村上義忠
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村上 義忠 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
官位 | 掃部助?、掃部頭[1] |
主君 | 大内義興→義隆 |
氏族 | 清和源氏定国流村上氏(能島村上氏) |
父母 | 父:村上隆勝[1]、母:不詳 |
兄弟 | 義雅[1]、義忠、隆重[1] |
妻 | 平岡左近将監の娘 |
子 | 武吉[1] |
村上 義忠︵むらかみ よしただ︶は、戦国時代の武士。村上隆勝の次男で、村上武吉の父。兄に村上義雅、弟に村上隆重がいる。
生涯[編集]
村上武吉の父[編集]
村上義忠について﹁閥閲録︵巻22村上図書︶﹂では、義雅早世後の義益と武吉の家督争いについて触れる中で、武吉を﹁掃部頭義忠カ子、義忠ハ義雅カ弟也﹂と記しているが、これ以外の情報は無い。﹁閥閲録﹂より後に編纂された﹁譜録︵村上図書︶﹂においても、武吉を義忠の子としているが、家督争いでは武吉の叔父・隆重︵義忠の弟︶が幼い武吉の代わりに軍を率いたとしている[2]。 なお、義忠の子・武吉は、天文5年︵1536年︶に生まれている[注釈 1]。村上掃部助[編集]
天文10年︵1541年︶頃、能島村上氏は大内氏と敵対しており、同年1月に厳島沖で大内水軍と交戦し、6月から7月にかけては逆に能島など芸予諸島の拠点に攻め込まれていた[4]。 そんな中、大内氏に味方する﹁村上掃部助﹂という人物が史料にみえる。天文11年︵1542年︶4月、杉隆宣、青景隆著、弘中隆兼ら大内氏奉行人は神代兼任に対して、敵方の攻撃を受けている伊予国中島の棚林要害への加勢を指示。渡海の段取りは、小原隆名[注釈 2]と村上掃部助に相談して進めるよう伝えている。この掃部助を、義忠に比定する説がある[5][注釈 3]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁譜録︵村上図書︶﹂には武吉は慶長9年︵1604年︶8月22日に72歳で死去したと記載されており、逆算すると天文2年︵1533年︶生まれとなる[3]が、元亀2年︵1571年︶8月に武吉が光林寺に灯篭を寄進した際に記した祈願状︵﹃光林寺文書﹄︶では自らの生年の干支を﹁丙申﹂と記しているため、これに従うと天文5年︵1536年︶生まれとなる。
(二)^ 小原隆名は大内氏家臣。天文10年︵1541年︶の芸予諸島攻撃では、白井房胤らを率いて指揮官を務めた。
(三)^ 義忠の子の武吉、武吉の子の元吉はいずれも﹁掃部頭﹂を名乗っており、義忠も﹁閥閲録︵巻22村上図書︶﹂では﹁掃部頭﹂を名乗っている。