宜昌作戦
宜昌作戦 | |
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漢水右岸を進撃中の歩兵第18連隊。5月31日の渡河後、第3師団は翌日1日に襄陽を陥れてから南の宜昌へと進んだ。 | |
戦争:日中戦争 | |
年月日:1940年(昭和15年)5月1日 - 6月24日 | |
場所:湖北省西部 棗陽・宜昌周辺 | |
結果:日本軍の勝利、宜昌の占領 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | 中華民国 |
指導者・指揮官 | |
園部和一郎 | 李宗仁 張自忠 † 陳誠 |
戦力 | |
4個師団ほか | 約350,000人 |
損害 | |
戦死:1,403[1] 戦傷:4,639[1]
戦傷:約3万人以上 戦死:詳細は不明。[2] |
遺棄死体:63,127 捕虜:4,797 |
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背景[編集]
1940年︵昭和15年︶初頭、前年末から中国軍の冬季攻勢を受けた第11軍は、すぐさま宜昌方面に対する一大反撃作戦を企図して支那派遣軍と計画を推し進めていた。ここで宜昌が選ばれたのは、李宗仁麾下の第5戦区軍に対して痛撃を加えることのほかに、対ソ連軍備︵関東軍︶充実を目的とする支那派遣軍︵約85万︶兵力削減のために進められていた重慶政府との和平工作︵桐工作など︶を促進する必要性から、重慶に直接迫って圧力を加えるという戦略上のねらいがあったからである。宜昌は重慶まで約480キロと最も近く、揚子江を遡江する外航船もここまでは自由に出入りできる表玄関であり、交通路の要衝でもあった。また、海軍も重慶爆撃の中継地として宜昌を確保するよう陸軍に働きかけていた。 兵力削減計画を進める陸軍中央部もこの作戦の必要性を認めたため、4月10日、大本営は宜昌作戦の実行を発令した。しかし、この命令には宜昌の占領確保は含まれていなかった。宜昌を永久確保するかどうかは計画の段階でも問題となっていたが、兵力増強が望めない現状では新たな占領地を維持する余裕は無いとして、作戦後は原駐地へ反転帰還することになっていた。また、大本営命令の上奏の際、昭和天皇から﹁宜昌のごときはできるならば手をつけるな﹂とのお言葉があったと伝えられ、支那派遣軍首脳部はこれを﹁御内示﹂であると深刻に受けとめていた。 冬季攻勢によって勢い付いた中国軍は、次期反攻のための第3期整訓で新たに80個師の編成充実を図り、その完了は6~8月ごろとみられていた。また、日本軍の進攻の企図を早期に察知し、第5戦区軍は頻繁に部隊の配置移動を行なって防備の強化に努めていた[3][4]。参加兵力[編集]
日本軍[編集]
●第11軍 - 軍司令官‥園部和一郎中将 ︵歩兵49~54個大隊。最終的に約8万人︶ ●第3師団、第13師団、第39師団 ●石本支隊 ︵第40師団の歩兵4個大隊基幹、後に第40師団本隊も増援として到着︶ ●池田支隊 ︵第6師団の歩兵3個大隊基幹︶ ●小川支隊 ︵第34師団の歩兵2個大隊基幹︶ ●吉田支隊 ︵歩兵1個大隊、重砲・高射砲連隊などの混成︶ほか。 ●軍直轄部隊 - 軍戦車団︵戦車第7連隊、戦車第13連隊︶、野戦重砲兵第6旅団ほか。 ●第13軍などからの増援 ●倉橋支隊 ︵第15師団の歩兵4個大隊基幹︶ ●松井支隊 ︵第22師団の歩兵3個大隊基幹。第2期作戦で増援︶ ●漢水支隊 ︵第17碇泊場司令部基幹︶ ●協力部隊 - 第3飛行団、第1遣支艦隊、第2連合航空隊中国軍[編集]
●第5戦区 - 司令長官‥李宗仁上将 総兵力‥約50個師︵約35万人︶ ●第2集団軍 - 総司令‥孫連仲 ︵第30軍、第68軍︶ ●第11集団軍 - 総司令‥黄琪翔 ︵第84軍、第92軍︶ ●第22集団軍 - 総司令‥孫震 ︵第41軍、第45軍︶ ●第29集団軍 - 総司令‥王纉緒 ︵第44軍、第67軍︶ ●第31集団軍 - 総司令‥湯恩伯 ︵第13軍、第85軍︶ ●第33集団軍 - 総司令‥張自忠 ︵第37軍、第55軍、第77軍︶ほか。 ●第6戦区 - 司令長官‥陳誠上将 宜昌作戦中の6月に復活設置。経過[編集]
第1期作戦︵漢水東岸︶[編集]
5月1日から4日にかけて日本軍の各兵団は進撃を開始、漢水支流の唐白河︵中文︶河畔で包囲態勢をとることを目指して急進した。第3師団は泌陽、沘源を第39師団は棗陽をそれぞれ攻略し、10日ごろまでに各兵団は唐河・白河流域まで進出したが、中国軍は日本軍の進路の側方へ退避し終わっていた。ここまでの経過は、丁度1年前に行われた襄東会戦[5]とほぼ同様の経過で戦われ、その際にはここで反転帰還していた。5月8日、日本軍は﹁第1期作戦の目的達成﹂として第2期作戦の準備に取り掛かった。中国軍の反撃[編集]
白河渡河戦[編集]
作戦続行の可否[編集]
今回の作戦は、もともと冬季攻勢に対する反撃作戦であり、中国軍を破砕できれば足りるものであった。園部軍司令官を始めとする第11軍司令部の幕僚たちの一部は﹁作戦の打ち切り﹂を考え、第2期作戦の実行を躊躇していた。5月23日、作戦続行の可否について協議が行われ、参謀長や兵站関係の参謀たちは打ち切りを主張した。その主張は、﹁部隊は炎天下の機動戦に疲労困憊しており、大本営が占領を認めていない宜昌まで行く必要はない﹂というものであった。これに対し積極派の作戦参謀たちは、﹁ここまでの戦果に満足して作戦を中止しては、第11軍の統率上の権威︵上下の信頼︶が失われてしてしまう﹂として強硬に反対した。結局意見は積極論に一致し、作戦続行が決定され第2期作戦に踏み切った[14]。第2期作戦︵漢水西岸︶[編集]
宜昌再占領問題[編集]
支那派遣軍総司令部では一部で﹁宜昌確保﹂の意見が現れていたが、中央部の進める兵力削減問題から第11軍に対して新たな兵力を増強させることはできず、6月17日、日本軍は計画通り宜昌からの反転帰還することになった。 そのころ、東京の参謀本部ではヨーロッパ戦線における激動が大きく影響を与え︵6月11日のイタリア参戦、12日のパリ陥落など︶、南進論の沸騰や、事変の早期解決の積極論が高調していた。そして、重慶政府に与える影響の大きさから宜昌保持の要望も急速に広まっていたのである。6月15日、軍令部総長が上奏の際に、重慶爆撃の中継地として宜昌が大きな価値を持つことを言及すると﹁陸軍は宜昌はなんとかならないのか﹂との御下問があった。ここで参謀本部の態度は宜昌確保に一致決定され、翌日確保命令が出された。 命令は即座に宜昌から反転帰還中の前線部隊へ伝達された。前夜から反転を始めていた第3、第13師団は、命令を撤回して宜昌の再占領に向かった。一方、中国軍は宜昌から反転していく日本軍をみて、陳誠指揮の下に一斉に宜昌へ進出しつつあり、そこへ再び反転してきた日本軍との間で激戦が展開された。6月24日になってようやく日本軍は市街の掃討を完了させた[16]。結果[編集]
再び宜昌を占領した日本軍ではあったが、反転の際の破壊命令に従って鹵獲した物資︵兵器・弾薬・ガソリンなど︶の大半を焼却または揚子江に投棄してしまっていた。また将来利用できたであろう兵舎や橋梁、通信設備︵電柱など︶も徹底的に破壊していたため、その後駐屯する日本軍部隊は苦労することになった。 大本営は、占領地域の広がった第11軍に対して第4師団を満州から転用させてその戦力に加えた。 この作戦での総合戦果︵6月24日まで︶は、交戦敵兵力約35万人、遺棄死体63,127、捕虜4,797人、鹵獲品は野砲11、山砲12、機関砲2、迫撃砲53その他多数が報告された。日本軍の損害は、戦死1,403人、戦傷4,639人であった。 本作戦で第5戦区軍に与えた精神的・物質的な打撃は甚大であると見られた。重慶では日本軍の重慶進攻の噂が流れ、国民政府内部での抗戦・和平派の分裂が激化するなど動揺が拡がった。蔣介石総統が抗戦8年間に最も危機を感じたのは、この宜昌作戦の時であったと言われる[17]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1975年。
- 金森千秋 『華中第一線』 叢文社、1977年。
- 菊池一隆 『中国抗日軍事史』 有志舎、2009年。
- Axis History Forum, Re: Tsaoyang-Yichang Campaign Eary May - Late June 1940 (英語) (宜昌作戦の経過概要図あり)
関連項目[編集]
- en:Order_of_Battle:_Battle_of_Zaoyang-Yichang (英語) - 宜昌作戦戦闘序列
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