武市安哉
武市 安哉 | |
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生誕 |
1847年5月15日 日本、土佐国長岡郡大埇村住吉野(現・高知県南国市大埇) |
死没 |
1894年12月2日(47歳没) 日本、青函連絡船の船上 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 立志学舎 |
職業 | 武士、政治家 |
子供 | 武市時代(末娘) |
武市 安哉︵たけち あんさい/やすや、弘化4年4月1日︵1847年5月15日︶ - 明治27年︵1894年︶12月2日[1]︶は、土佐藩出身の明治時代の日本の政治家であり、北海道を開拓した人物の一人である。
土佐勤王党を結成した武市半平太や、亀山社中︵後の海援隊︶を結成した坂本龍馬の親戚である。
武市亡き後の聖園教会を支えた坂本直寛
武市の死の3年後、1897年(明治30年)11月に浦臼村に建設され た日本基督教浦臼教会の新会堂
1894年︵明治27年︶12月、高知県に一度帰郷して北海道に戻る途中、青函連絡船の船中にて脳溢血で死去した。このとき、末娘の時代︵ときよ︶が同船していた。聖園農場の経営は安哉の没後、親族である坂本直寛に引き継がれた。
聖園農場はその後分解するが、坂本が聖園を足場に北見北光社、遠軽などへのキリスト教的な開拓が展開する。聖園教会は日本基督教会に所属して、今日も存在している[6][7]。