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晋陽の戦い︵しんようのたたかい︶は、貞定王14年︵紀元前455年︶に発生した戦い。晋の六卿の智氏の当主の智瑶︵智伯︶と趙氏の趙襄子︵趙無恤︶や韓康子︵韓虎︶・魏桓子︵魏駒︶が趙氏の本拠の晋陽で戦った。智瑶は殺され、智氏は滅亡した。
春秋時代の末期、智襄子は晋の六卿の智氏の当主として政権を手にしていた。ある時六卿の韓康子・魏桓子・趙襄子に領地の割譲を要求した。韓康子と魏桓子は脅しに屈して領地の一部を割譲したが、趙襄子は拒絶した。
貞定王14年︵紀元前455年︶、智襄子と韓康子・魏桓子は出兵した。智氏・韓氏・魏氏の三卿同盟軍は趙氏を攻撃した。趙襄子は敗退し晋陽城に籠城した。
貞定王16年︵紀元前453年︶、智襄子は晋水︵汾水︶の水で晋陽城を水攻めにした。城内では疫病が流行り、また飢えのため子供たちを取り換えて人肉を食らう有様であった[2][3][4]。
趙氏は滅亡の危機に陥り、趙孟談︵中国語版︶を韓氏・魏氏に派遣した。﹁唇︵趙氏︶亡ぶれば、則ち歯︵韓氏・魏氏︶寒し、智襄子は強欲な男であり、趙が滅ぼされた後には今度は貴公らの番である﹂と述べた[5][2]。韓康子も魏桓子も同様の危惧を抱いており、密約を結んで三氏共同で智氏を滅ぼすことにした。
韓・魏の両軍は堤防を決壊させ、智氏の軍営に水を流した。同時に趙軍も城より打って出た。智軍は壊滅し智襄子は捕虜となり、殺された。智襄子の死後、趙襄子は智襄子の頭蓋骨に漆を塗って杯とし、さらしものにしたという。智氏は滅亡した。晋陽の戦いにより六卿は韓氏・魏氏・趙氏の三家となり三晋の独立を招くことになった。
(一)^ ﹃史記﹄﹁趙世家﹂‥﹁以三月丙戌,三国反滅智氏,共分其地﹂。紀元前453年の旧暦3月23日はグレゴリオ暦の5月8日
(二)^ ab島崎晋 (2019年3月). ︽春秋戦国の英傑たち︾97p. 双葉社. ISBN 9784575457889
(三)^ ﹃史記﹄﹁趙世家﹂‥﹁城不浸者三版,城中懸釜而炊,易子而食﹂
(四)^ ﹃戦国策﹄﹁秦策四﹂‥﹁始,吾不知水之可亡人之国也,乃今知之﹂
(五)^ ﹃戦国策﹄﹁知伯帥趙韓魏而伐范中行氏﹂‥﹁臣聞唇亡則歯寒。今知伯帥二国之君伐趙,趙将亡矣,亡則二君為之次矣﹂