小島伸幸
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名前 | ||||||
愛称 | ノブさん | |||||
カタカナ | コジマ ノブユキ | |||||
ラテン文字 | KOJIMA Nobuyuki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1966年1月17日(58歳) | |||||
出身地 | 群馬県前橋市 | |||||
身長 | 187cm | |||||
体重 | 85kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右 | |||||
ユース | ||||||
同志社大学 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1988-1993 | フジタ | 14 | (0) | |||
1994-1998 | ベルマーレ平塚 | 172 | (0) | |||
1999-2001 | アビスパ福岡 | 68 | (0) | |||
2002-2005 | ザスパ草津 | 67 | (0) | |||
代表歴2 | ||||||
1995-1998 | 日本 | 4 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2005年12月31日現在。 2. 1996年2月19日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
小島 伸幸︵こじま のぶゆき、1966年1月17日 - ︶は、群馬県前橋市出身の元サッカー選手、サッカー指導者︵JFA 公認S級コーチ︶。ポジションはゴールキーパー︵GK︶。同志社大学商学部卒業。サッカー解説者、アドバイザーとしても活動している。
来歴[編集]
小学4年生の時にサッカーと出会い、小学5年生から本格的にサッカーを始める。新島学園高等学校時代にGKに転向した[1]。同志社大学を経て、1988年に日本サッカーリーグのフジタ︵後のベルマーレ平塚、現湘南ベルマーレ︶に加入。フジタ時代は古島清人の控えに甘んじたが、ベルマーレ平塚となりJリーグ昇格1年目の1994年、不調の古島に代わる形で試合に出場し、正GKとして定着した。第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会では決勝でセレッソ大阪を破っての優勝に貢献した。また、Jリーグ入り後も社員選手であったが、1995年1月24日にプロ契約を結んだ。1995年7月にはJリーグオールスターサッカーに先発出場した[2]。12月にはアジアカップウィナーズカップも制した。 1995年に日本代表に選出、6月6日、アンブロ・カップのブラジル戦で初出場を果たし、3失点はしたものの、好守を連発して失点を最低限に抑えた[3]。この試合では接触プレーで左手小指を痛めた︵一部では﹁ロベルト・カルロスのシュートで骨折した﹂という噂が出回っているが、本人が否定している︶。1996年のカールスバーグカップ、ポーランド代表との試合に出場したのが代表での最後のプレーとなった。以降も代表入りし、1998 FIFAワールドカップには第3GKとしてメンバーに選出され、最年長として、ムードメーカーとしてチームを引っ張ったが、出場機会を得ることは無かった。 1998年末、ベルマーレ親会社の経営不振による主力総放出により、1999年にはアビスパ福岡へ移籍。同年のJリーグオールスターサッカーに出場した。2001年限りで福岡を退団した後、Jリーグでのプレー続行を模索しFC東京のテストを受けたが若手GK[注 1] との一騎打ちに敗れた[4]。 2002年、群馬県社会人サッカーリーグ1部のザスパ草津︵現‥ザスパクサツ群馬︶へ移籍、選手兼コーチとしてプレー[4]、JFLへの昇格がかかる地域リーグ決勝大会では、再三の好セーブするなどJFL昇格に貢献、2004年にはJ2昇格に貢献した[5]。2005年11月にはJ2最年長出場記録を更新。2006年1月24日に現役引退を発表した。2005年12月3日の札幌戦が現役最後の試合となった。 現役引退後は群馬のアドバイザースタッフとして普及活動を続ける一方で、2008年より日本大学サッカー部コーチに就任。またサッカー解説業︵主としてNHK衛星放送の中継、他にはスカパー!などにも出演︶も行っている。柔和な語り口には人柄︵次項参照︶が滲み出ており、好評である。同年4月にはJFAアンバサダーにも選ばれた。資産運用として人気を集めるFXにチャレンジしブログを書いている。 2015年7月23日、アルテリーヴォ和歌山のアドバイザーに就任。2019年12月25日、ザスパクサツ群馬トップチームのGKコーチに就任した[6]。2021年12月16日、退任が発表された[7]。人物[編集]
●日本代表の試合ではロベルト・カルロスのブラジル代表としての初ゴール[8]、Jリーグでは中村俊輔のJリーグ初ゴール[9]。エドゥー・マランゴンの有名な40メートルからのFKでのゴール、ジーコ現役最後のFKからのゴール、エムボマの有名なボレーシュートなど[10]、伝説に残るような得点を決められている[11]。 ●GK出身者としては初のJFAアンバサダーに任命されている。 ●Jリーグ中継時の解説では、自らの経験を生かしたGKとしての分析が多い。これまでの解説者にGK出身者は数少なかった︵他には瀬田竜彦や田口光久、加藤好男など少数のみ。)所属クラブ[編集]
●1978年 - 1980年 新島学園中学校 ●1981年 - 1983年 新島学園高校 ●1984年 - 1987年 同志社大学 ●1988年 - 1998年 フジタ / ベルマーレ平塚 ●1999年 - 2001年 アビスパ福岡 ●2002年 - 2005年 ザスパ草津個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1988-89 | フジタ | 21 | JSL1部 | 5 | 0 | 5 | 0 | ||||
1989-90 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | |||||
1990-91 | JSL2部 | 2 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | ||||
1991-92 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||||
1992 | 旧JFL1部 | 0 | 0 | - | |||||||
1993 | 0 | 0 | - | ||||||||
1994 | 平塚 | - | J | 41 | 0 | 1 | 0 | 42 | 0 | ||
1995 | 47 | 0 | - | 47 | 0 | ||||||
1996 | 29 | 0 | 15 | 0 | 44 | 0 | |||||
1997 | 1 | 21 | 0 | 0 | 0 | 21 | 0 | ||||
1998 | 34 | 0 | 0 | 0 | 34 | 0 | |||||
1999 | 福岡 | 30 | J1 | 29 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 35 | 0 |
2000 | 1 | 30 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 33 | 0 | ||
2001 | 8 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | |||
2002 | 草津 | 22 | 群馬県1部 | 6 | 0 | - | - | 6 | 0 | ||
2003 | 関東2部 | 12 | 0 | - | 1 | 0 | 13 | 0 | |||
2004 | JFL | 26 | 0 | - | 5 | 0 | 31 | 0 | |||
2005 | J2 | 23 | 0 | - | 1 | 0 | 24 | 0 | |||
通算 | 日本 | J1 | 239 | 0 | 23 | 0 | |||||
日本 | J2 | 23 | 0 | - | 1 | 0 | 24 | 0 | |||
日本 | JSL1部 | 12 | 0 | ||||||||
日本 | JSL2部 | 2 | 0 | 1 | 0 | ||||||
日本 | 旧JFL1部 | 0 | 0 | - | |||||||
日本 | JFL | 26 | 0 | - | 5 | 0 | 31 | 0 | |||
日本 | 関東2部 | 12 | 0 | - | 1 | 0 | 13 | 0 | |||
日本 | 群馬県1部 | 6 | 0 | - | - | 6 | 0 | ||||
総通算 | 320 | 0 |
その他の出場
- 1995年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグオールスターサッカー選出 : 3回 (1995, 1999, 2000,)
代表歴[編集]
出場大会など[編集]
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 4試合 0得点 (1995年-1998年)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1995 | 3 | 0 |
1996 | 1 | 0 |
1997 | 0 | 0 |
1998 | 0 | 0 |
通算 | 4 | 0 |
タイトル[編集]
- フジタ
- ベルマーレ平塚
- 天皇杯 : 1995
- アジアカップウィナーズカップ : 1995
- ザスパ草津
- 関東サッカーリーグ : 2003
- 群馬県社会人サッカーリーグ : 2002
- 全国地域サッカーチャンピオンズリーグ : 2003
- 群馬県サッカー協会長杯サッカー大会 : 2003
- 個人
- 日本フットボールリーグベストイレブン : 2004
- 日本フットボールリーグ敢闘賞 : 2004
- Jリーグ功労選手賞 : 2006
指導歴[編集]
- 2002年 - 2004年 ザスパ草津コーチ(選手兼任)
- 2008年 - 2019年 日本大学サッカー部 コーチ
- 2020年 - 2021年 ザスパクサツ群馬 GKコーチ
脚注[編集]
- 注釈
- 出典
(一)^ “︻スペシャルインタビュー Vol.12︼ザスパ草津‥小島伸幸選手”. J's GOAL (2005年9月8日). 2007年5月26日閲覧。
(二)^ “Jリーグオールスターサッカー 1995”. 2024年4月12日閲覧。
(三)^ 週刊サッカーマガジン 1995年6月28日 P13-19
(四)^ ab﹁不屈の復活 茨の軌跡 2005︵3・下︶ザスパ草津GK兼コーチ 小島伸幸さん︵39︶がけっぷちの必死さ﹃戦力外﹄からJ昇格 先発果たした最年長 現役にこだわりたい﹂﹃中日新聞﹄2005年5月21日 朝刊 長野総合23頁
(五)^ “﹁夢を2人でもう一度…﹂ 元日本代表GK小島伸幸、54歳でJクラブコーチ初挑戦の理由”. FOOTBALL ZONE (2020年2月23日). 2024年3月30日閲覧。
(六)^ ﹃︻トップチーム︼小島 伸幸氏 トップチーム G Kコーチ就任のお知らせ﹄︵プレスリリース︶ザスパクサツ群馬、2019年12月25日。2019年12月25日閲覧。
(七)^ ﹃小島伸幸GKコーチ 退任のお知らせせ﹄︵プレスリリース︶ザスパクサツ群馬、2021年12月16日。2021年12月28日閲覧。
(八)^ “EXCLUSIVE: Revealed... how Brazil legend Roberto Carlos came close to signing for Birmingham”. Daily Mail. 2024年3月1日閲覧。
(九)^ “引退試合でダブルハットトリック 中村俊輔が最後までこだわり続けた﹁三ツ沢﹂と﹁フリーキック﹂”. 日本放送オンラインニュース (2023年12月20日). 2024年3月15日閲覧。
(十)^ “かつてJリーグにいた﹁浪速の黒豹﹂パトリック・エムボマ。今でも記憶に残っている日本人選手とは?”. Web Sportiva. 2024年3月1日閲覧。
(11)^ “元日本代表GK小島伸幸氏に聞いた。自身が決められたこれはやられたスーパーゴール”. Jリーグ. 2024年3月1日閲覧。
外部リンク[編集]
- 小島伸幸 - National-Football-Teams.com (英語)
- 小島伸幸 - Soccerway.com (英語)
- 小島伸幸 - FootballDatabase.eu (英語)
- 小島伸幸 - WorldFootball.net (英語)
- 小島伸幸 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 小島伸幸 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- 小島伸幸 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 小島伸幸 - J.League Data Siteによる選手データ
- 小島伸幸 - TheFinalBall.com (英語)
日本代表 - 出場大会 |
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