広姫
広姫 | |
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第30代天皇后 | |
皇后 | 敏達天皇4年1月9日(575年) |
崩御 |
敏達天皇4年11月(575年) |
陵所 | 息長陵(滋賀県米原市村居田字北屋敷) |
父親 | 息長真手王 |
配偶者 | 敏達天皇 |
子女 |
押坂彦人大兄皇子 逆登皇女 菟道磯津貝皇女 |
系譜[編集]
﹃日本書紀﹄敏達天皇紀では、広姫を息長真手王︵おきながのまてのおおきみ/おきながまてのおおきみ︶の娘とし、天皇の皇后として押坂彦人大兄皇子︵更名を麻呂古皇子︶、逆登皇女、菟道磯津貝皇女の1男2女を産んだとする。
﹃古事記﹄敏達天皇段でも、比呂比売命を息長真手王の娘とし、天皇との間に忍坂日子人太子︵亦名を 押坂彦人大兄皇子︶、坂騰王、宇遅王の3人を産んだとする。
なお息長真手王の娘としては、継体天皇︵第26代︶の妃にも麻績娘子︵おみのいらつめ、麻組郎女︶の記載が見える。
記録[編集]
﹃日本書紀﹄によれば、広姫は敏達天皇4年1月9日︵575年2月4日?︶に立后して1男2女を産み、同年11月に崩御したという[1]。 広姫の崩御後、敏達天皇5年︵576年︶3月10日には額田部皇女︵のちの推古天皇︶が立后している。陵[編集]
陵︵みささぎ︶は、宮内庁により滋賀県米原市村居田字北屋敷にある息長陵︵おきながのみささぎ、北緯35度24分6.32秒 東経136度20分10.03秒︶に治定されている[2][1]。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は﹁村居田古墳﹂。
広姫の陵について﹃日本書紀﹄に記載はないが、﹃延喜式﹄諸陵寮では遠墓の﹁息長墓﹂として記載され、近江国坂田郡の所在で、兆域は東西1町・南北1町で守戸3烟を毎年あてるとする[1]。その後、息長墓の所在に関する所伝は失われ、後世の坂田郡内には﹁皇后塚﹂と称される古墳が数ヶ所存在した[3]。
村居田の皇后塚︵村居田古墳︶は、元々は現陵でなく荒陵山光運寺境内地に存在した古墳を指した。その古墳は元禄9年︵1696年︶の光運寺建立の際に大部分が削平され、その際には石室・家形石棺とともに宝冠・大刀・鏡が出土したが、出土品の入った石棺は光運寺隣接地の堀居氏の庭に埋納されたという[1][3]。明治7年︵1874年︶5月に教部省により当地が息長陵に考証され、明治8年︵1875年︶7月には掌丁付置が命じられたが、上述の経緯を踏まえて同年9月に遺物埋納地に円丘が築かれてそれが息長陵に定められた[1][3]。そして明治10年︵1877年︶の兆域確定の際には、光運寺南側の皇后塚残丘は息長陵付属地と定められ、陵の参道に囲い込まれている[1][3]。ただし考古学的には、この皇后塚は古墳時代中期の5世紀代の築造と見られ、広姫の墓とするには否定的な見解が強い[3]。