東映ビデオ
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒104-0045 東京都中央区築地1丁目12番22号 コンワビル 10階 |
設立 | 1970年(昭和45年)6月10日 |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 4010001051343 |
事業内容 | ビデオソフトの製作・複製・販売 |
代表者 | 與田尚志(代表取締役社長) |
資本金 | 2,700万円 |
純利益 |
1億1590万8000円 (2023年3月期)[1] |
純資産 |
218億1655万円 (2023年3月期)[1] |
総資産 |
298億2261万1000円 (2023年3月期)[1] |
従業員数 | 63名(2019年7月1日現在) |
主要株主 | 東映 |
外部リンク | www.toei-video.co.jp |
東映ビデオ株式会社︵とうえいビデオ、TOEI VIDEO COMPANY, LTD︶は、劇場用映画をはじめテレビ映画・アニメのビデオ・DVDソフトの製作・販売活動を行う会社[2]。近年は劇場用映画の製作出資や配給も行う。東映の完全子会社。
概要[編集]
1970年6月10日[3][4]、近づくビデオカセット時代を見据え、映像産業の新分野へ積極的進出を目指し、東映ビデオ株式会社として設立[3][5][6][7][8]。東映会館5階の一角に事務所を構えた[6]。その後1977年2月2日にビデオ事業とは関係のない東映芸能と[注釈 1]東盛商事が[注釈 2]合併し商号を東映芸能株式会社とし[3][注釈 3]、この東映芸能株式会社と東映ビデオ株式会社が同年8月31日に合併して商号を東映芸能ビデオ株式会社とした[3][33][注釈 4]。1983年5月27日に総合ビデオソフトメーカーとしての事業展開を目指し[35]、商号を1970年設立時と同じ東映ビデオ株式会社に戻した[3][36]。 1986年にはオリジナルビデオアニメ﹃東映Vアニメ﹄、1989年にはビデオ用映画﹃東映Vシネマ﹄の製作を開始。映画、アニメ、テレビシリーズ、東映Vオリジナルのみならずドキュメンタリー、音楽、スポーツ、カラオケ、教材用ビデオなど、月40タイトルにわたり発表している。また通信カラオケにも力を入れており、かつては業務用カラオケ機器﹁東映BeMAX'S﹂を保有していたが、2004年に同機種の権利をBMBに譲渡した後は、背景映像︵BGV︶コンテンツの提供が主になっている。 東映が出資。資本金2,700万円。所在地は東京都中央区築地1丁目12番22号。 当社のみの特長として、映画作品のビデオグラムのパッケージには、必ず﹁全国劇場公開作品﹂を四角で囲った表記が入っている。同業他社は基本的にこの表記を使用していないため[注釈 5]、商標登録はされていない。 東映が発売元のビデオグラムは、名義上は﹁発売元・東映ビデオ 販売元・東映﹂と、東映の意向でこの表記にする逆転現象が起こっているため、ビデオ販売部門を直接持たない東映においての影響力が高いことがうかがえる。歴史[編集]
設立経緯[編集]
1961年、東映教育映画部は世界に先駆けトーキーの8ミリ映写機の開発・事業化に成功[37]。1962年4月、東映教育映画部から独立し8ミリ映像部が設置された[6][4]。8ミリ映像部は1965年6月に三協精機、横浜シネマの協力を得て、トーキーの8ミリ映写機を独自に開発する等[4]、1960年代に8ミリ映写機を自社製作し全国に販売した[5][6][38]。当時の学校用教材の市町村ライブラリーはすべて16mmフィルムだったが、それを8ミリの学校ライブラリーに置き換えようというのが東映の狙いであった[4]。この部署が1967年2月、教材本部教材映機営業部になった[6]。部員はその後もビデオ一筋の道を歩み[38]、いずれも東映ビデオの専務を務めた小林秀次と小黒俊雄ら三人で、これが東映ビデオの母体である[5]。当時の8ミリはほとんどが業務用で学校面での需要が大きかったが[5]、テレビが普及し始めると学校面での需要は減少し[4]、主な販路は遠洋航海の原油タンカーや貨物船などの乗員の娯楽慰安用に限られるようになった[4][5][6]。それらの船舶は遠洋に出るとすぐに日本のテレビは入らなくなり、何ヵ月も寄港しないため8ミリが良く売れた[6]。ところがオープンリール式のビデオテープレコーダ︵ビデオデッキ、VCR、VTR︶[39]が発売されると8ミリはさっぱり売れなくなった。それで映機営業部でビデオの研究を始めたが、映画会社では研究にも限界があった[6]。1969年までの家庭用ビデオテープレコーダは、家庭用といってもカセット型はまだ開発途上であったため[40]、オープンリール式のモノクロで、本体20~30万円、専用小型テレビカメラ、モニターテレビを含めると50万円以上[41][42]、テープも一巻が3万円と高価だった[42]。ハード︵機器︶もソフト︵テープ︶も高価なこの時代に、8ミリや初期のビデオの"一般の"購買層は、手元に置いて自分の所有物にしたいという心理を持つコレクターのような人たちであった[5][43]。特に1970年前後に個人でVTRを所有するケースは極めて稀であった[44]。1960年代も終わりかけの1969年10月29日、ソニーが最初のカセット式、しかもカラーの﹁ソニーカラービデオプレーヤー﹂を発売した[40][45]。このソニーのカセット式発売は東映は勿論、映画関係者を驚かせた[6]。機械も大きく値段も高価で家庭にはすぐは普及しなかったが[40][46]、ビデオという未来産業への期待から、1970年1月19日発足のフジポニーを皮切りに、1970年1月に東映を退社した今田智憲が設立に参加した日本クラウン・日本テレビ共同出資のユニオン映画が2月10日に発足されるなど[47][注釈 6]、放送局や映画界、レコード業界、広告業界、出版業界など、映像に関わる企業が3日に一社、計200社といわれたビデオ関連会社を設立する百花繚乱時代となった[18][47][49][50][51][52][53]。ビデオ産業で先頭に立っていたのはポニーとフジテレビとニッポン放送などのフジサンケイグループであったが[50]、東宝は最初はソニーと提携し研究を始め[18]、松竹は将来ビデオが普及すれば音楽出版が窓口になると踏み、毎日放送と中央音楽出版︵現・松竹音楽出版︶を設立し、松竹、東映、大映、日活もそれぞれ委員会を組織して研究を進めた[52]。東映でもビデオの研究を1960年代からやっていた映機営業部を母体に、各部門で行ってきたビデオに関する調査研究を統合し[54]、1970年2月2日付けで社内に﹁ビデオ・パッケージ特別委員会﹂︵坪井与委員長︶を設置した[6][18][55]。これが東映ビデオの実質的始まりである[5][6][54]。1970年6月10日、正式に東映ビデオ株式会社が発足した︵社長・大川博[51]︶[3][4]。発足時の社員は小林秀次、小黒俊雄ら十数人であった[38]。岡田茂は、東映ビデオ設立直後の1970年7月の映画誌のインタビューで﹁ウチのビデオ部門は東映のそれまでの含み資産を頭に勘定しながら発足した。これから市場の拡大に伴って、いかに市場を握っていくかが勝負でしょう。ビデオは伸びますよ。面白い映画産業の一つです。テレビに次いで第三の成長映像産業部門が出現したということです。映画を封切って二年ほどしたらテレビに流す、テレビでなんぼか稼いで、何年か後にはビデオになる、これがビデオカセットになる。一つの材料で三つの部門に稼げる材料が出てきたことは事実です。結局、映画だけを主にしていてはダメになった。われわれが考えている以上に機械文明の方がどんどん進んでくるから、これにどう即応していくか考えなければいかんということです﹂などと話していた[56]。1989年の映画誌のインタビューでは﹁ウチは︵ビデオ業界の︶先発。昭和40年代後半、オープンリール時代から粘りに粘って頑張った﹂と話した[57]。東宝が最初にハードを開発中のソニーと提携したことから、東映は同じハードを開発中でレコードで既に提携していたビクターと提携するのではと見られていた[52]。1970年代[編集]
各電機メーカーはコンパクトで安い家庭用ビデオテープ・レコーダの開発を急いだが[58][59]、まだ製品は市販化されておらず、メーカーも一切宣伝していないのにも関わらず[50]、1970年春、新聞雑誌が近い将来の映像媒体として60年代は"カラーTVの時代"70年代はVTR時代"、"ポストカラーTVの本命"などとビデオパッケージ︵VP、映像ソフトの総称︶を盛んに紹介し[47][58][59][60]、ビデオパッケージの認知度だけは50%にも昇った[50]。電通が1970年に都内23区から500世帯をピックアップし調査を行い、電通発行の雑誌﹃マーケッティングと広告﹄1970年10月号に﹁ビデオパッケージの家庭への普及は5年先の1975年に全国世帯数13.3%ぐらいになるだろう﹂という調査結果を載せた[50]。このような1970年前後の状況を受け、1970年にポニー社長の石田達郎が基調演説として﹁10年後にビデオソフトは5000億円産業になる﹂と行く先々でぶち上げた[44][47][51][61][62][注釈 7]。アメリカでさえ﹁10年先は10億ドル︵当時のレートで約3,600億円︶﹂としか言っていないのに[67]、この石田発言は根拠不明であった[67]。 日本最初の長編ビデオソフトは1960年代後半にドリームライフ︵ニラサワフィルム︶が愛好者向けに﹃歌劇カルメン﹄全曲3時間をソニーの再生機とセットで販売したのが最初[49]。映画会社でビデオソフトを最初に発売したのは1969年12月の東宝で[43]、東映が1970年2月これに続いた[43]。最初は山一證券からの受託﹃転換社債﹄という企業内教育ソフトで[6][68]、これらはモノクロのオープンリールで、劇映画をテープに移したものであったが、家庭はおろか、企業にもなかなか売れず、ニーズがなく当初は売り上げは上がらなかった[43]。当時"風のない日の凧上げ"という名文句が出た[43]。"風のない日"の"風"とは"消費者のビデオソフトに対するニーズ"という意味である[43]。 VTRの家庭への浸透にかなりの年月を要したため、東映ビデオも含めビデオ関連会社は開店休業状態が長く続き持ちこたえられず[69]、多くの会社が潰れていった[49]。またCATVなども1970年当時には存在し[50][70]、磁気方式で開発を進める日本の電機メーカーに対して、アメリカは光学方式での研究が進み[47][67]、パイオニアはビデオの商品化をやらず、レーザーディスクの商品化の研究を始めるなど[71]、﹁5000億円産業﹂発言は騒ぎ立て過ぎ[67]、ビデオの将来性については懐疑的な考えもあり[50][70][72]、荻昌弘は﹁ここ一、二年の間に、ハードウェア―の面では革新的な進歩があった。ところがその器に盛るためのソフトウェア―は全てこれから。映画会社が何をやるかといえば、旧作をビデオ化するぐらい。ソフトウェア―の面でも偉大なものが開発されない限り、本当に生かすことはできない。私はここ数年、ビデオブームが爆発的に起こるとは思わない﹂と話し[47]、NHK総合技術研究所・岩村総一主任研究員は﹁町の映画館が改築されて個室をいっぱい持った建物になるだろう。お客はロビーの棚にまるで本屋の店頭さながらにずらりと並んだビデオ・パッケージの中から、外国ものでも日本ものでも見たい作品を選んで個室に行き、プレーヤーにかけてカラーテレビで鑑賞する﹂などと解説し[47]、﹃放送文化﹄︵NHK出版︶1970年3月号は﹁先に各地で映像図書館が出来て、あらゆる種類のビデオ・パッケージ・シリーズが備えられ、小さな子供から主婦まで大繁盛した後、家庭用ビデオテープレコーダが普及する﹂などと論じ、他にも﹁欧米はテレビの放送時間がいい加減でタイマーは役に立たないから、テレビから採る︵録画する︶のは無理。またヨーロッパなどはテレビが面白くないからビデオが普及する。日本はテレビが面白すぎるからビデオが普及しない﹂[43]、﹁映画会社が映画館を潰してビデオで食えるわけがない﹂[18]、﹁ミュージック・テープのようにカセットに対する一般大衆の需要は期待できない。せいぜい教育、教養方面の利用﹂などの意見もあり[18]、東映ビデオ設立直後の1970年7月の映画誌のインタビューで小林秀次東映ビデオ取締役営業部長は﹁ビデオソフトが家庭にどういうスタイルで入るのかは、全く誰にも分からない﹂と述べ[56]、初期のビデオはハードもソフトも高価だったこともあり[73]、ビデオの将来はよく分からない状態であった[43][70][73][74]。映画業界は再生機械であるプレーヤー︵ビデオテープレコーダ︶の規格が統一されない︵ビデオ戦争︶とおいそれ手を出せない状況で[75]、映画会社のビデオ部門は結局は電機メーカーに儲けを持っていかれ下請けになるのではという危機感があった[75]。映画業界はリスキーなビデオ部門の参入にあたり対応が分かれた[47][76]。独力でビデオ部門を運営すると決めたのは東映だけで[47]、大映、日活の二社はポニーと提携した[47]。東宝は最初は単独でやるつもりで、松竹も最初はポニーと提携を予定していたが[61]、東宝と松竹は様子見として、文藝春秋、渡辺プロの四社で日本映像出版︵ネスコ︶を設立した[61][77]。東宝・松竹とも提携に社内の猛反対があり重役会で揉めた[77]。松岡辰郎、城戸四郎両社長がそれらの反対を押し切り提携を決断[77]。﹁大都市はそれぞれの系列館を続けるが、地方ではお互いのフィルムを抱き合わせて売る﹂などと発表し、記者会見では記者から﹁自ら映画をダメにするような事業になぜ乗り出すのか﹂と質問が飛び、両社長は﹁映画の衰退はもう防ぎ難い。企業としては情報産業の波に遅れまいとするのは当然。二番館、三番館用に作っていたくだらん映画をやめられる﹂と話した[77]。業績振るわず無配を続ける松竹の城戸社長には﹁そこまでやるならいっそ合併したら﹂の質問が飛び、﹁そのうちやるかもしれない﹂と話した[77]。東宝はレコード事業が未経験の流通で泥沼にはまっていたことから、ビデオの流通に慎重にならざるを得なかった[61]。映画会社でビデオ黎明期から傍系の子会社単独でビデオ部門の事業を継続したのは東映だけだった[78]。 東映はビデオ部門でポニーに次いで売上げ二番手に付けたが[50]、大川博東映社長は﹁ウチには教材映画が千本近くあるので、教育機関に売るか、貸すかがいいのではないか﹂と教材もので優位に立てるのではないかと考えていた[52][55][74]。大川は教材ものなどを売れば、世間が考えているほど、ビデオは将来的にも映画興行の生命を脅かすことはないと考えていた[52]。しかし1971年に大川逝去後、東映社長を継いだ岡田茂はターゲットが教育機関になるとは考えていなかった[50][79]。岡田は東映企画製作本部長時代の1970年秋に、ポニー社長の石田達郎、電通常務の梅垣哲郎との対談で、﹁石田さんにラッパを吹いてもらって、ウチは少なくとも2番手ランナーぐらいにつけて、ある時期来たらパッと飛び出したろと考えています︵哄笑︶。どの時期を飛躍のチャンスとするかはハード︵ビデオテープレコーダ、VTR︶の伸びをみなきゃ分からない。ソロバンは非常に難しいと思います。フジグループのようにビデオというよりは総合ソフト産業を目指されるという立場だと、資本をドカンと入れてもその他の機能に絡めて着実に回収できるということなんでしょうが、ウチあたりのように、映画、ボウリング、不動産でメシ喰っているところでは、まだ形にもならないビデオにドカンとカネ注ぎ込むということはソロバンが許しませんわな。今はオープンリールでの商売です。まったくオープン戦みたいなもんです︵哄笑︶。実際商売になっているのは、企業向け、学校向け、レジャー向け。これは旅館、モーテル向け、そんなところにしかソフトは動いていません。5千億の夢からすると微々たる商売ですけど、当面、この市場にウチの教育映画部門で製作した映画とか、一部の娯楽産業︵東映ポルノ︶をビデオ化して流しているわけですが、やがてホームユース︵家庭用︶時代を迎えるVP︵ビデオパッケージ、映像ソフトの総称︶の流通機構をどうするか、今からポニーさんに遅れず考えておかなきゃいけないでしょうね。幸い硬派なハウツーものとか教育用ソフトは、もう10数年16mm映画や8ミリ映画を製作配給してきたルートがあるので、これをビデオの販売チャンネルとして生かしてみたい、一朝一夕では採算ベースに乗らんでしょうが、このネットを生かすテがウチにはあるわけです。もうひとつは軟派ソフト、娯楽ですね、これが一番の稼ぎに将来なるんでしょうが、それだけにホームユース時代を迎える前に娯楽ものを流す流通組織を確立しておかないとビデオで旨味を味わうことは出来んと思う。いまウチが不況の映画界でかなりの利益を上げているのはいい市場を押さえているからです。直営劇場が80、東映作品しか上映しない専門館が250館、計330の系列市場があるため安定した収入が上げられているんです。この市場の成長のために喫茶店、飲食店の併設やら、力のあるところにはボウリング場を開設などやって興行資本の強化を援助してきたのが、不況の映画界で東映が独走している要因です。この市場がやがてビデオ時代が来るのだし、今はこちらからフィルム扱うのもビデオ扱うのも結局は一緒だなどと勧めているんですが、中にはいち早くビデオを扱っている映画館主もいます。まあこれを将来ウチのビデオの大きな販売網にしたい。そこから一般末端ユーザーを掴む、今着々準備しているところですが、これがハードの市場進出につれて販売基盤が拡がったとき、ウチが飛び出す時機が来ると思います﹂などと述べていた[50]。映画関係者は映画館がビデオを見せる施設に転換するのではという見方をする者が多かった[70]。 また石田達郎が﹁いま、ビデオの流通チャンネルとして考えられているのは出版、レコード、あるいは岡田さんが狙っておられるような映画館網いろいろありますわね...﹂などと話しているが[50]、1970年当時にレンタルビデオとしてビデオが普及するという発想も既にあり[70]、同じ対談で電通常務の梅垣哲郎が﹁これはあまり言うとアイデアを他へ取られちゃう恐れがある︵哄笑︶。僕は大企業が数社集まって貸しビデオ店︵レンタルビデオ︶をやったらどうかと思うな。何億かのカネ積んで何万台かのハード、一般消費者にリースするんですよ。そうすりゃテレビの初期、正力さんが街頭テレビで普及させたように、これは安くて、便利だとみんなが手に入れたがるでしょう...﹂などと話している[50]。また﹃映画時報﹄1970年3月号で、川上流二東宝取締役は﹁レンタルというのは非常に難しい面をたくさん持っている﹂と話し、レンタルの問題点を詳しく説明している[70]。 日本電子機械工業会が通産省の委託でまとめた報告書によると[69]、VTR出荷、1970年約6万2,000台、120億円︵国内約2万4,000台=47億円︶、ソフト約4万6,000本=6億円、利用分野は企業内営業用、学校、個人の順で、ソフトの種類は趣味・娯楽で実質はポルノが38%。次に企業PR用が15%、以下、一般教養、医学の順[69]。普及がされないのは規格の不統一、未開発とコストダウンができないためと解説している[69]。 1971年のビデオソフト流通は業務用ソフト98%、個人向けビデオソフト0.5%[44]。業務用ソフト98%の内、成人娯楽が68%と、ピンクビデオの占める割合が群を抜いて高かった[44]。ビデオソフト業界はポルノビデオが圧倒的多数を占める状態から始まった[44]。 1971年頃からお客へのサービスとして観光バスや喫茶店がビデオを設置し始める[80][81]。カラーテレビを備えた観光バスは以前からあったが、場所によっては電波が届きにくく画面が映らなくなるため、それをカバーするビデオに対する期待は大きかった[80]。 1971年8月、大川博社長が逝去し、後任社長に岡田茂常務が就任[82]。東映社長就任と同時に岡田が東映ビデオ社長を兼任[82]。岡田は社長就任前から﹁テレビ映画もCMも映画と同じ"映像"という観点で捉え、東映をすべての"映像"に取り組む映像会社に変貌させる﹂という考えを持っていたため[83]、東映ビデオは岡田の肝煎りセクションになった[84]。 岡田が三越の岡田茂専務︵当時︶と同姓同名で仲がよかったことから[85][86][87][88][89]、二人の話合いで1971年秋から東映の劇映画のビデオセットを販売する契約を結んだ[7][82][86]。当時他のデパートもビデオカセット販売に強い関心を寄せ[86]、三越はビデオレンタルを企画し、開始した場合は東映が全面協力を予定していた[86]。二人の岡田のビジネス上の付き合いは後に三越映画劇場に繋がった[88][87][90]。 ﹃月刊ビデオ&ミュージック﹄1972年1月号の付録、ビデオソフト作品目録︵1972年版、発売は1971年までのもの︶には、東映のビデオカセット販売タイトルとして、企業経営・職場教育向けに﹃正しい話し方﹄﹃言葉づかい﹄﹃明るい応対﹄﹃女子社員の心得﹄、従業員定着シリーズ﹃職場の生きがい﹄﹃わたしの幸せを売る﹄﹃ある根性の物語﹄﹃職場の太陽﹄﹃転職﹄﹃職場の不満﹄﹃職場のわかもの﹄﹃職場の孤独と仲間たち﹄など、職場教育シリーズ﹃集団討議・司会者編、形式編﹄、商店員教育﹃美しい包装﹄﹃私は一年生・基礎編、応用編﹄など、社交ホステス向け﹃指名獲得法﹄﹃基本接客法﹄など、金融機関向﹃お札の数え方﹄﹃来店客の心を奪え﹄﹃得意先係に要求される人間性﹄﹃よみがえる定期預金﹄などが15分から30分程度、カラーと白黒が半々で各2~3万円。産業教育・一般教育﹃ビデオ・コンピューター講座—全50編—﹄各30分、18,000円で、全81万円。暮らしの知恵シリーズ﹃夫・職業・家庭﹄﹃タバコと健康﹄﹃交通安全 運転者の目 歩行者の目﹄﹃この悲劇をくりかえしてはならない﹄、母親教育﹃もうすぐ一年生﹄﹃ひとりっ子﹄など、19分から30分程度が白黒で各2~42,000万円。医学・保険衛星シリーズ﹃中年からの運動と体力づくり﹄﹃飲酒と科学﹄﹃黒い血﹄﹃みなおせ食品添加物﹄﹃おそろしい回虫﹄﹃母乳栄養と人口栄養﹄、教養文化シリーズ﹃国旗とわたくしたち﹄﹃雪山の猿﹄﹃ニホンザル﹄﹃南氷洋の捕鯨﹄﹃原子力発電—そのしくみと安全性﹄などが19分から90分程度がカラーで各2~7万円。娯楽一般タイトルは﹃任侠清水港﹄﹃赤穂浪士 天の巻 地の巻﹄﹃かんざし小判﹄﹃この首一万石﹄などが白黒72分、各5万円、﹃喜劇急行列車﹄﹃喜劇・"夫"売ります!﹄などが白黒90分、各55,000円、﹃湖の琴﹄は白黒で劇場公開版と同じ129分、55,000円、﹃徳川家康﹄も白黒143分、55,000円、﹃あゝ同期の桜﹄も公開版と同じ107分55,000円、﹃やくざ刑事﹄白黒89分、55,000円、﹃太平洋のGメン﹄白黒72分、55,000円。ムードシリーズとして﹃温泉あんま芸者﹄︵58分︶と﹃徳川女系図﹄︵60分︶﹃浮世絵千一夜﹄︵60分︶がカラー編集版で各6万円。この他、57タイトルの成人向けビデオが記載されており、﹃女湯三助物語﹄﹃女高生ジャングル﹄﹃おいろけ女忠臣蔵﹄﹃恥ずかしい技巧﹄﹃学生娼婦﹄﹃口説きあの手この手﹄﹃個室のテクニック﹄﹃快楽の女医﹄﹃女+ツボ=回春﹄﹃珍譚鬼の居ぬ間に﹄﹃悶える電話﹄﹃悶える少女﹄﹃(禁)いたずら﹄﹃思春期の行為﹄︵各カラー30分、3万~6万円︶などは映画のタイトルにはないもので、劇場公開された東映ポルノや洋ピンを編集したり、他社のピンク映画を買取り編集したものと見られる[91]。1973年にポニーが発売した﹃太陽がいっぱい﹄のビデオは時間不明で10万円[92]。 1970年代前半にはチャイルド社と提携し[82]、幼稚園用ビデオを発売したり[93]、富士フイルムと提携してゴルフやボウリング、証券会社のハウツーものなど業務用需要に焦点をおいて展開を図ったが、当時は売る物もなく売る先も狭く[57]、これらは大きな稼ぎには至らず[8][93][94]。ビデオ業界の糸口になったのは成人ビデオであった[95]。1971年2月にソニーが全国六ヵ所で関係者を招いて"ビデオ祭"を開催したが[95]、人気の的だったのはソニーご自慢の映像機械ではなく、日活と東映が﹁限られた業者へのアピールのために設けた特別コーナー﹂で、上映された﹃温泉あんま芸者﹄﹃濡れた乳房﹄などが大入満員となり、ソニーは苦虫を潰した[95]。この光景を見たマスメディアは﹁ビデオとはピンク映画と見つけたり!﹂と叫んだ[95]。VTRが市販化される前に東映ビデオのようなソフトのメーカーにとってビデオテープの稼ぎ頭でもあり、また生き残れたのもポルノビデオのおかげであった[8][43][57][70][96][97][98]。買い手はモーテルや連れ込み旅館などの温泉マークが主で[6][44][79]、後はサウナ[70][96][99]、遠洋航路の貨物船、タンカーなどであった[43][52][70][98][100]。温泉マークに販売されたビデオは、それ以前に各地の温泉地で上映された16ミリの温泉ポルノや8ミリのブルーフィルムなどとは異なり[79]、映画会社がかつて製作したピンク映画の濡れ場を編集して30分程度︵当時のビデオは30分しか容量がなかった︶[6]のビデオにしたもので[79]、再生機はオープンリール方式か[96]、Uマチックの業務用再生機となり[70][97]、テープも含めいずれも高価なため[100]、こういう所しか扱えなかった[70][97]。ハードメーカーは余り表に出したがらなかったが[7]、1973年頃、全国5~6000の温泉マークにビデオが置かれた[7]。最初に売り出したのはテイチクで発売は1970年5月1日[98]。テイチクはレコード会社で、ピンク映画のノウハウもソフトもないため[98]、場末の劇場で3、4千円で買いたたくようなピンク映画のフィルムを版権料20万円で買い集めピンクビデオを作って売った[98]。テイチクはすぐに撤退したが、この後、東映ビデオとジャパン・ビコッテ︵日本ヘラルドと惠通企業との合弁会社︶[56]、日活ビデオ事業部の3社のみがこれを制作販売した[97][101]。当時はまだ日活はロマンポルノに転じて間もなく、ジャパン・ビコッテは当然ポルノ作品が充分ない中、東映だけは岡田茂が1960年代後半から盛んにピンク映画︵東映ポルノ︶を作っていたため[102]、オリジナルを作る必要がなく[97]、東映ポルノを30分程度に編集して売った[8][102]。他の二社はオリジナル作品を作らなければならなかった[97]。これが物珍しさもあり[96]、東映ビデオは1971年夏から"ピンク商法"に事業を拡張[8]、タダ同然の製作費で大きな利益を生んだ[8]。東映ポルノの﹃処女の絶叫﹄などのハイライトシーンを再編集して﹃女の恍惚﹄という別タイトルを付けた67作を﹁東映㊙ムードビデオ大劇場﹂と名付け売り出した[8]。この東映30分短縮ポルノは1980年代前半まで東映のビデオカタログに記載があったとされ[79]、有名作では鈴木則文監督作﹃エロ将軍と二十一人の愛妾﹄の改題﹃将軍と二十一人の愛妾﹄、山口和彦監督作﹃色情トルコ日記﹄の改題﹃金髪娘ボイン作戦﹄などがあった[79]。元ネタである映画は映倫を通した物だったが、編集したビデオ作品にも勝手に映倫マークを付けて売り[8][102]、元の映画は成人指定だったが、再編集版は成人指定がないため子供も自由に見れた[8]。これが映倫と揉め[8]、警視庁防犯部が捜査に乗り出したり[8]、日活が1972年1月に徳島県警防犯課による摘発を受けたことから[8][97][103]︵日活ロマンポルノ裁判の始まり︶[44]、1972年3月1日に先の三社が作品の自主審査を行う﹁成人ビデオ自主規制倫理懇談会﹂を発足させ[8][51][97][101][104]、これが1977年6月に日本ビデオ倫理協会になった[97][104][105]。日本ビデオ倫理協会の設立は映倫維持委員会の承認を受ける必要があったが[106]、当時の映倫維持委員会委員長はそれまで散々映倫と揉めて、映倫を苦しめ続けた岡田茂で[103]、﹁どうなっているのか?﹂と新聞に叩かれた[102]。東映ビデオは1973年5月に神奈川県警防犯課に大がかりな猥褻フィルム販売、映倫マーク盗用事件で、現像関係者など18人が猥褻図画販売、商標法違反などの疑いで書類送検された[107]。猥褻フィルム事件で商標法の適用を受けたのは全国初だった[107]。この成人ビデオがなければ東映ビデオは持ちこたえられなかった[43]。 1972年度上半期で、前年下半期に比べ130%増の売り上げを計上し、ビデオ業界唯一の字を黒字を保つ[108]。 ポルノは今や﹁見るより作る時代﹂を先取りして東映傘下の東映観光が﹁8ミリ・ポルノ・撮影ツアー﹂を企画[109]。1972年12月2~3日に箱根湯本温泉南〇荘にて、会費29,500円で、中小企業の社長からセミプロ的マニアや8ミリ同好会代表ら30人の好き者が集まりポルノ撮影会が開催された[109]。酒宴の後、ピンク映画の巨匠・向井寛の演技・監督指導のもと、ピンク女優が3名、男優2名の強姦やレズシーンを撮影したが、地元の小田原署の係官がマークし担当者は神経を使い汗びっしょり。しかし参加者からは概ね好評を博した[109]。 岡田社長がいずれビデオの時代が来るとソフトが不足すると読み[110]、テレビでまだ未放映の﹃羅生門﹄を始め、多くの名作を持つ会社再建中だった大映の旧作の版権を安く買い叩けないか企んだが[110]、仲の良い徳間康快が大映再建を始めたため断念。 業務用ではなく、一般家庭用戦略の第一段階は、好評テレビSFドラマ︵原文ママ︶﹃仮面ライダー﹄の商品化であった[94][111][112]。東宝が﹃ゴジラ﹄など怪獣ものを本とセットで8ミリを売り出したのを真似て[112]、1972年7月、大沢商会と提携して売り出した商品の内訳は、絵本レコード、ステレオ、ソノシートに映像を組み合わせたもので[94][111]、映像メディアはビデオではなく、8ミリフィルムであった[94][111]。第一期販売作品は﹁怪人ハエ男﹂﹁怪人カメストーン﹂﹁アマゾンのギリーラ﹂﹁海蛇男﹂﹁怪人ジャガーマン﹂の五作品で[94][111]、各一組4,900円。大沢商会と東映直営館でのみ発売[111]。 VTRがあまりに家庭に普及しないため[113][114]、岡田社長が痺れを切らし[113][115]、家庭に普及している映像機器は何かを調べさせ、当時家庭に普及という程のものでもなかったが、それでも映像機器としては最も8ミリ映写機の所持者が多い[94]、1972年夏頃は少なく見積もっても150~200万台の映写機が家庭に普及しているといわれていた背景から[4][94][112]、本を買うのと同じくらいの8ミリ時代が来ると予想し[116]、1973年10月にフジフィルムに提携を持ちかけ[113]、フジフィルムの映写機と東映の画︵旧作︶の8ミリをセットとして1973年12月1日﹁富士フィルム東映8ミリ映画劇場﹂を発売した[4][7][113][114][117][118]。岡田は﹁ひと頃ビデオ5,000億円産業と騒がれたが失敗したようだ。これはソフトよりもハードに問題点がある節がある。いずれビデオの時代が来るとは思うが、それよりも先に8ミリ映画の方がブームになると思う。現在8ミリ映写機は300万台が家庭に出回っている。これはもっと伸びる要素があると確信している。それを一層効果的に利用するためフジフィルムと提携して家庭配給に踏み切った。当初は月産5,000万円を目標にしているが、来年度は一億円を目標にしている。フィルムも既成の劇場用などを使用するが、新しいフィルムも製作して需要に応えたい﹂などと話し[113][114]、長年の構想であった"家庭へのフィルム配給"の足掛かりを作った[114]。ブームになれば直接家庭に配給する方法も構想していた[114]。1973年時点ではビデオソフトより8ミリフィルムの方が売り上げを上回っていた[119]。それまでの日本に於ける8ミリは一般家庭での記録を中心とした撮影機を通じて8ミリに親しむという方向で市場が拡大されてきたが、今後は更に家庭向き8ミリ映画を映写して、ホーム・ムービーを楽しむという8ミリフィルム及び、映写機サイドからの8ミリ需要喚起によって、8ミリ市場全体を拡大し、家庭で気軽に楽しめる映画劇場を、という狙いを持った[114]。 第一期販売作品は東映名作シリーズとして藤純子主演﹃緋牡丹博徒﹄、高倉健主演﹃昭和残侠伝﹄、片岡千恵蔵、月形龍之介、市川右太衛門ら出演のオールスター映画﹃水戸黄門・天下の御意見番﹄や﹃旗本退屈男 蛇姫屋敷の決斗﹄﹃遠山の金さん捕物帳・謎のからくり天井﹄の劇場公開作5作品と、マンガ︵東映アニメーション︶、ドキュメンタリーなど20作品︵カラー60メートル10分ものが9,800円、モノクロ90メートルが6,500円︶が[114]、﹁お茶の間を映画館に﹂のキャッチフレーズで全国の富士写真フイルム傘下のカメラ店、百貨店から売り出され、好評を博し発売前に1,000セット、2万本の予約が入り、発売4ヵ月で4万本︵最終ユーザーに12,500本︶というヒットになった[4][114][117][118]。その後も日活から白川和子のポルノ映画を版権を買い、8ミリで販売するなど[118]、8ミリフィルムの映画作品発売はフィルムの愛蔵版として人気を得てタイトルを増やし、一年後には40作品[4]、1975年11月には洋画の名作を加え、その中の﹃エマニエル夫人﹄のハイライト集が爆発的なヒットとなり、25,000本を売り上げた[4]。その後もマリリン・モンロー主演﹃紳士は金髪がお好き﹄︵カラー90分、15,800円、1976年11月26日発売︶[120]、﹃ベイ・シティ・ローラーズ﹄︵ロンドンテレビ局でのスタジオライブ、1977年7月7日発売、カラー73m、光学録音カセット付き、12,000円︶﹃キャンディ・キャンディ﹄﹃ゲッターロボG﹄︵1977年7月7日発売、各カラー60m、9,800円︶[121]などを加え、発売3年半で100作品、累計40数万本を売り上げた[117]。東映ビデオの売上げ︵1974年度上半期3億5,000万円︶の五割以上が8ミリだった。ビデオソフトは二割で、あとは受注その他である[4]。 これに伴い、当時全国の家庭に網を張り、機械をいじるのはミシンメーカーだったことから[116]、8ミリを家庭配給するにはミシンメーカーと手を組まなければならないと構想していた[116]。8ミリフィルムの発売はビデオに取って代わられた1978年頃まで続き[4][34][94][122]、﹃エマニエル夫人﹄や﹃太陽の恋人 アグネス・ラム﹄︵カラー25分、15,800円︶など多数の8ミリフィルムがあるのはこのためである[5][123]。 大川博の息子・大川毅とソリが合わず東映を退社し[19]、ユニオン映画に行っていた今田智憲が盟友・岡田茂に呼び戻され[124]、東映に経営企画部参与として復帰し[7][124][125]、1973年3月31日付で[124]、岡田に代わり東映ビデオ社長に就任︵岡田は東映ビデオ会長︶[19][20][124][注釈 8]。当時岡田が東映動画︵現・東映アニメーション︶の整理で組合と大揉めしていたこともあり、業界関係者からは﹁一度東映を出た人がまた帰ってくるなんて、大川社長の時代では考えられないこと、よく組合が黙っていたものだ﹂と言われた[124]。岡田は﹁今田君をビデオの社長に迎えたのはボクの友情からだと思われてるらしいが、それだけではない。彼の持つアイデアと才能を生かす方法はないかということで、みなに計って納得してもらったんだ。才能をフルに生かすためには、その企業をよく知ってなくちゃいけませんから。所詮、仕事は人と人のつながりから始まると思うし、何と云っても彼は東映の性格をよく知っている。今田君も他人のメシを食ってそれがよく分かっただろうし、彼のアイデアを生かせば、うちのビデオも伸びると思うんだ。勿論今田君も昔の自分だと思っちゃいかんわね。それは本人、よく知ってると思う﹂と話した[115]。今田は翌1974年8月、東映動画とタバック社長を兼任しながら、東映ビデオ社長を以降1989年まで16年間、東映動画を1993年まで20年間社長を務めた[20]。ビデオと動画の社長を長年兼任できたのは、ビデオ部門は1970年代はほとんど動きがなかったからである[61]。VTRが家庭になかなか浸透せず、コンパクトで安価なVTRは1975年から販売が開始されると1973年頃公表はされたが[7]、規格の問題などがあり、すぐに普及はしないのではと今田は考えた[7]。また1973年に西ドイツのテレフンケンがヨーロッパでビデオディスクを発売するという話が日本にも伝わり、カセット式ではなくビデオディスクが先に家庭に浸透するのでは考えていた[7]。岡田からは8ミリのホームシアター実現を進めてくれと指示を受けた[7]。1973年暮れ、"ミスター東映ビデオ"といわれた小林秀次部長が急逝し、後釜に小黒俊雄が坐る[84]。 日本ビデオ協会︵現・日本映像ソフト協会︶加盟16社の1973年10月~1974年9月期、ビデオソフト売上は総額13億822万円[51]。 1974年3月、家庭用ビデオソフト第一号﹃中山律子のボウリングアップ﹄を製作[33]。12月には米軍の従軍撮影隊が16ミリでカラー撮影した太平洋戦争のフィルムを東京チャンネル企画、東映ビデオ製作で[118]、歴史記録ビデオの集大成﹃激動の記録―映像でみる戦後﹄︵全六巻・各25分︶・﹃秘録・昭和戦争史﹄︵全十巻・各15分︶・﹃カラー太平洋戦争史・慟哭の記録﹄︵45分、5万円︶を販売した[118][127]。1978年から手掛けた映像カラオケは制作費を節約するため軍歌などの映像はこれらの映像を[5]、演歌には東映任侠ものの映像が使われた[5]。 ビデオ時代の幕が開けたのは1975年[33][45][58][128][129]。ソニーが小型で画質の良いベータマックス方式のVTRを発売した1975年をVTRの本格普及元年とされる[130]。日本ビクターが1976年9月にVHS方式のVTRを発売し、本格的なVTRの普及が始まった[46][131]。東映ビデオは1975年11月、来るビデオ時代の到来に先駆け、カラー家庭用ビデオソフト﹁ホームビデオシリーズ﹂︵﹃ピンク・フロイドの幻想﹄︵60分︶・﹃任侠に咲いた花 藤純子﹄︵30分︶︶などを発売した[33]。 1977年6月1日、日本ビデオ倫理協会の発足で、東映ビデオの小黒俊雄部長が理事長に就任[104]。 1977年6月23日、東京有楽町の日本劇場1階の東宝ビデオショップ内に日本で初めての本格的ビデオ・レンタルショップ︵レンタルビデオ︶がオープンした[132][133]。 春、夏の東映まんがまつり以外に一年を通じ子供たちの見る映画がないと、今田社長のアイデアで、少年向け映画を非劇場映画として、東映と系列の劇場以外の全国のホールでの上映を決め[134][135]、東映ビデオとして初めて映画の配給に乗り出した[135]。第一弾は今田社長自ら現地で買付けて来たチェコスロバキア映画﹃口笛はあの青い空に﹄︵日本語吹替え版で黒柳徹子らが吹替えを担当︶を1977年8月、東京有楽町の第一生命ホールと大阪桜橋のサンケイホールを皮切りに全国のホールで上映された[134][135]。今田は﹁最近は劇場用映画の観客動態が大きく変化してきており、ホールなどを活用した非劇場上映の方式に注目すべきだと思う。特に子供を対象にした映画の場合、その動員力はバカにならないものがある﹂などと話した[135]。 1977年、東映ビデオ販売の名称を冠した販社制度が立ち上がり[33]、全国的な流通網が確立され[34]、同年8月31日に東映芸能と東映ビデオが合併し、東映芸能ビデオ株式会社が立ち上がった[33]。1980年代にビデオ売り上げ急上昇の原動力になった東映ビデオ販売全国13販社は、会社発足後以降の悪戦苦闘期にその原形を築き上げたものであり[38]、同社はビデオ業界で最も強力な営業網を作り上げることに成功した[33]。 1977年12月24日に東映セントラルフィルム発足がアナウンスされ[136][137][138]、岡田東映社長に誘われ黒澤満が東映芸能ビデオの社員として迎えられた[137][138][139][140][141]。東映セントラルフィルムの旗揚げ第一作の﹃最も危険な遊戯﹄は、製作が東映セントラルフィルム=東映芸能ビデオで[142]、テレビドラマ﹃探偵物語﹄なども東映芸能ビデオの制作であるが[142][137]、本来、東映ビデオは映画やドラマを制作するセクションではないので、東映ビデオとして制作が活発になるのは﹃東映Vシネマ﹄以降となる[137][142]。 東映はカラオケ創成期の8トラック︵カセット型︶開発で先駆的役割を担い[143]、カラオケ市場のベースを創出してきた[143][144][145]。1978年8月にはカラオケビデオをオリジナルで開発し[146][147]。初のビデオカラオケ﹁映像でつづるカラオケビデオ・想い出の軍歌﹂を1978年8月15日発売[34][131][146][144][148]。従来のカラオケは頭出しが簡単な8トラックのテープから曲が流れ、客は歌詞カードを見ながら歌うだけだったが[144]、本商品はその曲と歌詞をビデオテープに収めた画期的なカラオケビデオであった[144][145][149]。それまで東映ビデオは細々とした経営を続けたが、何かビデオソフトらしいものがないかを模索していたとき、営業マンの一人が﹁歌うとき歌詞カードで探すのは大変だが、歌詞を画面に出したら便利なのではないか﹂とアイデアを出し[144]、﹁ついでに背景に映像を流したら面白い。これはいける﹂と製品化に踏み切った[144]。最初に作ったのは﹃軍艦マーチ﹄で、1974年に発売した歴史記録ビデオの映像をそのまま使った[5][144]。これがビデオ機器の展示会で評判を集め[144]、遺族会などからの問い合わせも相次ぎ[144]、スナック、バー等で利用したいという要望が殺到した[146]。1980年2月5日、スナックなどの飲食店、ホテル、旅館などを対象とした業務用カラオケビデオテープとビデオ再生システム︵﹁東映カラオケビデオ自動選曲システム︵SA-1000︶﹂を発売[146][150]。これがカラオケビデオの先駆け[145][151]。しかしビデオを使用する﹁絵の出るカラオケ﹂は再生を繰り返せばテープが減り画質が落ちることと、8トラックならワンタッチでできる頭出しが容易でないという欠点があった[144]。1980年代[編集]
そこで﹁絵の出るカラオケ﹂の進化系をビデオディスクとオーディオの先進メーカー、パイオニアに提案し[151]、専用機器の開発と製造を委託[145][147][152]。パイオニアの松本誠也社長は岡田茂の銀座の飲み友達だった[153]。パイオニアは1981年10月、独自に開発したレーザーディスクを発売したが、当初は注文が殺到するも年が明けたら売れ行きがパタッと止まっていた[144]。これは再生しかできないのにソフトが少なかったためで[144]、パイオニアは東映のカラオケビデオが人気があると聞き、苦肉の策としてこれをレーザーディスクでやったらどうかと考えた[144]。両社の思惑は一致し1982年10月20日、業界初のカラオケディスクが発売された[5][144][147]。従来のテープ式より光学式ビデオディスクは鮮明画像かつ、希望曲の頭出しが簡単で早く、耐久性も物理的摩耗が皆無のため使用年限は半永久的等、多くの利点があった[145][147][131][149]。また曲に合致した背景映像により雰囲気を盛り上げると共に、聞く人を含めてアミューズメント性、エンターテイメント性を高めることが可能となり、カラオケ文化の拡大に大きく寄与した[145]。販売は東映芸能ビデオが専用機器を合わせて販売した他、パイオニアでも家電ルートを通じて販売した[147]。カラオケビデオやカラオケディスクを通じて映像ソフトを充分に持つ東映は有利に働いた[131][151]。いくらでも過去の映像作品の中から曲にあった映像を抜き出してソフトを作ることが可能で[151]、また新たに撮影したりし、大きな収入源になった[5][151]。﹁最終的な勝負はソフトの良し悪し。ソフト制作のノウハウを最も蓄積してきたのは映画会社。ソフトの時代になればウチの出番です﹂と岡田茂は胸を張った[154]。カラオケディスクは爆発的に売れ、レーザーカラオケはあっという間に業界全体に広がった[144]。JHC︵現・BMB︶、第一興商、日光堂︵現・BMB︶といった大手カラオケ業者が参入し[144]、日本ビクターや松下電器がVHD方式で、ソニーがCD方式を発売するなど[149][144]、﹁絵の出るカラオケ﹂は夜の盛り場を席捲[144]、カラオケの急速な普及をもたらし[145]、アジア地区を含めカラオケ文化を生み出す原動力となった[145][149]。またレーザーカラオケの選択が第一興商のカラオケ販売業界首位に押し上げた原因といわれる[131]。1970年代は東映の旧作をビデオ化することが主な仕事だったが、このカラオケソフトの制作により新たな仕事の領域が生まれた[151]。 本間は1980年9月、スカイコーポレーションから本間優二が移籍[155]。1981年8月、従来30分15,800円のビデオ価格から大幅に格安の30分9,800円の﹁ミリオンセラー・シリーズ﹂を発売[156]。30分の短縮版だが﹃最も危険な遊戯﹄﹃銀河鉄道999﹄などが発売された[156]。ビデオソフトの出荷が急に増えたのは1981年で[43]、原因は家電メーカーがテレビの次はVTRだと力を入れて宣伝した[73]、電気屋さんが店頭に置くようになった等の理由とされる[43]。またレンタルレコード業︵貸しレコード︶に端を発するレンタルビデオの普及については、日本映像ソフト協会は﹁アダルトビデオを扱っていた問屋を映画会社が利用してその販売ルートに乗せたから﹂と論じている[73]。1980年代のVTR普及率急上昇で[78][157]、ビデオ業界が空前の売り上げに沸いた[157]。これを受け、岡田東映社長が﹁映画会社から総合的な映像供給会社への脱皮﹂を標榜[78]。ポルノの強い東映芸能ビデオは1981年12月のひと月で一億5,000万円を記録した[157]。日本ビデオ協会の調査によれば成人ビデオの占める割合は1981年前半で全体の31.6%[43]。しかしビデオ協会に入っていないアウトサイダーのメーカーが成人ビデオには多いため、実際は60%ぐらい成人ビデオが占め[43]、1981年上半期のビデオソフトの売り上げは22億4,000万円であったが、この数字とは別に10億円以上をアウトサイダーのメーカーの成人ビデオを売り上げたといわれる[43]。ポルノビデオを扱う業者は当時はまだ50社程度であったが[157]、愛染恭子の﹃本番生撮り・淫欲のうずき﹄を売り出した日本ビデオ映像は社員5人ながら、ビニ本店に置いた戦略が功を奏し、一本1万4,000円のビデオが7000本以上売れビルが建った[157]。1981年の日本映画の製作本数は443本に対し、ポルノビデオは560本製作された[157]。 1982年に15万円以上が中心価格帯だったVTRは、1985年に中心価格帯10万円~13万円台に下がり[158]、VTRの普及率は1982年で世帯数の約15%で500万台[130]。レーザーディスクのハード普及率が同時期5万台[130]。1984年にVTRの世帯普及率は35%に上った[158]。東映ビデオも積極経営に拍車がかかり[78]、今田智憲東映ビデオ社長は﹁主力のビデオソフトが急成長期を迎えた﹂と判断し[78]、ビデオ専門店のほかレコード店、カメラ店などにビデオソフトの取次店を拡大し[78][130]、1982年売り上げ24億円[130]、前年比約90%アップ[130]。業界全体ではビデオソフト売り上げは200億円を突破といわれた[130]。1982年11月、日本コロムビアとソフト部門で販売提携[159]。日本コロムビアは映像作品が、東映芸能ビデオは音楽ソフトとお互いの弱い部分を補う提携[159]。1983年に発売した由美かおる﹃永遠の妖精﹄は当時"動く写真集"と呼ばれ[160]、イメージビデオブームの先鞭をつけた[160]。1983年11月、それまでポニーと提携していた角川春樹事務所と販売提携し[78][161]、﹃里見八犬伝﹄のビデオは映画の封切と同時に劇場で販売した[162]。最終的に5万本、7億円を売り上げ[163]、ビデオ販売の新記録を作った[162]。こうした追い風を受け、各種販売店から取り扱い申し込みが殺到した[78]。東映ビデオの1983年の年間売上は80億円で[163][164]、売上高前年の三倍近くという急成長を遂げた[164]。東映はビデオで強いポルノとヤクザ物を始め[165]、戦隊ものやアニメーションなど幅広い人気コンテンツを持つためビデオ売り上げでも優位に立てた[38]。1983年の売上内訳はビデオ︵カセット︶40億円、カラオケビデオ30億円が二本柱[38]、その他であった[163]。東映ビデオといえば後年の﹃東映Vシネマ﹄が有名であるが、今田はこの時点で﹁将来は自前でビデオ用の作品を制作したい﹂と話していた[78]。 ビデオレンタルが市民生活に定着したのが1980年代半ば[5][61]。急増するレンタルビデオ店は、魅力あるソフトの品揃えが売上げを左右するため、その在庫需要で1983年頃から1985年頃までは過去製作が蓄積された映画会社のビデオ部門が旧作をどんどん送り出し、楽な商売で大きな利益を生んだ[61]。東映ビデオもようやくビデオソフトを中心に営業できるようになった[5]。東宝は当時自社製作の活力が衰弱していたため、新作ビデオに関してはビデオ販売の二次使用権がないケースが多く、東映も角川やオフィス・アカデミーなど提携作が増えてきていたとはいえ、まだ自社製作が多かったためビデオ販売でも東宝に勝っていた[61]。東宝は危機感を持ち、マーチャンダイジング展開として、この時期から始めたのが﹃タッチ﹄﹃きまぐれオレンジ☆ロード あの日にかえりたい﹄などの劇場用アニメ映画の製作だった[61]。 1983年3月8日、東映芸能ビデオ、東映、東映動画の三社がCSKと業務提携し、黎明期のゲームソフト市場に参入[166]。またCSKがCATVに関する研究を急いでいたため、近い将来に共同でCATVなどのニューメディア分野に本格進出を狙うのではと見られた。岡田茂、大川功両社長はそれぞれ異口同音に﹁映像とコンピューターを結び付けた新事業の検討を続けたい﹂と話した[166]。 ビデオ販売競争に勝とうと1983年11月から1984年1月に販売したビデオの景品に海外旅行など﹁懸賞制限告示﹂の限度額を超える過大な景品額の提供があったと公正取引委員会より厳重警告を受けた[167]。 ビデオ機器の普及率が著しい伸びを示し[35]、ビデオソフト部門では後発の東宝と松竹が子会社を設けずに直轄で着々と利益を上げていたこと[76]、ビデオ業界が激しい競争の時代に突入しつつあったことから[35]、1984年5月1日付けで、東映本社にビデオ事業部を新設し[5][168]、東映ビデオの企画、製作、販売のうち、販売を東映本社の直轄事業に移した[5][57][76][168]。この機構改革により、以降のビデオ部門の売り上げ等は、東映ビデオ単独ではなく、東映ビデオと本社ビデオ事業部とを合わせた数字となる。1985年のビデオ事業部の売上高は約106億円に上ったが[169]、他社との競争の激化で1986年の売上高は横ばいで、経常利益は微減になった[169]。 1985年頃から映画を家庭のビデオで見る人口が大幅に増加し、レンタルビデオ店が全国約8000店と一気に増えた[170]。ビデオレンタル業界には異業種からの参入が相次ぎ、レンタルビデオ店の経営者側から経営のノウハウを求める声が高まった[170]。これを受け東映と東映ビデオ両社はメーカーとレンタルビデオ店の関係を密接に保ち、来るべきレンタル市場の激動期を勝ち抜くべく[170]、1986年10月の東京・京王プラザホテルを皮切りに全国13都市で初の﹁レンタルショップコンベンション﹂を開催し[170][171]、岡田茂東映社長や今田智憲東映ビデオ社長と貸しビデオショップの経営者と意見交換などの交流を深めた[172]。レンタルビデオ店側は各会場50~200人で合計1500人が出席した[171][172]。1986年の年間売上は150億円[171]。﹁レンタルショップコンベンション﹂は翌1987年も5月から6月にかけて全国23都市で開催され[171]、東映のソフト取り扱い拡大を働きかけた[171]。以降1990年代にかけても毎年開催された[170][173]。レンタル店は異業種からの参入が相次いだことから市場が拡大したため、東映も約2,000店のレンタル店と直接取引をしていたが、新たに﹁東映ビデオファミリー﹂を組織し、取引店を3,000店に増やしたと目論んだ[171]。 1985年10月、東北新社と提携し、同社が権利を持つ﹃エクスタミネーター2﹄﹃殺人鬼﹄などの映画作品をビデオで販売した[注釈 9][175]。1986年3月、三菱商事、東北新社、東映と共同で[176]、初のオリジナルビデオアニメ﹃アモン・サーガ﹄を発売[2][170][176]。オリジナルビデオアニメ第三弾の﹃湘南爆走族﹄からパッケージに﹁Vアニメ﹂と表記し、以降、ヒット作を次々と生んだ[170]。 1987年、売上げで初めてポニーを抜く[177][注釈 10]。東映ビデオの売上大幅増が効いて[177]、東映の第64期決算︵1986年9月1日~1987年8月31日︶は映画会社で初めて総売上1,000億円を記録し[177]、東映は映画会社で売上トップになった[177]。 1988年9月、東宝と共にレンタルビデオ最低料金500円の維持契約に公正取引委員会から勧告を受ける[51]。 東映・東映ビデオが主催する﹁'89東映カラオケクイーン﹂に山下直美と蒲池幸子︵坂井泉水︶が選ばれ[179][180]、東映の販促キャンペーンとして地方のカラオケ店の巡業ほか、東映カラオケビデオにも出演した[179]。坂井は1991年、ZARDでの歌手デビュー後も暫く東映カラオケクイーンを務めた。 レンタル方式の普及でソフト不足が予想されたことから1989年3月、﹃クライムハンター 怒りの銃弾﹄を皮切りに東映Vシネマとしてオリジナルビデオを量産し、大ヒットを記録[2][5][181]、オリジナルビデオの代名詞になるほど大きな成功を収め[2][5][182][183][184]、実質的なオリジナルビデオ︵OV︶生みの親になった[51][185]。Vシネマの成功は東映ビデオが長年積み上げてきたビデオ市場での実績と先見性が結集した成果でもあった[5]。 1989年6月、東映ビデオの社長が今田智憲から渡邊亮徳にバトンタッチされる[57]。渡邊は東映本社ビデオ事業部長と兼任[57]。1990年代[編集]
通信カラオケの登場は1992年夏で[143]、東映ビデオがパイオニア、JHC、日光堂の4社で共同開発した﹁BeMAX'S︵ビーマックス︶﹂は1995年2月発売と遅れをとった[143][186]。後発になったため、当時の岡田茂会長と高岩淡社長から﹁売れゆき見通しは大丈夫なのか﹂と心配された[143]。BeMAX'Sはソフト8千曲の制作をパイオニア以外の3社で行い[143]、計22億円の投資で1社負担が7億円強だった[143]。 1992年Vアメリカ第1作を発表[2][187]。 1989年から東映ビデオの社長を務めていた渡邊亮徳が1995年の税務調査で度を超えた会社のカネの使い込みが発覚し、東京国税局が東映ビデオに税務調査に入る事態になったため、渡邊が責任を取り1996年4月、東映ビデオの社長他、東映の全ての役職を辞任した[188][189]。東映ビデオの渡邊の後任社長は高岩淡東映社長が兼任[189]。また1996年6月27日に行われた東映第37期定時株主総会終了後の取締役員会で、渡邊亮徳東映副社長の後任東映副社長に泊懋東映動画社長が昇格[190][191][192]。泊がテレビ、ビデオ、映画、教育の各事業部門統括となり、映像部門を全て統括することになった[190][191]。東映第73期︵1995年4月~1996年3月︶売上高898億7,300万円、前期比2.8%減[192]。うちビデオ事業は売上高180億9,800万円、前期比14.4%減と[192]、レンタル市場が業者間の過当競争と廉価傾向により売上が低迷[192]。通信カラオケが主流商品として急成長する一方、通信カラオケの移行が他社と比べ後発であったことから減収を余儀なくされた[192]。また従来のパッケージ型カラオケの低落が顕著になるなど厳しい様相となった[192]。東映第76期︵1998年4月~1998年9月︶ビデオ事業は売上高64億7,875万円、前期比10.8%減[193]。カラオケが60億円の不良債務を抱え込んで危機を迎える[193]。2000年代[編集]
2000年秋から大手映画会社で初めて、本格的にDVDのリリースをスタート[194]。 日本経済が不況の中、2003年のソフト市場はバブル期の1991年を抜く3,400億円前後の売上げを記録[195]。ハードの普及やソフトの低価格化でVHSからDVDへのメディアシフトが急速に進んだ[195]。東映ビデオが2003年末に発売した﹃バトル・ロワイアルII鎮魂歌﹄がセルDVD、レンタルを含め、各種DVDが初回出荷が18万本を売り上げた[195]。2010年代[編集]
沿革[編集]
●1965年10月16日 - 東映芸能株式会社︵旧︶設立。 ●1970年6月10日 - 東映ビデオ株式会社︵旧︶設立。 ●1972年11月7日 - 東盛商事株式会社設立。 ●1977年 ●2月 - 旧東映芸能株式会社と東盛商事株式会社が合併し、東映芸能株式会社に社名変更。 ●8月 - 旧東映ビデオ株式会社が東映芸能株式会社と合併、東映芸能ビデオ株式会社に社名変更。 ●1983年5月 - 東映ビデオ株式会社に社名変更。 ●2010年10月 - 東映ビデオ設立40周年。 ●2020年10月 - 東映ビデオ設立50周年。 ●2024年4月1日 - 東映を分割会社とした上で同社のパッケージ事業を吸収分割︵簡易吸収分割︶により当社に承継。これに合わせて同年1月22日付で当社と東映による吸収分割契約を締結[196]。製作作品[編集]
主要映画[編集]
●1970年代 ●ピンク・フラミンゴ ※ビデオ版 ●最も危険な遊戯 ●ザ・ダーク ※ビデオ版 ●1980年代 ●死霊のえじき︵発売元は株式会社東北新社・東映クラシックフィルム株式会社︵現‥東映ビデオ株式会社︶、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版・Betamax版・LD版[注釈 11] ●マドンナin生贄︵A Certain Sacrifice︶※ビデオ版[注釈 12] ●ちょうちん︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社、製作は株式会社ヴァンフィル・株式会社廣済堂プロダクション︵現・株式会社 長良プロダクション︶・東亜興行株式会社︶※ビデオ版 ●カンフーキッド/好小子 ※ビデオ版 ●カンフーキッド 続集︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●カンフーキッド2悪ガキ6人衆︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●カンフーキッド3飛びだせ!悪ガキ三兄弟︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●カンフーキッド4 SF大冒険!悪ガキ3人衆︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●カンフーキッド 続集︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アラカルト・カンパニー︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社、製作は幻燈社︶※ビデオ版 ●愛はクロスオーバー︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社、製作は幻燈社/ファンハウス/オー・エンタープライズ︶※ビデオ版 ●フライング飛翔︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社、製作は株式会社SLプロジェクト︶※ビデオ版 ●黒い雨︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社、製作は今村プロダクション・林原グループ︶※ビデオ版 ●1990年代 ●カンザス/カンザス経由→N.Y.行き︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版、LD版 ●BEST GUY︵発売は株式会社東北新社、販売は東映株式会社︶※ビデオ版 ●獅子王たちの夏︵発売は株式会社東北新社、販売は東映株式会社︶※ビデオ版 ●クレープ︵製作は西友/東映/東北新社、発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●クライムハンタ-2 裏切りの銃弾︵発売は東映株式会社、製作は株式会社東北新社・東映ビデオ株式会社︶※ビデオ版 ●サボタージュ︵販売は東映株式会社・東映ビデオ株式会社、発売元は株式会社東北新社︶※ビデオ版 ●アルビノ・アリゲーター︵販売は東映株式会社・東映ビデオ株式会社、発売元は株式会社東北新社︶※ビデオ版 ●ボディ・カウント︵販売は東映株式会社・東映ビデオ株式会社、発売元は株式会社東北新社︶※ビデオ版 ●タイタニック 深海に沈む真実︵発売元はブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント︵現・ウォルト・ディズニー・ジャパン︶、販売元は東映株式会社・東映ビデオ株式会社[注釈 15]︶※ビデオ版 ●鉄道員 ●2000年代 ●極道の妻たちシリーズ ●ZOO ●メールで届いた物語 ●仮面ライダー THE FIRST ●男たちの大和 ●憑神 ●北の零年 ●ただ、君を愛してる ●俺は、君のためにこそ死ににいく ●バルトの楽園 ●大奥 ●仮面ライダー THE NEXT ●2010年代 ●百円の恋 ●チワワちゃん ●2020年代 ●嘘八百シリーズ ●海辺の金魚 ●星屑の町 ●黄龍の村 ●ツユクサ ●ハザードランプ ●スーパー戦闘 純烈ジャー ●愛なのに ●猫は逃げた ●ツーアウトフルベース ●破戒 ●コンビニエンス・ストーリーテレビドラマ[編集]
●1979年 ●探偵物語 ※現在、版権は制作子会社であるセントラル・アーツが管理。 ●1997年 ●幻想ミッドナイト ●2005年 ●Sh15uya ●2018年 ●モブサイコ100 ●2019年 ●ミリオンジョー ●2021年 ●ただ離婚してないだけアニメ[編集]
1990年前半[編集]
●Dr.スランプ アラレちゃん︵劇場版︶ ●蒼き伝説シュート! ●美少女戦士セーラームーンシリーズ ●幽☆遊☆白書︵劇場版一作目︶ ●きんぎょ注意報! ●ママレード・ボーイ ●GS美神 ●ご近所物語 ●花より男子 ●ドラゴンボールZ︵劇場版のみ︶ ●SLAM DUNK︵劇場版のみ︶1990年後半[編集]
●あずきちゃん︵劇場版︶ ●金田一少年の事件簿 ●地獄先生ぬ〜べ〜 ●ゲゲゲの鬼太郎第4作 ●遊☆戯☆王 ●まもって守護月天! ●キューティーハニーF ●アニメ週刊DX!みいファぷー各作品 ●こっちむいてみい子 ●ふしぎ魔法ファンファンファーマシィー ●ヘリタコぷーちゃん ●神風怪盗ジャンヌ ●デジモンアドベンチャー ●エンジェル伝説 ●おジャ魔女どれみシリーズ︵第1シリーズ、映画版︶︵も〜っとは販売のみ︶ ●ビーストウォーズスペシャル 超生命体トランスフォーマー︵レンタル版VHSのみ、セル版VHS・DVDはパイオニアLDC︵現・NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン︶から発売︶ ●CG版ビーストウォーズ 激突!ビースト戦士 ●ビーストウォーズII超生命体トランスフォーマー ライオコンボイ危機一髪! ●CG版ビーストウォーズメタルス2000年代[編集]
●最終兵器彼女︵一部のみ東北新社から発売︶ ●愛してるぜベイベ★★ ●劇場版あたしンち︵レンタルのみ。セル版はテレビ朝日、シンエイ動画、メディアファクトリーから発売︶ ●ゲゲゲの鬼太郎︵劇場版シリーズDVD-BOX。フジテレビジョン、東映アニメーションから発売︶ ●祝!(ハピ☆ラキ)ビックリマン ●ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU ●銀河鉄道999︵テレビアニメシリーズDVD︶ ●カレイドスター︵ビデオ版のみ︶ ●涼風︵レンタルのみ。セル版はマーベラスエンターテイメント︵現・マーベラス︶から発売︶ ●DRAGONBOX THEMOVIES︵ドラゴンボール・ドラゴンボールZ劇場版シリーズDVD-BOX。完全予約限定生産。フジテレビジョン、集英社、東映アニメーションから発売︶ ●HUNTER×HUNTER︵テレビアニメ版VHSのみ。DVDはマーベラスエンターテイメント︵現・マーベラス︶から発売。マーベラスエンターテイメントと共同で発売︶ ●頭文字D︵テレビアニメ、﹁頭文字D Third Stage﹂︶︵レンタルのみ。battle stageまでエイベックス、fouth stage以降オービー企画︵extra stage2まで︶、トゥーマックス︵fouth stage前半まで︶、ウェッジリンク︵fouth stage後半以降︶と共同で発売。一部シリーズレンタルDVD版・全シリーズセル版はエイベックスから販売︶ ●SLAMDUNK︵テレビアニメ、劇場版シリーズ単巻DVD・DVD-BOX︶ ●BUZZER BEATER ●ボボボーボ・ボーボボ︵レンタルのみ。セル版はエイベックスから発売︶ ●ONE PIECE︵劇場版のみ︵STRONG WORLD以降のセル版を除く︶。TVシリーズはエイベックスから、STRONG WORLD以降のセル版はポニーキャニオンから発売︶ ●BECK︵レンタルのみ。セル版はマーベラスエンターテイメント︵現・マーベラス︶から発売︶ ●おジャ魔女どれみ ナ・イ・ショ︵レンタル︵販売︶のみ。セル、レンタル共に3社協同発売、セル版はジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン︵現・NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン︶より販売︶ ●プリキュアシリーズ︵劇場版レンタルのみ。TVシリーズ︵セル、レンタル共︶・劇場版セル版はマーベラス︵旧・マーベラスエンターテイメント、マーベラスAQL︶から発売、﹃ハートキャッチプリキュア!﹄まで︵TV・劇場版共に︶および﹃映画 ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ﹄から﹃映画 ヒーリングっど♥プリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身!!﹄までの劇場版・﹃Go!プリンセスプリキュア﹄から﹃ヒーリングっど♥プリキュア﹄までのTVシリーズはポニーキャニオンが、﹃スイートプリキュア♪﹄から﹃ハピネスチャージプリキュア!﹄までのTVシリーズおよび﹃映画 プリキュアオールスターズDX3 未来にとどけ!世界をつなぐ☆虹色の花﹄から﹃映画 プリキュアオールスターズNewStage3 永遠のともだち﹄までの劇場版はTCエンタテインメントが、﹃トロピカル〜ジュ!プリキュア﹄以降︵TV・劇場版共に︶はハピネット・メディアマーケティングが、それぞれ販売を担当︶ ●花より男子︵テレビアニメシリーズDVD︶ ●鉄子の旅︵CS放送でのみ放送のテレビアニメ。小学館から発売︶ ●北斗の拳︵テレビシリーズDVD︶ ●キン肉マン︵テレビアニメシリーズDVD︶ ●キン肉マンII世 ●デジタルモンスターシリーズ︵テレビ・劇場版シリーズ単巻DVD。後にハピネットからDVD-BOXが発売される︶ ●デジモンアドベンチャー ●デジモンアドベンチャー02 ●デジモンテイマーズ ●デジモンフロンティア ●湾岸ミッドナイト︵レンタルのみ、オービー企画から発売、セル版はユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン︵現・NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン︶、ジェネオン エンタテインメント︵現・NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン︶より販売︶2010年代[編集]
●聖闘士星矢Ω︵レンタルのみ。セル版はバンダイビジュアル︵現・バンダイナムコフィルムワークス︶より販売︶ ●ディバインゲート︵マーベラスから発売︶ ●甘々と稲妻 ●南鎌倉高校女子自転車部 ●つぐもも ●ナナマル サンバツ ●Dimensionハイスクール2020年代[編集]
●ぼくのとなりに暗黒破壊神がいます。 ●アルテ ●恋は世界征服のあとで ●神達に拾われた男 ●幼女社長 ●ひげを剃る。そして女子高生を拾う。 ●金装のヴェルメイユ ●七つの魔剣が支配する ●ミギとダリ ●僕らの雨いろプロトコル ●結婚指輪物語CINEMA LAND[編集]
●ハリケーン/ヒルダ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ブラインド・カンフー/白昼の暗殺軍団︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●悪魔の寄生虫・パラサイト︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●パープル・ヘイズ/紫のけむり︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●実録マフィア戦争/暗黒の首領︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●スティーヴン・キングの死霊の牙︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●激突!空中アトミック戦略/ヒーロー・ボンバー︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●爆発!海底大油田/ファイヤー・インフェルノ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ヘル・レイザー︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版、LD版 ●ザ・スティック/悪夢の戦場︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●スローター・ハウス/13日の仏滅三隣亡︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●スティーブ・マックィーンの人喰いアメーバの恐怖︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●悪魔のエイリアン︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ゾンビ・チャンネル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●美女バンパイア/華麗なる誘惑︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●新・ハロウィン︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●シークレット・ウエポン︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ドライビング・アカデミー︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●悪魔のサンタクロース 惨殺の斧︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●悪魔のサンタクロース2︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●Dr.ヘキルとMr.ハイプ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●GO!GO!チアガール/突撃お色気大作戦︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アルカトラズ刑務所・暴動大脱獄︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●血まみれ女子高生・処女のしたたり︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●残酷スプラッターシャワー/血ぬられた頭蓋骨︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●殺人兵器サンダーアーム/鋼鉄の報酬︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ボディ・ロック︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●地獄の大墜落/エア・インフェルノ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●地獄の武装都市/復讐のターミネーター︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●電撃!秘宝強奪指令/地獄のシンジケート︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アーノルド・シュワルツェネッガーのSF超人ヘラクレス︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●超人ヘラクレス2︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●インターゾーン/狙われた秘宝︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ビキニ・パラダイス/ホット・リゾート︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ローマの女︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●女帝軍団アマゾネス・ウォリアーズ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●美女集団監禁(卍)ゲシュタポSM収容所︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●クレイジー・キラー 悪魔の焼却炉︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ドリームスケープ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●野獣は放たれた︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●毒蜘蛛タランチュラ 死霊の群れ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●実録・香港マフィア戦争 四大天王︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ドラゴン特攻隊︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●レボリューション/めぐり逢い︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版、LD版 ●デッドウォーター︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アタック・オブ・ザ・キラートマト︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●デッド・ホスピタル/血の実験室︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●トップモデルはミスポリス︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●冷血バイオレンスマスク/銃弾のえじき︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●チョウ・ユンファの悪霊退治/デビル・バスターズ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●少林寺・激怒の大地︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ヘルナイト︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●悪魔の祭壇・血塗られた処女︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ザ・ハース/生贄の町︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●娼婦殺人事件/鮮血の白い肌︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●狙われた夜/血に染まる大晦日のロックパーティ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●死肉のはらわた︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ホラーメイカー アンディ・ミリガン/激惨!血に飢えた館︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ザ・パワー/肉体を喰いつくす古代の呪い︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●死霊の世界ウィッチ・ボード︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●危険な恋人︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●SF・SEX/異星人のえじき︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●Mr.バンピラ/眠れる棺の美女︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●血の週末・暴獣のいけにえ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●怒りの湖底怪獣/ネッシーの大逆襲︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●クローネンバーグのデッド・ゾーン︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ジョーイ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版、LD版 ●地獄の殺戮都市︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アウトロー無宿/ライフルヒート︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●白熱マフィア戦争/皆殺しの抗争︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●怒りの特殊コマンドー/非情の流血都市︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●魔女は16才︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ファラ・フォーセット/サンバーン︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ファラ・フォーセット/レイプ・殺意のエンジェル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●近未来戦士テキサス2020年︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●筋金を入れろ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社、協力はCABLE HOGUE CO., LTD.︶※ビデオ版 ●未来女戦士 炎のアマゾネス︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●学園パニック/ゾンビの逆襲︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●人喰い魔神・裸女狩り︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●キラー・ドラゴン/流星拳︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●殺人特攻戦車タイガー・シャーク︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●1969︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●N.Y.犯罪地図/アンタッチャブル・コップス︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●コング/怒りの処刑︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●レイプ・魔の標的︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●妖艶霊鬼︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●妖艶霊鬼2︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●軽薄短小セクシー・キャンパス/SOS!フリーライド︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アマゾネス刑事/死の標的︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●香港歓楽愛歌・美しき生贄たち︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●レッド・ブラッド・ガール︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●悪霊の巣窟・狂死曲13番︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●シシリアン・マフィア︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アムステルダム/怒りの追撃︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●野獣女戦士アマゾネスクイーン Barbarian Queen︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●手首切断!悪魔のゾンビノイド︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●怪獣大パニック/テンタクルズ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ショー・コスギ'88/復讐遊戯︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●フラッシュ!︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ダークライド/連続ヒッチハイカー殺人事件︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●リップスティック︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●狂鬼!呪いのモーテル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●屋根裏部屋の花たち︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●W/ダブル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●エクスタミネーター2︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●殺人鬼︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●快楽の殺人メニュー/ブロンド・マニア︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●NINJA U.S.A.︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ザ・ドリーミング︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ハーレクィン︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ナナ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●コンドル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●殺人サイボーグ リタリエーター︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●第三帝国の陰謀を砕け!ヘル・コマンドー7︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●極道USA︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アーノルド・シュワルツェネッガーのキング・オブ・アマゾネス︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●美人コーチのお色気大逆転︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ロードハウス66︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●パパとママ!!ぼくの小さなプレゼント︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ロバート・ミッチャム/男たちの勲章︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●スプラッターハウス/笑激の館︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アナスタシア/光・ゆらめいて︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●荒野の1ドル銀貨︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●殺人豚︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●未来世紀ブラジル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●壮絶!人質奪還/戦闘プロフェッショナル︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●危険な恋人︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ラスト・レイプ︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●殺人兵器サンダーアーム/鋼鉄の報酬︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●スーパークロス/勝利のデッド・ヒート︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●秘録ブルース・リー物語︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ゾンビ・怨霊の墓場︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●ブラック・コマンド︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●アイ・ラブ・スヌーピー︵全10巻 発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●THE・アニメーション サンダーバード 2086︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●サンダーバード 2086-2 宇宙大作戦︵発売元は株式会社東北新社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版オリジナルビデオアニメ[編集]
●アモン・サーガ︵発売元は三菱商事株式会社・株式会社東北新社・東映ビデオ株式会社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版、LD版 ●愛しのベティ 魔物語︵製作・発売元は株式会社東北新社・東映ビデオ株式会社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版 ●勝利投手︵発売は東映株式会社、製作は東映動画株式会社︵現・東映アニメーション株式会社︶・株式会社東北新社・東映ビデオ株式会社︶※ビデオ版 ●新歌舞伎町ストーリー 花のあすか組!︵製作・発売元は株式会社角川書店︵現・株式会社KADOKAWA︶・株式会社東北新社・東映ビデオ株式会社、販売元は東映株式会社︶※ビデオ版レーザーディスクゲーム[編集]
●忍者ハヤテ︵1984年、アニメパート︶ ●タイムギャル︵1985年、アニメパート︶TOEI Vキッズ・シリーズ[編集]
●ぼくは王さま ●ねずみくんのチョッキテレビ番組[編集]
●小島×狩野×エスパー3P︵TOKYO MX︶ ●大久保×鳥居×ブリトニー3P︵TOKYO MX︶映画[編集]
●ガクドリカラオケ[編集]
●東映ビデオカラオケ 音多MAN ●東映レーザーカラオケ 音多MANスーパースターシリーズ[編集]
●ジャパン / ラスト・ライヴ -オイル・オン・キャンバス-︵1983年︶※ビデオ版 ●ザット・ウォズ・ロック ザ・タミー・タント・ショウ'64・'65 ※ビデオ版 ●ディズン・バード・アンドホーク ※ビデオ版 ●ビーチ・ボーイズ ア・セレブレーション・コンサート ※ビデオ・ベータ版 ●よみがえるビートルズ マジカル・ミステリー・ツアー ※ビデオ版特撮[編集]
●スーパー戦隊シリーズ ●スーパー戦隊Vシネマ ●仮面ライダーシリーズ ●メタルヒーローシリーズ ●スパイダーマン︵東映版︶オリジナル[編集]
●TVヒーロー主題歌全集 ●東映怪人怪獣大百科シリーズ ●総集編シリーズ ●グラフィティシリーズ︵予告編集︶ ●東映100大ヒーロー スーパーファイト ●東映スーパーギャルズメイト ●東映怪人大図鑑 ●東映特撮大図鑑 ●スーパーヒロイン図鑑 ●ヒーロークラブシリーズ ●メモリアルシリーズ東映グループ外の作品[編集]
●ウルトラQ︵1982年VHS発売︶ ●愛・旅立ち︵1985年VHS発売︶ ●ウルトラセブン︵1986年VHS発売︶ ●ゲゲゲの女房︵2010年DVD発売︶ ●ミラーマン︵2011年DVD発売︶ ●ジャンボーグA︵2012年DVD発売︶ ●ファイヤーマン︵2012年DVD発売︶歴代オープニングロゴ[編集]
●ブルーバックまたは無地に東映ロゴと改行で﹁東映ビデオ株式会社﹂と表示。※1975-1982。 ●ブルーバックまたは無地に﹁TOEI Video﹂と表示︵初期は﹁TOEI﹂のみ"O"の部分が星、"E"は階段になっており、ロゴ自体が緑や赤のバージョンもあったが、1985年9月にマイナーチェンジされた︶。※1982-1989.9.。 ●ピラミッド型のものが光によってスペクトルを発し、三角形になったところに東映のロゴが合わさるように現れる。OVA作品の場合は、東映のロゴの下に金の光線が走り﹁V-CINEMA﹂や﹁Vアニメ﹂が現れる。※1989.10.-1990.9.。 ●クリスタルマウンテンの中をくくり抜けながら光っている方向へ向かっていき、発光と同時にクリスタルが砕けながら吹っ飛んでいきそこから東映のロゴが現れる。OVA作品の場合は、東映のロゴの下に﹁V-CINEMA﹂や﹁V-ANIME﹂などが合わさる。※1990.10.1-2004.4.20。 ●光ディスクが超高速で回転し、火花を散らしながら爆発し変化した三角形のディスクが東映のロゴになる︵ロゴの下に改行で﹁TOEI VIDEO﹂と表示。4:3または16:9︶。※2004.4.21-2009.3.25。 ●青いレーザービームによって東映のロゴが描かれる。※2009.4.15-現在。 ●筆線で無数の三角形が描かれ、重なり合うと同時に筆で描かれたような大波がかかり東映のロゴになる︵ロゴの下に﹁TOEI VIDEO COMPANY, LTD.﹂と表示︶※2013-現在。 このスタイルは、おことわり→視聴上のご注意→映像倫ロゴ︵OVA作品やPG12などのレイディング作品︶→タイトル︵映画作品は省略︶→新作案内→ディスクの取扱い映像︵アニメ・特撮作品のみ︶→オープニングロゴ→本編→ホームページ案内の順番である。 なお、VHSでは年代やレーベルそれぞれで異なっており、初期の映像では東映ビデオロゴ→おことわり→本編の順番だった。 一部の作品やOVA作品に至ってはオープニングロゴから始まり新作案内で終了するパターンや、おことわり→劇場の予告映像または新作案内→映像倫ロゴ︵OVA・レイディング作品︶→オープニングロゴ→本編→特典映像または関連プロモーション映像で終了するパターンもあった。 ポケモンショックが発生した1998年以降は、おことわり→視聴上のご注意→映像倫ロゴ︵OVA・レイディング作品︶→タイトル︵映画作品は省略︶→オープニングロゴ→本編→新作案内または特典映像︵無い場合もあり︶の順番だった。 2000年代以降は、おことわり→視聴上のご注意→ホームページ案内→映像倫ロゴ→タイトル︵映画作品は省略︶→オープニングロゴ→本編→新作案内または特典映像の順番だった。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 1965年10月16日設立。東映の所属俳優のレコードを出すことを目的に、東映企画本部芸能室を発展的に解消して設立された会社[9][10]。資本金200万円[11]。立ち上げ時の役員は、取締役社長・大川博、専務取締役・辻野力弥、取締役‥坪井与・岡田茂・今田智憲・斎藤亮男・片山清・神英彦・後藤田実夫・亀田耕司・児玉浩嗣、監査役・川口文雄・大川毅[10]。しかしレコード発売はすぐには実現せず[12]、ビクターとのタイアップによる第一号レコードの発売は1968年12月[12]。それまでは当時年二回やっていた東映歌舞伎をプロモートするだけの会社だった[13]。1968年8月31日の機構大改革で、今田智憲事業本部参与・常務取締役が東映芸能の取締役社長に左遷された︵取締役副社長・俊藤博、取締役・大川毅︶[13][14]。今田の就任で東映芸能は渡辺プロのような所属タレント︵俳優︶をマネジメントする芸能事務所的な会社となり[15][16]、東映専属スターの決裁権は東映芸能が持った[13][15]。今田は大川の懐刀とまでいわれた人だったが[17]、1970年1月に東映を辞め、ユニオン映画の設立に参加[17][18]。1973年8月、東映社長になった盟友・岡田茂に呼び戻され[7]、東映ビデオ社長として東映に復帰した[19][20]。東映芸能は今田退職後も社長を置かず。大川博が逝去後も社長は空席のまま[21]、岡田茂が会長として代表者になった[11][21]。﹃仮面ライダー﹄に始まる東映のキャラクターショーは1971年にこの東映芸能が始めた[22]。東映芸能は毎年2000万円の赤字を出していた[23]。
(二)^ 1972年11月7日設立。資本金500万円、本郷武郎社長[11]。岡田茂東映社長が1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷いて[23][24][25][26][27]、関連事業室を作った際、各部の高年齢層を集め、定款を変更してパチンコ屋や麻雀、その他各種風俗営業、サラ金業、ゲームセンター、葬祭業、喫茶店などをやるために作った会社で[23][25][28][29][30]、東映の多角経営をアピールするフラグシップのような会社であった[9][21][29]。
(三)^ 資本金700万円[11][31]。東盛商事の営業の一部、金銭貸付業は東映芸能の子会社として新設された東盛商事株式会社︵資本金300万円、相原芳男社長︶で営業した[11][21]。東映芸能株式会社は、代表取締役社長・岡田茂、代表取締役副社長・渡邊亮徳、常務取締役・相原芳男、取締役:児玉浩嗣、白浜汎城、浜田静亮、石田人士、後藤田実夫・鈴木常承、松香修、本郷武郎、監査役・大川毅・川口文雄[11][21]。この会社は東映芸能と東盛商事の仕事を合わせただけでビデオ関連の業務は行わない[11]。東映芸能も東盛商事もビデオとは直接は関係はなく、この二社が合併したのは、不採算部門の整理、赤字対策のためで東映ビデオとは関係がない[23][30][32]。
(四)^ 代表取締役社長・岡田茂[34]。東映芸能株式会社はビデオ事業を行わないため[11][21]、実質的に東映ビデオ株式会社と東映芸能株式会社をここで合併されたものと見られる。
(五)^ ODS先行上映が行われたライツキューブなどの他社制作のOV︵例‥日本のやくざ抗争史︶やOVA︵例‥文学少女メモワール︶で一部使用している。
(六)^ ユニオン映画発足時の記者会見で、テレビ映画や企業タイアップ映画の製作の他、ビデオ・カセット事業を足場に新しい情報企業体を目指すと発表された[48]。
(七)^ 2000年代に入るとDVDの売り上げが急増[63][64]。ビデオソフト市場は2004年に3721億6,000万円︵日本映像ソフト協会調べ︶を記録したのがピークで、以降は年々下降した[51][65]。配信が主流になった2010年代の状況を考えると﹁ビデオ5000億円産業﹂が達成される可能性は低い。アメリカは1990年代半ばにビデオの売り上げが約1兆円になったとされる[66]。
(八)^ 1973年5月30日、東映ビデオ株主総会で選任された新役員は以下の通り。代表取締役会長・岡田茂、代表取締社長・今田智憲、常務取締役・小林秀次、取締役・本田勝・畑種治郎・上田昶・池田治喜、監査役・大川毅・川口文雄[126]。
(九)^ 東北新社とスター・チャンネルは、後に2021年9月8日、ウォルト・ディズニー・ジャパンとの間でブランド・ライセンス契約を締結した[174]。
(十)^ 1995年のビデオ市場のシェアはポニー、ビクターエンタテインメントに次いで三位。四位タイム ワーナー エンターテイメント ジャパン、五位ブエナ ビスタ ジャパン[178]。1990年前後は東映Vシネマの大成功もあって東映ビデオは洋画メジャービデオ会社に唯一、対抗したが[66]、1990年代はディズニー映画や﹃ジュラシック・パーク﹄などの洋画アニメ、大作のレンタル・セルビデオ市場が拡大し[178][66]、有力な洋画ソフトを持たない東映ビデオはシェアを落とした[178][66]。1990年代後半はディズニーを持つブエナ・ビスタの一人勝ち状態になった[66]。
(11)^ LD版での協力は東映ビデオ株式会社である。
(12)^ マドンナが歌手デビュー前の18才時の1979年にコロンビア大学の学生によって撮影された[197]。スーパー8mmで撮られたカウンターカルチャー末期の典型的な映研映画[197]。日本での爆発的なマドンナ人気に目を付けた東映ビデオが買い取って、﹃マドンナin生贄﹄と日本語タイトルを付けてビデオ化し、1985年秋に日本でビデオ発売した[197]。マドンナの〇を少しだけ含む[197]︵TE-B812、60分、価格9800円︶[197]。
(13)^ 中東・カタールのBeINメディア・グループとの合弁。
(14)^ 2005年10月以前のディメンション・フィルムズ作品も含む。
(15)^ 米バイアコムCBS︵現・パラマウント・グローバル︶傘下の映画会社ミラマックス[注釈 13]の作品[注釈 14]が含まれていないため対象外。
出典[編集]
(一)^ abc東映ビデオ株式会社 第52期決算公告
(二)^ abcde東映ビデオ | 東映
(三)^ abcdef"東映ビデオ 会社概要". 東映ビデオ. 2019年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年10月30日閲覧。"沿革". 東映. 2019年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月18日閲覧。︵"数字で見る東映". 東映. 2019年10月30日閲覧。︶
(四)^ abcdefghijklmn検証日本ビデオソフト史5章 ハード機種混迷の中で 7. 8ミリフィルムとその後、日本映像ソフト協会︵インターネットアーカイブ︶
(五)^ abcdefghijklmnopqrst東映ミニヒストリー ビデオ将来のソフト不足を見抜きオリジナルビデオの先駆者となる、242頁。
(六)^ abcdefghijklmn年表 1970 ビデオ産業への進出苦難のなか黎明期を乗り越えていく 東映ビデオ(株)設立 映像産業の新分野へ積極的進出を図る、186–188頁。
(七)^ abcdefghijk今田智憲. “傍系会社の近況 東映ビデオ 今田東映ビデオ社長インタビュー ﹃きっとくる ホーム・シアター時代﹄8ミリのブームそして次にビデオ・ディスクの出現へ”. 社内報とうえい (東映株式会社) (1973年6月号 No.176): 17-20.
(八)^ abcdefghijklm""映倫"盗用ピンク商法 東映ビデオなど捜査 映画をブツ切り、転用". 毎日新聞夕刊. 毎日新聞社. 1972年10月3日. p. 8.
(九)^ ab“"東映レコード"近く具体化クラウンとの提携が有力”. 映画時報 (映画時報社) (1967年10月号): 28.
(十)^ ab“映画界の動き ﹃東映芸能KK﹄発足”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (1965年11月下旬号): 89.
(11)^ abcdefgh"東盛商事・東映芸能が合併 東映芸能株式会社名で発足". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1977年2月5日. p. 1.
(12)^ ab""吹き込み"も急ピッチ 東映レコード 発売のトップは藤 売り込みに映画の企画も". 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社. 1969年1月7日. p. 11.
(13)^ abc井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・キネマ旬報編集部. “映画・トピック・ジャーナル 東映大改造・今田智憲は傍系へ”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (1968年10月上旬号): 28-29.
(14)^ "東映画期的な機構大変革 映画・テレビ主体二軸の織込む 東映関連会社役員異動発令". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1968年9月7日. p. 5.
(15)^ ab“匿名座談会 日本映画復興のきざしは見えたが!!”. 映画時報 (映画時報社) (1968年10月号): 27.
(16)^ "28スターと専属契約 東映、宮園純子らとなお交渉中". 内外タイムス. 内外タイムス社. 1969年2月20日. p. 10.
(17)^ ab“ウの目タカの目 その後が気になる最後のカツドウ屋”. 週刊文春 (文藝春秋) (1970年2月23日号): 21.
(18)^ abcdef水川憲多朗ほか﹁映画界の動き VTR登場への思惑/短信/大川東映社長 映画界の情勢を語る﹂﹃キネマ旬報﹄1970年3月上旬号、キネマ旬報社、76-77頁。
(19)^ abc木村智哉﹁残された人びと : ﹁それ以降﹂の東映動画﹂﹃千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書﹄第305巻、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2016年3月、156-157頁、CRID 1050570022162118912、ISSN 1881-7165、NAID 120007088671。
(20)^ abcIR News サマリー/東映アニメーション株式会社
(21)^ abcdef“トピックス 東盛商事と東映芸能が合併”. 映画時報 (映画時報社) (1977年2月号): 30.
(22)^ 池田静雄︵東映映像事業部長︶ほか、聞く人・北浦馨﹁東映の特殊部隊 映像事業部の活躍﹂﹃映画時報﹄1983年8、9月号、映画時報社、4-18頁。
(23)^ abcd“匿名座談会 ヘンシンを余儀なくされる映画産業の構造 ゴルフ場経営まで総合レジャー会社に発展”. 映画時報 (映画時報社) (1972年11月号): 7-9.
(24)^ 組織機構を全面改正、412頁。
(25)^ ab“警戒警報の諸問題 安定ムードのなかの危機 邦画界の最新情報 岡田社長を先頭に年々業績が向上の"映画"の東映”. 映画時報 (映画時報社) (1973年10月号): 16.
(26)^ "東映機構改革と大巾人事異動 本部制から事業部制への移行". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1972年6月17日. p. 4.
(27)^ “今年こそ映画復興の決定的年度 四社よく奮励努力すべし 独自のマーケットと独自の観客層で堅実に進む東映”. 映画時報 (映画時報社) (1974年4月号): 12.
(28)^ ゲームセンターから葬祭業まで異色事業に躍進する東盛商事、59頁。
(29)^ ab49年の東映は激しく変貌する/岡田東映社長の5カ年東映を安定さすものは商魂だ...― 1973年11月、1976年12月、31-32、79-80頁。
(30)^ ab"東映傍系に東盛商事を設立 定款変更の現れ 既に積極化". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1972年11月11日. p. 4.
(31)^ “映画界重要日誌”. 映画年鑑 1978年版(映画産業団体連合会協賛) (時事映画通信社) (1977年12月1日発行): 9頁.
(32)^ 東映の岡田社長は、いま…野性的なたくましさで断固革新4― 1977年12月、87-100頁。
(33)^ abcdefg年表 1976 ビデオ時代の到来をにらみホームビデオシリーズ発売、250-251頁。
(34)^ abcd年表 ビデオ、66頁。
(35)^ abc年表 ビデオ/本社にビデオ事業部を新設、競争激化時代に対応、78頁。
(36)^ 日本の企業がわかる事典2014-2015﹃東映ビデオ﹄ - コトバンク
(37)^ “トップインタビュー/岡田裕介 東映︵株︶代表取締役社長 /東映60年史”. 月刊文化通信ジャーナル (文化通信社) 2011年3月号: 30.
(38)^ abcdef“東映・新重役登場 観光部長・内田雄行 ビデオ企画営業部長・小黒俊雄 勤労部長・渡辺繁信 宣伝部長・小野田啓”. AVジャーナル (文化通信社) (1990年8月号): 26-28.
(39)^ 岩本敏裕﹁VTR産業の生成 : 製品中核技術に焦点を当てた日本企業の競争優位﹂﹃アジア経営研究﹄第15巻、アジア経営学会、2009年、121-130頁、doi:10.20784/jamsjsaam.15.0_121、ISSN 13412205、CRID 1390001288106513536。
(40)^ abcSony History 第1章 ビデオもカセットに - Sony Japan、U-マチック - ソニーヒストリー
(41)^ "VTRビデオテープ・レコーダー家電各社﹃ねらえ!家庭売り込み次の花形と強気将来はカセット型もカラーテレビ需用頭打ち対策で". 東京タイムズ. 東京タイムズ社. 1969年2月7日. p. 2.
(42)^ ab“タウン ビデオ産業第一号﹃ポニー﹄の戦線縮小”. 週刊新潮 (新潮社) (1971年5月27日号): 19.
(43)^ abcdefghijklmnop萩野正昭︵レーザーディスク株式会社︶・筈見有弘︵映画評論家︶・福田千秋︵日本ビクター︶・山下勇︵東映芸能ビデオ︶・日野康一︵映画評論家︶. “ビデオNOW 特別座談会 PART1 ビデオ/ビデオ・ディスクの楽しさと可能性を語る”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (1982年2月上旬号): 112–118頁.
(44)^ abcdefg溝尻真也﹁ビデオテクノロジーの歴史的展開にみる技術 / 空間 / セクシュアリティ : 1970年代日本におけるビデオ受容空間とそのイメージの変遷﹂﹃愛知淑徳大学論集. メディアプロデュース学部篇﹄第2号、愛知淑徳大学メディアプロデュース学部、2012年3月、39-54頁、CRID 1050282677540705536、hdl:10638/5175、ISSN 2186-2265。
(45)^ ab70年代のビデオ戦争﹁ベータ 対 VHS﹂若い世代は﹁巻き戻しって何?﹂
(46)^ ab川村俊明﹁VTR産業技術史の考察と現存資料の状況﹂﹃国立科学博物館 技術の系統化調査報告﹄第1集、国立科学博物館 産業技術史資料情報センター、2001年、pp.18–19、20–22
(47)^ abcdefghij“"情報戦国時代"の目 五千億円のビデオ産業”. 週刊朝日 (朝日新聞社) (1970年5月1日号): 28–34頁.
(48)^ “ルックげいのう﹃波紋を投げたユニオンの意図﹄”. 週刊現代 (講談社) (1970年2月12日号): 30.
(49)^ abc日野康一(映像評論家). “ビデオソフト開拓史”. AVジャーナル (文化通信社) (2002年8月号): 66.
(50)^ abcdefghijkl対談 ポニー社長・石田達郎、電通常務・梅垣哲郎、東映常務・岡田茂 ﹃情報化社会の中の販売チャンネル 5千億スケールのビデオ産業 いち早くマーケットづくりに乗り出したポニーとピッタリ二番手につける東映、そして巨大な電通はなにを考えている― 1970年11月、335–342頁。
(51)^ abcdefgh日本映像ソフト協会40年の歩み
(52)^ abcdef“映画界東西南北談議 万博は果して映画に影響するか 映画も電波界のVTR対策に大童わ”. 映画時報 (映画時報社) (1970年2月号): 28–31頁.
(53)^ “映画界東西南北談議 映画界夏の陣”. 映画時報 (映画時報社) (1970年7月号): 31.
(54)^ ab東映ビデオ(株)設立、新たな映像メディア分野へ、50頁。
(55)^ ab“大川社長、映画産業の見通し語るビデオ・カセット、映画には影響小”. 映画時報 (映画時報社) (1970年2月号): 20.
(56)^ abc岡田茂︵東映・常務取締役映画本部長︶・渡邊亮徳︵東映・テレビ企画営業部長︶・神英彦︵東映・教育映画営業部長︶・小林秀次︵東映ビデオ・取締役営業部長︶・木島巳之助、聞く人・北浦馨. “多目的活躍を続ける東映映像産業の現況と新路線映”. 映画時報 (映画時報社) (1970年7月号): 8-21頁.
(57)^ abcdef経営内容向上の機をとらえて断行― 1989年7月、234–243頁。
(58)^ abc第6回シンポジゥム﹃研究開発と企業競争力﹄/ 大曽根収﹁VHS世界制覇への道﹂ 東洋大学経営力創成研究センター、2006年︵インターネットアーカイブ︶
(59)^ ab大隅秀夫. “特別企画/70年代をリードするSEX産業の展望 ﹃いま一番儲かっているスーパー産業 視聴覚SEX﹄”. 週刊ポスト (小学館) (1970年2月6日号): 58–63頁.
(60)^ カセット本番いよいよ登場 映画界への反響 観客動員変動は何年後?. 全国映画館新聞社. (1970年3月28日). p. 1.“ビジネスの目 "カラーTV以後"の本命やーい”. 週刊文春 (文藝春秋) (1970年9月28日号): 26.
(61)^ abcdefghi“東宝 大橋雄吉映像事業担当常務にきく 映像製作能力衰弱の認識があるなら”. AVジャーナル (文化通信社) (1991年3月号): 44–49頁.
(62)^ 原正人. “アルバムは語る 石田のお父さんと春雄さんと”. AVジャーナル (文化通信社) (1993年3月号): 111.
(63)^ “VIDEO&DVDシアター topic 昨年よりも大きくプラス成長を遂げたビデオ業界”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (2001年4月上旬号): 168.
(64)^ 豊崎岳彦. “TVウォッチャー怒れる若者たちが復活!?”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (2001年4月上旬号): 168.
(65)^ “04年ビデオソフト、DVDレンタル躍進売上3,271億6千万円の新記録”. 映画時報 (映画時報社) (2005年2月号): 15.
(66)^ abcde"ビデオソフト―ブエナ・ビスタ躍進2位(点検シェア攻防本社100品目調査)". 日経産業新聞. 日本経済新聞社. 1996年6月28日. p. 2.
(67)^ abcd“文化チャンネル 騒ぎすぎるビデオ・パッケージ産業”. 週刊朝日 (朝日新聞社) (1970年10月9日号): 104.
(68)^ 年表 ビデオ、50頁。
(69)^ abcd“タウン﹃一位はポルノ﹄ビデオ産業のオソマツな実態”. 週刊新潮 (新潮社) (1971年5月13日号): 17.
(70)^ abcdefghijk奥山融︵松竹取締役映画興行担当︶・川上流二︵東宝取締役・情報調査室・コンピューター室・ビデオカセット部担当︶・波多野三郎︵日本ヘラルド映画専務取締役︶、聞き手・北浦馨、鈴木岬一. “主導権の確率は可能か? ビデオ・カセット産業に喰い込む映画産業 果たしてビデオ・カセットは画期的な発明なんだろうか?”. 映画時報 (映画時報社) (1970年3月号): 12–25頁.
(71)^ "技術の系統化調査﹁LD︵レーザディスクシステム︶の開発、実用化に関する系統化調査﹂" (PDF). 国立科学博物館. p. 152. 2019年10月29日閲覧。
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(73)^ abcd“日本ビデオ協会、業務課長・上山淳氏に聞く﹃ビデオにおける日本映画の展望﹄”. シナリオ (日本シナリオ作家協会) (1988年5月号): 99–100頁.
(74)^ ab"各方面で考えている未来像カセットの諸問題映画館のはね返りは如何". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1970年2月7日. p. 1.
(75)^ ab“タウン 溺れる映画界の"ワラ" ビデオ・カセット”. 週刊新潮 (新潮社) (1970年2月7日号): 13.
(76)^ abc"東映、ビデオソフト直販、販売引き受け利益折版―大きく育った東映ビデオ。". 日経産業新聞. 日本経済新聞社. 1984年6月19日. p. 1.
(77)^ abcde“ニューズオブニューズ 東宝・松竹の不思議な提携仲よくなりました”. 週刊読売 (読売新聞社) (1970年2月7日号): 13.
(78)^ abcdefghi"東映ビデオ、ビデオソフトで攻勢―取次店を倍増の1万店へ、カメラ店などにも拡大。". 日経産業新聞. 日本経済新聞社. 1983年11月28日. p. 12.
(79)^ abcdef“帰ってきた!日本のセクスプロイテーション映画興亡史 番外編 発掘!日本映画の裏面史お色気と郷愁~温泉ポルノの世界 ﹃追跡!幻の東映ポルノビデオ﹄ 文・高鳥都”. 映画秘宝 (洋泉社) (2011年9月号): 83.
(80)^ ab“ビデオ活用例 観光バスにビデオカセット搭載 ―瀬戸観光自動車が乗客サービスに”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1972年5月号): 39.
(81)^ “ローカル情報 VTRや冷蔵庫積載の豪華な観光バスが登場︵静岡新聞︶/喫茶店もアイデア時代 ﹃退屈しない﹄と好評︵信濃毎日新聞︶”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年8月号): 44-45.
(82)^ abcd年表 ビデオ、54頁
(83)^ 岡田茂﹃悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年﹄財界研究所、2001年、149-150頁。ISBN 4879320161。
(84)^ ab“ビデオ球団ことしのベストオーダーは? ソフトリーグの巻 ポニー・東映芸能ビデオ・東宝・パックイン…”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1978年2月号): 14–17.
(85)^ “映画界東西南北談議 期待される来年の映画界...”. 映画時報 (映画時報社) (1977年11月号): 7–8頁.
(86)^ abcd“映画界東西南北談議 映画界にとって最悪の年の瀬 製作の縮小と労働攻勢の板ばさみ”. 映画時報 (映画時報社) (1971年11、12月号): 38.
(87)^ ab“三越がミニ映画館チェーン 座席50で本支店に豪華ムード”. 経営評論 (経営評論社) (1973年9月号): 19.
(88)^ ab“呼吸はピッタリ 二人の岡田茂氏”. 週刊文春 (文藝春秋) (1973年9月10日号): 24.
(89)^ “邦画マンスリー 洋画に大攻勢をかけた秋の大作戦線と、転換期を迎えた邦画界”. ロードショー (集英社) (1977年12月号): 189.
(90)^ “トピックス 三越映画進出の賑やかな周辺 ー社長同士が仲のいい東映とドッキングかー”. 実業界 (株式会社実業界) (1977年11月15日号): 19.
(91)^ “ビデオソフト作品目録”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1972年1月号): 94–108頁.
(92)^ “市販用プログラムの新作増える ―ポニーをはじめ、各社ぞくぞくと発売準備を開始”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年2月号): 16.
(93)^ ab“東映ビデオ、チャイルド社と提携製作”. 映画時報 (映画時報社) (1971年8月号): 18.
(94)^ abcdefgh"東映マンガまつりの本命 ﹃仮面ライダー﹄ビデオに". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1972年7月8日. p. 4.
(95)^ abcd“タウン ピンク・ビデオが主流だった"ビデオ祭"”. 週刊新潮 (新潮社) (1971年3月13日号): 19.
(96)^ abcd“今週のニュースポイント アベックに大好評のピンク映画”. 週刊平凡 (平凡出版) (1970年6月25日号): 51.
(97)^ abcdefghi“ニューズオブニューズ ポルノビデオも自主規制するゾ”. 週刊読売 (読売新聞社) (1972年3月18日号): 158.
(98)^ abcde“タウンエロ・残酷ビデオの大手初名乗り”. 週刊新潮 (新潮社]) (1970年5月23日号): 13.
(99)^ “タウン (秘)情報江古田﹃サウナ﹄のピンク・ビデオ”. 週刊新潮 (新潮社) (1972年11月18日号): 21.
(100)^ ab“タイムテープになる高倉の任侠映画”. 週刊平凡 (平凡出版) (1970年4月16日号): 471.
(101)^ ab"ビデオの自主規制懇談会が発足". 読売新聞夕刊. 読売新聞社. 1972年3月4日. p. 7.
(102)^ abcd"あんぐる 大学祭にもてるポルノ映画". 読売新聞夕刊. 読売新聞社. 1972年10月14日. p. 9.
(103)^ ab日活ロマンポルノ事件、映倫の歴史、125–128、225頁。
(104)^ abc“トピックス衣替えした"ビデ倫"の狙い”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1977年6月号): 10.
(105)^ "ビデ倫"繁盛記 アダルト1千億円?市場 年6千本、映倫の12倍 それでもはびこる裏ビデオ.... 中日新聞社. (2002年4月6日). p. 9.
(106)^ “ビデオ審査問題で映倫と話合い 映像審査能力など結論持越し”. 映画時報 (映画時報社) (1971年8月号): 17.
(107)^ ab 商標法違反などで書類送検 東映ビデオ事件. 読売新聞社. (1973年5月29日). p. 23.
(108)^ “ビジネス・ガイド東映ビデオ、47年度下期二割配当を予定”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1972年11月号): 59.
(109)^ abc“タウン箱根湯本の﹃8ミリ・ポルノ・撮影ツアー﹄”. 週刊新潮 (新潮社) (1986年12月16日号): 15.“タウン小田原署にマークされた東映8ミリ・ポルノ・ツアー”. 週刊新潮 (新潮社) (1986年12月16日号): 13.
(110)^ ab“LOOK 映画 ﹃実録・大映を作る東映の悪のり”. 週刊現代 (講談社) (1973年2月12日号): 43.
(111)^ abcde“ビジネス・ガイド”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1972年8月号): 60.
(112)^ abc“﹃8ミリは映像出版の尖兵だ﹄ =対談= 東宝事業部長・大橋雄吉×東映ビデオ常務・営業部長・小林秀次”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年10月号): 22–25.
(113)^ abcde今村三四夫 (1973年11月3日). "東映がフジフィルムと提携 東映8ミリ映画劇場の開発/今週の日記から". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. p. 1.
(114)^ abcdefgh“ホーム・シアター時代の幕開け ―﹃富士フィルム東映8ミリ映画劇場﹄がスタート”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年11月号): 15.
(115)^ ab“﹃腕白でもいい、たくましく行こう!﹄ トップインタビュー 東映社長・岡田茂 ききて・﹃財界﹄編集長・針木康雄”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年5、6月号): 27–28.
(116)^ abc岡田茂(代表取締役社長)・福中脩︵国際部長代理︶・布施建︵教育映画部企画部長︶・矢沢昭夫︵人事部次長︶・今井均︵宣伝部宣伝課長代理︶・青木洋一︵コンピューター部課長代理︶. “―今月のことば― "東映NN計画"︵東映全国事業網拡大計画︶/東映NN計画 "おはようございます"社長”. 社内報とうえい (東映株式会社) (1973年2月号 No.172): 2-11.
(117)^ abc家庭用ソフト﹃フジフィルム東映8ミリ映画劇場﹄発売、58頁。
(118)^ abcde“映画界東西南北談議 不況下にあけた75年の映画界 楽観は許されないがまずまずのスタート”. 映画時報 (映画時報社) (1975年1月号): 40.
(119)^ “ホーム・シアターの時代がやってくる!8ミリ・ブームは家庭ビデオの前ぶれか”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年10月号): 18–21.
(120)^ “富士=東映8ミリで初のモンロー作品を”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1976年11、12月号): 43.
(121)^ “ビジネス・ガイド 富士=東映8ミリ12BCR登場”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1977年7月号): 47.
(122)^ “東映、企業内境域シリーズ全20巻発売”. 映画時報 (映画時報社) (1977年2月号): 18.
(123)^ “広告 東映ビデオカセット・ホームユースシリーズ”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1977年1月号): 19.
(124)^ abcde“VM情報 春闘だ、人事異動だ、合理化だぁ―。 ことしも落ち着かない季節がやって来た 映画界・レコード界/ビジネスガイド 東映ビデオ、新社長に今田智憲氏が就任”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年4月号): 26–27、60頁.
(125)^ 増田弘道﹃デジタルが変えるアニメビジネス﹄NTT出版、2016年、20頁。ISBN 9784757123564。
(126)^ “ビジネスガイド 東映ビデオ会長岡田氏 常務に小林氏が就任”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1973年7月号): 59.
(127)^ “広告 東映の誇る現代史記録ビデオ”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1976年3月号): 51.
(128)^ 富士フイルムのあゆみ 放送用からホームビデオヘ - ビデオテープの躍進
(129)^ 岩本敏裕、﹁VTR産業の生成﹂﹃アジア経営研究﹄ 2009年15巻 p.121-130, doi:10.20784/jamsjsaam.15.0_121, アジア経営学会
(130)^ abcdefg中西義昭︵CBSソニービデオソフト事業部︶・萩野正昭︵レーザーディスク株式会社︶・日野康一︵映画評論家︶・福田千秋︵日本ビクター︶・山下勇︵東映芸能ビデオ︶. “ビデオNOW 特別篇・座談会 好きな映画を自分のものに! 躍進著しいビデオ産業の現状と展望を語る”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (1983年4月上旬号): 99–105頁.
(131)^ abcde小林啓志、﹁カラオケのマーケティング史 : パイオニアの事例を中心に﹂﹃同志社商学﹄ 2010年61巻6号 p.66–67, 同志社大学商学会
(132)^ “トピックス ビデオソフト・レンタルの1号店”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1977年4月号): 12.
(133)^ “ビデオ・レンタルショップ開店 日劇内に日本ビデオ協会が”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1977年7月号): 3.
(134)^ ab"東映ビデオが非劇場映画へ第一弾﹃口笛は青い空﹄". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1977年7月16日. p. 6.
(135)^ abcd“トピックス劇場用映画配給に乗り出す東映ビデオ”. 月刊ビデオ&ミュージック (東京映音) (1977年7月号): 10.
(136)^ 黒澤満、伊地智啓インタビュー/﹃アーツ﹄のアクションを生み出した東映セントラルフィルム、20–56頁。
(137)^ abcd荒井晴彦. “﹃松田優作とセントラル ストイックな本物の男だった。﹄ 黒澤満インタビュー”. 映画芸術 (編集プロダクション映芸) (1990年春 No359): 123–124頁.
(138)^ abセントラル・アーツ 起動40周年記念!︻初回生産限定︼ 遊戯シリーズ ... - 東映
(139)^ 一般社団法人映画産業団体連合会︵映画の日︶︵Internet Archive︶
(140)^ “映画界の動き 短信”. キネマ旬報 (キネマ旬報社) (1978年1月下旬号): 190.
(141)^ 岡田流、東映映画のつくり方、215頁。
(142)^ abcセントラル・アーツフィルモグラフィ、372–445頁。
(143)^ abcdefg“小黒俊雄東映取締役、カラオケ﹃ビーマックス﹄を語る 通信カラオケ、2年遅れを取ったが”. AVジャーナル (文化通信社) (1995年5月号): 24–28頁.
(144)^ abcdefghijklmnopqr"︻戦後史開封︼(122) カラオケ(4) ビデオ不振から生まれた﹃映像付き﹄". 産経新聞. 産業経済新聞社. 1994年7月15日. p. 朝刊特集.
(145)^ abcdefgh松村純孝﹁LD︵レーザディスクシステム︶の開発、実用化に関する系統化調査﹂﹃国立科学博物館技術の系統化調査報告﹄第21集、2014年、p.145、pp.202–203
(146)^ abcd"東映芸能ビデオの開発業務 カラオケビデオを二月発売". 週刊映画ニュース. 全国映画館新聞社. 1980年2月2日. p. 1.
(147)^ abcde“新発売 東映芸能ビデオからカラオケディスクが新登場”. 映画時報 (映画時報社) (1982年9、10月号): 37.
(148)^ カラオケ歴史館 ~ カラオケと共に歩んだ三洋商会
(149)^ abcd鍛冶博之、﹁カラオケの商品史(1)﹂ ﹃社会科学﹄ 2010年40巻3号 p.49-80, 同志社大学人文科学研究所
(150)^ 東映カラオケビデオ自動選曲システムを発売、70頁。
(151)^ abcdef"映画会社活路を探る(下)出番多いイベント、演出協力・ビデオで多角化。". 日経産業新聞. 日本経済新聞社. 1987年12月18日. p. 4.
(152)^ ビデオディスク市場に初参入、レーザーカラオケも登場、74頁。
(153)^ "パイオニア社長松本誠也氏―動物的な勘が働く(ネットワーク)". 日経産業新聞. 日本経済新聞社. 1988年4月30日. p. 3.
(154)^ "ウチの出番ですよ―東映社長岡田茂氏(回転イス)". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 1983年3月27日. p. 4.
(155)^ ﹁うわさの真相 ﹃相次ぐスキャンダルに遭遇 スカイコーポが危機状況へ 森下愛子や竹田かおり脱出﹄﹂﹃噂の眞相﹄1981年10月号、噂の眞相、9頁。
(156)^ ab“枠外情報”. シティロード (エコー企画) (1981年9月号): 19.
(157)^ abcdef“タウン ポルノビデオの高笑い”. 週刊新潮 (新潮社) (1982年2月4日号): 13.
(158)^ ab“乱戦で5万円台も登場! ﹃ビデオ購入(得)﹄”. 週刊サンケイ (産業経済新聞社) (1985年3月21日号): 30-33.
(159)^ ab"日本コロムビアと東映芸能ビデオ、ビデオソフトで販売提携". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 1982年11月2日. p. 11.
(160)^ ab“いまファンタジー・ビデオの女王なんだって…由美かおる”. 週刊平凡 (平凡出版) (1983年9月15日号): 40-41.
(161)^ "東映ビデオ、角川事務所と販売提携ーまず﹃里見八犬伝﹄のビデオソフトを発売。". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 1983年11月9日. p. 5.
(162)^ ab"東映の﹃里見八犬伝﹄、映画、ビデオでも大成功". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 1984年2月28日. p. 15.
(163)^ abcノーといえ、説得できる男が要る― 1984年2月、186–187頁。
(164)^ ab"ひろ子人気、ビデオでも実証ー東映ビデオ、﹃里見八犬伝﹄販売4万本超す。". 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 1983年12月23日. p. 5.
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(181)^ 25th Anniversary 東映Vシネ伝説(東映ビデオ)︵Internet Archive︶
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(183)^ Vシネマ誕生から25年 その歴史と扱われやすいテーマを解説
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