春日向山古墳
春日向山古墳 | |
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墳丘 | |
所属 | 磯長谷古墳群 |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町大字春日 |
位置 | 北緯34度31分0.43秒 東経135度38分39.13秒 / 北緯34.5167861度 東経135.6442028度座標: 北緯34度31分0.43秒 東経135度38分39.13秒 / 北緯34.5167861度 東経135.6442028度 |
形状 | 方墳 |
規模 |
東西65m×南北60m 高さ10m |
埋葬施設 | (推定)横穴式石室 |
築造時期 | 7世紀前半 |
被葬者 | (宮内庁治定)第31代用明天皇 |
陵墓 | 宮内庁治定「河内磯長原陵」 |
地図 |
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春日向山古墳︵かすがむかいやまこふん︶は、大阪府南河内郡太子町大字春日にある古墳。形状は方墳。磯長谷古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により﹁河内磯長原陵︵こうちのしながのはらのみささぎ︶﹂として第31代用明天皇の陵に治定されている。
概要[編集]
大阪府南東部、二上山山麓の磯長谷において、春日集落の南西端の台地上に築造された大型方墳である[1]。現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるため、これまでに本格的な調査はなされていないが、2012年︵平成24年︶2月に学会立ち入り調査が実施されている[2]。
墳形は方形で、南方に面する。墳丘は3段築成と推測され[3]、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルを測る[3][4]。墳丘周囲には空壕︵幅7メートル︶が巡らされており[4]、壕の外堤︵土塁︶まで含めた古墳全長は東西100メートル、南北90メートルにもおよぶ[5]。墳丘外表で埴輪は認められていない[5]。埋葬施設は明らかでないが、享保10年︵1725年︶の古文書︵春日の吉村家蔵文書︶では横穴式石室の可能性を示唆する記述があるほか[1][5]、﹃廟陵記﹄にも﹁大石有之﹂として巨石︵横穴式石室の部材か︶の露出が記される[3]。
この春日向山古墳は、古墳時代終末期の7世紀前半頃の築造と推定される[3]。古墳形態としては石舞台古墳︵奈良県高市郡明日香村、蘇我馬子墓か︶との関連が指摘される︵同一プランの築造か︶[5][4]。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第31代用明天皇︵587年?崩御︶の陵に治定されている[6]。磯長谷では用明天皇陵のほか敏達・推古・孝徳天皇陵と聖徳太子墓が伝わっており、これらは﹁梅鉢御陵﹂と総称される[1]。
被葬者[編集]
春日向山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第31代用明天皇の陵に治定している[7][8][6][9]。用明天皇について、﹃日本書紀﹄では用明天皇2年︵587年?︶4月[原 1]に崩御し、同年7月[原 2]に﹁磐余池上陵﹂に葬られたのち[10]、推古天皇元年︵593年︶[原 3]に﹁河内磯長陵﹂に改葬されたとする[6][11]。また﹃古事記﹄では﹁御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也﹂と見える︵掖上は池上の誤写か[10]︶。﹃延喜式﹄諸陵寮[原 4]では用明天皇陵は遠陵の﹁河内磯長原陵﹂として記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北3町で守戸3烟を毎年あてるとする[6]。その後、元治元年︵1864年︶に修補および拝所設置が実施されたのち、1899年︵明治32年︶には御在所修理が実施されている[6]。 本古墳が用明天皇陵であれば、天皇陵としては最初の方形墳に位置づけられる[5]。なお、初葬地の﹁磐余池上陵﹂については明らかでないが[6][10]、一説には奈良県桜井市阿部付近に推定される[6]。
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脚注[編集]
原典
出典
(一)^ abc向山古墳︵平凡社︶ & 1986年.
(二)^ "用明陵に立ち入り調査 大阪、研究者の団体"︵日本経済新聞、2012年2月23日記事︶。
(三)^ abcd用明天皇陵古墳︵古墳︶ & 1989年.
(四)^ abc用明天皇陵︵太子町ホームページ︶。
(五)^ abcde王陵の谷・磯長谷古墳群 & 1994年, pp. 15–16.
(六)^ abcdefg河内磯長原陵︵国史︶.
(七)^ 天皇陵︵宮内庁︶。
(八)^ 宮内省諸陵寮編﹃陵墓要覧﹄︵1934年、国立国会図書館デジタルコレクション︶11コマ。
(九)^ ﹃陵墓地形図集成 縮小版﹄ 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 407。
(十)^ abc﹃新編日本古典文学全集3日本書紀 (2)﹄小学館、2004年︵ジャパンナレッジ版︶、pp. 507-508。
(11)^ ﹃新編日本古典文学全集3日本書紀 (2)﹄小学館、2004年︵ジャパンナレッジ版︶、p. 532。