pp.261-264, 明治学院大学
(17)^ abcd﹁めった斬り ワイド特集 ﹃現代女やくざ列伝 お色気、強さ一番は誰か? 宮園純子・毒婦に転身したもと清純派﹄﹂﹃週刊明星﹄1969年3月10号、集英社、50-53頁。
(18)^ abc﹁グラビア ﹃はじめて脱いだ宮園純子 男心を揺さぶる魅惑のポーズ﹄﹂﹃週刊大衆﹄1968年10月3日号、双葉社、6-9頁。
(19)^ 波瀾万丈の映画人生 2004, pp. 164–165.
(20)^ あかんやつら 2013, pp. 191–204.
(21)^ “︻戦後史開封︼(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日)
(22)^ abcあかんやつら 2013, pp. 205–209.
(23)^ ab日本の映画人 2007, p. 122.
(24)^ abc東映の軌跡 2016, p. 564.
(25)^ クロニクル東映2 1991, pp. 5–6.
(26)^ ﹁追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫﹂﹃東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17﹄2011年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅︵進駸堂書店中久喜本店︶、﹃私と東映﹄× 神先頌尚氏インタビュー︵第3回 / 全4回︶
(27)^ 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 147–152.
(28)^ abわが映画人生 2001, pp. 399–403.
(29)^ あかんやつら 2013, pp. 205–229.
(30)^ クロニクル東映2 1991, p. 8.
(31)^ abテレビ成長期の日本映画 2018, pp. 134–153.
(32)^ ﹁︹トップに聞く︺ 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る﹂﹃キネマ旬報﹄1969年6月下旬号、126-128頁。﹁反戦から時代劇、任侠、実録、エログロまで 欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 ﹃岡田茂から今の日本映画界は何を学ぶのか﹄ 文・大高宏雄﹂﹃キネマ旬報﹄2011年7月上旬号、68-70頁。﹁︹トップに聞く︺ 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る﹂﹃キネマ旬報﹄1969年6月下旬号、126-128頁。﹃私と東映﹄ x 中島貞夫監督 ︵第5回 / 全5回︶楊紅雲﹁アニメーションを根幹としたTV共存策 : 東映の傍流映画製作(1980-2000)を振り返って﹂﹃名古屋外国語大学外国語学部紀要﹄、名古屋外国語大学、2012年、204頁、2019年12月25日閲覧。
(33)^ ab岡田茂(東映京都撮影所長)・今田智憲(東映東京撮影所長)、聞く人・北浦馨﹁東映路線の今后の課題 ﹃企画は流行性、スターは不良性感度 岡田・今田東西両所長がさぐる要素﹄﹂﹃映画時報﹄1965年11月号、映画時報社、29-33頁。
(34)^ 中島貞夫﹁日本映画 この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか やくざ襲撃前夜のゴールデンエージ?﹂﹃映画芸術﹄1969年10月号 No266、映画芸術社、43-45頁。
(35)^ abc﹁タウン 女優を悩ます東映"好色"新路線﹂﹃週刊新潮﹄1965年2月11日号、新潮社、15頁。
(36)^ 任侠映画伝 1999, pp. 227–228.
(37)^ abあかんやつら 2013, pp. 261–276.
(38)^ 悪趣味邦画 1995, pp. 276–279.
(39)^ アウトロー女優 2017, pp. 14–25.
(40)^ ab﹁﹃どうなる大川橋蔵の新路線 舞台復帰か? テレビに進出か? 歴史的決断でD級転落?﹄﹂﹃週刊明星﹄1965年11月14日号、集英社、34-37頁。
(41)^ abc﹁観客の目 好色路線への両ヨシコの態度﹂﹃週刊文春﹄1965年12月27日号、文藝春秋、20頁。
(42)^ ﹁随想 ある日・そのとき・わたしはおもう ﹃やると思えばどこまでやるさ﹄ 文・岡田茂﹂﹃キネマ旬報﹄1969年1月下旬号、16-17頁。﹁追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫﹂﹃東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17﹄2011年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。暴力とセックスはあたりまえ!ヤクザ、スケバン、ハレンチ!﹁東映不良性感度映画﹂を特集-映画秘宝、あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅︵進駸堂書店中久喜本店︶、学歴に頼ってられない! 求められるのは“キャラ立ち”か……東映が史上初の﹁特撮番組専任のプロデューサー﹂を募集中、﹃私と東映﹄× 神先頌尚氏インタビュー︵第3回 / 全4回︶
(43)^ 東映の軌跡 2016, pp. 174–175.
(44)^ abcdefgh﹁製作 各社が苦労する新年度路線の確立 異色的な東映﹃好色路線﹄﹂﹃映画時報﹄1966年1月号、映画時報社、22頁。
(45)^ ab﹁東映﹃大奥﹄シリーズ 文・藤木TDC﹂﹃映画秘宝﹄2007年8月号、洋泉社、83頁。
(46)^ ﹁ルック 芸能 東映にヒジ鉄をくらわせた小川知子﹂﹃週刊現代﹄1967年11月16日号、講談社、33頁。
(47)^ クロニクル東映1 1991, pp. 218–221.
(48)^ 東映の軌跡 2016, pp. 166-167、174-175.
(49)^ ab映画界のドン 2012, p. 329.
(50)^ 福永聖二 (2015年8月26日). “︹カルチャー︺ アクションとカルト 二つの顔…石井輝男”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). オリジナルの2015年8月20日時点におけるアーカイブ。 2019--7閲覧。﹁東映不良性感度映画の世界 東映不良性感度HISTORY 1968/岡田茂と石井輝男 文・杉作J太郎﹂﹃映画秘宝﹄2011年8月号、洋泉社、53、54頁。﹁さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 東映異常性愛路線とは﹂﹃映画秘宝﹄2005年11月号、洋泉社、38頁。
(51)^ ab新文芸坐
(52)^ 悪趣味邦画 1995, pp. 96-99、276-280頁.
(53)^ 映画界のドン 2012, pp. 328–329.
(54)^ abc﹁東映・岡田茂の"事件が起きたら即、映画"術 文・高鳥都﹂﹃映画秘宝﹄2013年11月号、洋泉社、58頁。
(55)^ ﹁牧口雄二インタビュー(前編)﹂﹃映画秘宝﹄2014年7月号、洋泉社、72-75頁。
(56)^ ﹁東映不良性感度映画の世界 東映実録犯罪映画の系譜 文・モルモット吉田﹂﹃映画秘宝﹄2011年8月号、洋泉社、60頁。“明治・大正・昭和 ﹃猟奇女犯罪史﹄ 史実を再現した異色作!!五大犯罪事件に見る愛欲の陰惨な様相 女の本性を描写”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 8. (1969年8月21日)“東映、"実話路線"へ 第一弾は﹃猟奇女犯罪史﹄ 阿部定事件をモデル 失踪の由美てる子がカムバック 知られざる真実あばく”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 5. (1969年7月30日)
(57)^ ab﹁﹃ひとよんで鬼熊﹄をめぐる伊藤俊也を囲んでのディスカッション﹂﹃キネマ旬報﹄1975年11月下旬号、キネマ旬報社、78-84頁。
(58)^ abc私の東映30年 1991, pp. 139–147.
(59)^ ﹁日本映画の現勢Ⅴ ﹃特集 日本映画の首脳たち 五社首脳とその人脈 異才の経営者 大川博﹄ 文・今村金衛﹂﹃キネマ旬報﹄1968年12月上旬号、キネマ旬報社、119-121頁。藤本真澄(東宝・専務取締役)・白井昌夫(松竹・専務取締役)・岡田茂(東映・常務取締役)、聞く人・北浦馨﹁夢を売る英雄たちの会談3人のゼネラル・プロデューサーの果断なる現実処理﹂﹃映画時報﹄1968年10月号、映画時報社、18頁。
(60)^ 映画界のドン 2012, pp. 326–334.
(61)^ ab大塚英志﹃二階の住人とその時代-転形期のサブカルチャー私史﹄星海社、2016年、80-83頁。ISBN 9784061385849。
(62)^ 東映昭和映画傑作選 - U-NEXT、﹁しのぎに来たヤクザさえも撃退﹂伝説のアウトロー映画集団東映の血風録、﹃私と東映﹄ x 沢島忠&吉田達トークイベント︵第2回 / 全2回︶“︻産経抄︼”. 産経新聞 (産業経済新聞社): p. 1. (2011年5月14日)
(63)^ abわが映画人生 2001, pp. 412–414.
(64)^ ﹁日本映画界の問題点を衝く五社併存のチャンスを逃すな﹂﹃映画時報﹄1965年4月号、映画時報社、19頁。
(65)^ ﹁まじめにやるくノ一 味しめた東映'65年の忍法商法﹂﹃週刊サンケイ﹄1965年1月18日号、産業経済新聞社、55頁。
(66)^ あかんやつら 2013, pp. 263–266.
(67)^ ﹁3月の映画コーナー ﹃尼寺㊙物語﹄︿東映﹀﹂﹃月刊明星﹄1968年4月号、集英社、218頁。﹁これが男の映画だ!!中島貞夫の世界 中島貞夫ロングインタビュー 文・鈴木義昭﹂﹃映画秘宝﹄2009年9月号、洋泉社、60頁。
(68)^ 徳川女系図 - 文化庁日本映画情報システム
(69)^ 怪猫 呪いの沼 - 文化庁日本映画情報システム
(70)^ 大奥絵巻 - 文化庁日本映画情報システム
(71)^ abcdef監督全集 1988, p. 25.
(72)^ abc日本の映画人 2007, pp. 147–152.
(73)^ abわが映画人生 2001, pp. 147–152.
(74)^ abcde俳優全集女優編 1980, pp. 676–677.