小藤恵
生誕 |
1888年7月25日 大日本帝国 高知県 |
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死没 | 1943年10月25日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 陸軍少将 |
墓所 | 青山霊園 |
小藤 恵︵こふじ さとし[1][注 1]、1888年︵明治21年︶7月25日[1][2] - 1943年︵昭和18年︶10月25日[1][2]︶は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。陸軍中将久納誠一︵18期︶は義兄弟、陸軍中佐高木作之︵45期︶は久納の娘婿にあたる。
経歴[編集]
高知県出身[1][2][3]。陸軍少佐小藤亨三の長男として生まれる[1]。東京府立第一中学校︵現東京都立日比谷高等学校︶、東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1908年︵明治41年︶5月、陸軍士官学校︵20期︶を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第1連隊付となった[1][4]。1919年︵大正8年︶11月、陸軍大学校︵31期︶を卒業した[1][2][3]。 1920年︵大正9年︶4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付︵チリー出張︶、チリー公使館付武官を務め、1923年︵大正12年︶8月、歩兵少佐に昇進[1]。1925年︵大正14年︶5月、近衛歩兵第4連隊大隊長に就任し、参謀本部員、兼軍令部参謀︵1926年11月-1929年3月︶を務め、1928年︵昭和3年︶8月、歩兵中佐に進む[1]。1929年︵昭和4年︶3月、陸大教官に転じ、1932年︵昭和7年︶4月、歩兵大佐に昇進[1][3]。陸軍省人事局補任課長を経て、1935年︵昭和10年︶8月、歩兵第1連隊長に就任[1][2][3]。二・二六事件により、1936年︵昭和11年︶3月に待命となり、同年7月、予備役に編入された[1][2][3]。 日中戦争勃発により、1937年︵昭和12年︶9月に召集され第18師団参謀長に発令されて出征[1][2][3]。南京戦、広東作戦などに参戦[2]。1938年︵昭和13年︶12月に召集解除となった[1]。1939年︵昭和14年︶2月、臨時召集となり参謀本部付︵支那事変史編纂委員︶に就任し、同年7月、予備役陸軍少将に進級[1][2][3]。1941年︵昭和16年︶3月、支那事変史編纂委員長となるが、1943年10月に死去した[1]。栄典[編集]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正八位[5]
- 1912年(明治45年)3月1日 - 従七位[6]
- 1917年(大正6年)3月20日 - 正七位[7]
- 1922年(大正11年)4月20日 - 従六位[8]
- 1927年(昭和2年)5月16日 - 正六位[9]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』258頁では「めぐむ」。
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本陸海軍総合事典』第2版、65頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』313-314頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』258頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』251、258頁。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第8608号「叙任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第1389号「叙任及辞令」1917年3月22日。
- ^ 『官報』第2913号「叙任及辞令」1922年4月21日。
- ^ 『官報』第151号「叙任及辞令」1927年7月1日。
参考文献[編集]
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。