山田高塚古墳
山田高塚古墳 | |
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墳丘全景 | |
別名 | 高松古墳 |
所属 | 磯長谷古墳群 |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町大字山田 |
位置 | 北緯34度30分42.83秒 東経135度38分58.44秒 / 北緯34.5118972度 東経135.6495667度座標: 北緯34度30分42.83秒 東経135度38分58.44秒 / 北緯34.5118972度 東経135.6495667度 |
形状 | 方墳(または長方形墳) |
規模 |
東西59m×南北55m 高さ11m |
埋葬施設 | (推定)横穴式石室2基 |
被葬者 | (宮内庁治定)第33代推古天皇・竹田皇子 |
陵墓 | 宮内庁治定「磯長山田陵」・「竹田皇子墓」 |
地図 |
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山田高塚古墳︵やまだたかつかこふん、高松古墳<たかまつこふん>[1]︶は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳。形状は方墳︵または長方形墳︶。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により﹁磯長山田陵︵しながのやまだのみささぎ︶﹂および﹁竹田皇子墓︵たけだのみこのはか︶﹂として第33代推古天皇・竹田皇子︵敏達天皇皇子︶の合葬陵墓に治定されている。
概要[ソースを編集]
大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、金剛山地から伸びる台地状丘陵の西端部に築造された古墳である[1][2]。江戸時代の修陵で大規模な改変が加えられているほか[1][3]、現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるが、これまでに宮内庁書陵部による調査等が実施されている[2]。 墳丘は3段築成[3]。1段目は正方形、3段目は長方形であるが、1段目形状には後世の改変可能性が指摘される[3]。墳丘外表では貼石が認められるが、埴輪は無いとされる[3]。埋葬施設は明らかでないが、東西に長い墳丘の特徴から、横穴式石室2基が東西に並び、いずれも南方に開口したと推定される[2]。古書ではいずれかの石室内部における石棺2基の存在が記述されている[2][3]。 被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第33代推古天皇︵628年崩御︶および子の竹田皇子︵崩御年不詳︶の合葬陵墓に治定されている[4]。磯長谷では、長方形墳または双方墳の形式として二子塚古墳︵太子町山田︶や葉室塚古墳︵太子町葉室︶が知られ、石室2基の点や墳丘比率の点で共通性が指摘される[5]。また磯長谷では推古天皇陵のほか敏達・用明・孝徳天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは﹁梅鉢御陵﹂と総称される。遺跡歴[ソースを編集]
●康平3年︵1060年︶、﹁推古天皇山陵﹂で盗掘︵﹃扶桑略記﹄[原 1]︶[4]。 ●1979年︵昭和54年︶、境界の石垣設置工事に伴う調査︵宮内庁書陵部︶[4]。 ●1989年度︵平成元年度︶、墳丘外表調査︵宮内庁書陵部︶[2]。 ●2012年︵平成24年︶2月23日、考古・歴史学会代表による立ち入り調査[6]。構造[ソースを編集]
山田高塚古墳の航空写真
(1985年度)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
(1985年度)
3段築成の墳丘のうち、1段目は東西59メートル・南北55メートルとほぼ正方形であるが、3段目は東西34メートル・南北25メートルと東西に長い長方形であり、かつ3段目は相当な急斜面をなす[3]。墳丘全体の高さは11メートルを測る[3]。特に1段目のプランは春日向山古墳︵用明天皇陵︶と同一になるため、江戸時代の修陵の際に春日向山古墳に則って改変されたと見られ、元は1段目も東西に長い長方形であった可能性が指摘される[3]。
墳丘南側には前庭部状の平坦地があり、それを含めた陵域全体は東西75メートル・南北72メートルを測る[3]。また墳丘東側・前面には空堀︵幅8-9メートル︶が認められるが、1979年︵昭和54年︶の調査によればその堤は後世に水田上に造作されたものとされる[4]。
被葬者[ソースを編集]
山田高塚古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第33代推古天皇および子の竹田皇子︵たけだのみこ︶の合葬陵墓に治定している[7][8][4][9]。推古天皇について、﹃日本書紀﹄では推古天皇36年︵628年︶3月[原 2]に崩御したとし、同年9月[原 3]に遺詔により﹁竹田皇子之陵﹂に葬ったとするが、所在地・陵名に関する記載は無い[4][1][3]。一方で﹃古事記﹄では、﹁御陵在大野岡上、後遷科長大陵也﹂として﹁大野岡上﹂から﹁科長大陵﹂への改葬の旨が見えるが、こちらには竹田皇子との合葬に関する記載は無い[4]。﹃延喜式﹄諸陵寮[原 4]では、推古天皇陵は遠陵の﹁磯長山田陵﹂として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北2町で陵戸1烟・守戸4烟を毎年あてるとする[4][1]。また﹃扶桑略記﹄[原 1]によれば、康平3年︵1060年︶に﹁推古天皇山陵﹂で盗掘があったという[4]。 その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している[4]。また古書では、横穴式石室︵いずれの石室か不明︶の内部には石棺2基があって、右が推古天皇棺で左が竹田皇子棺であると見える[2][5]。ただし前述のように本古墳には2基の石室の存在が推定されるため、性格を規定するには石棺2基の石室とは別の石室の内容も考慮するべき点が注意される[2]。なお、推古天皇・竹田皇子の真の合葬陵墓としては東方約200メートルの二子塚古墳に比定する説もあるほか[5]、改葬前の陵墓(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある(詳細は「植山古墳」参照)。
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現地情報[ソースを編集]
所在地
交通アクセス
周辺
脚注[ソースを編集]
原典
出典
(一)^ abcde高松古墳︵平凡社︶ 1986.
(二)^ abcdefg書陵部紀要 第42号 1991.
(三)^ abcdefghij王陵の谷・磯長谷古墳群 1994, pp. 16–17.
(四)^ abcdefghij磯長山田陵︵国史︶.
(五)^ abc王陵の谷・磯長谷古墳群 1994, pp. 33–41.
(六)^ "推古天皇陵を立ち入り調査/研究者ら石室材を確認"︵四国新聞社、2012年2月23日記事︶。
(七)^ 天皇陵︵宮内庁︶。
(八)^ 宮内省諸陵寮編﹃陵墓要覧﹄︵1934年、国立国会図書館デジタルコレクション︶11-12コマ。
(九)^ ﹃陵墓地形図集成 縮小版﹄ 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 407。