池田峯雄
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池田 峯雄︵いけだ みねお、1911年8月30日 - 1998年12月3日︶は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員︵日本共産党公認、1期︶を務めた。日本農民組合 (統一派)中央常任委員[1]及び同常総同盟委員長などを歴任。
来歴[編集]
茨城県筑波郡作岡村安食︵現在のつくば市安食︶の小地主の家に生まれる。茨城県立下妻中学校︵現在の茨城県立下妻第一高等学校︶3年の時に、父の経営する会社が倒産し、新治郡土浦町︵現在の土浦市︶へ移住。同地の茨城県立土浦中学校︵現在の茨城県立土浦第一高等学校︶を卒業後、結城郡宗道村︵現在の下妻市︶で代用教員に就く。この間、土浦中学校同級生の小林孝祐[2]を介して文化サークルに参加、加藤四海ら全日本農民組合連合会︵全農︶関係者と親交を深めた。 1931年に発生した太田村事件[3]の後全農全会派書記、同青年部長に就任。翌年9月には東茨城郡堅倉村︵現在の小美玉市︶で小作争議の応援中に検挙、1936年秋まで服役を余儀なくされる。1945年日本共産党へ入党[4]、同党茨城県委員[5]を務める傍ら、1949年の第24回衆議院議員総選挙に旧茨城3区︵定数5︶から共産党公認候補として出馬し初当選を果たす。同選挙区の当選者の中では最年少であった[5]。続く1952年の第25回衆議院議員総選挙では共産党の前職議員として立候補したが得票数を6割以上減らして落選し[6]、1958年の第29回衆議院議員総選挙から1972年の第29回衆議院議員総選挙までは同党公認候補として5回連続で落選した。ただし、茨城県内の選挙区で国政選挙に当選したのは、2024年時点で1949年衆院選の池田が史上唯一の例となっている。 1998年12月3日、胸膜炎のため茨城県つくば市の病院で死去。87歳[7]。著書[編集]
- 『茨城農民運動の回顧』筑波書林、1980年。
脚注[編集]
(一)^ 日本労働年鑑 第28集 1956年版 第二部 労働運動 第三編 農民運動法政大学大原社会問題研究所ウェブサイトより
(二)^ 後に日本共産党へ入党、東方勤労者共産大学留学から帰国後逮捕
(三)^ 同年実施の茨城県議会議員選挙で、全農推薦の候補者への警察による妨害に端を発する騒擾事件。全農関係者が多数逮捕された
(四)^ 日本共産党元衆院議員/池田峰雄さん死去治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟ウェブサイトより
(五)^ ab村川一郎編著﹃日本政党史辞典 中﹄1998年、国書刊行会、p.578
(六)^ 同選挙では党内の路線対立と武装闘争方針の採用で国民の支持を大きく失った共産党が前回の35人当選から全候補落選という惨敗を喫していた。なお、同党は1950年の朝鮮戦争開始後に起ったレッドパージにより中央委員24人が公職追放処分を受け、所属議員も減少していたが、池田は衆議院解散による失職まで衆議院議員を務めた。
(七)^ 1998年12月4日付 朝日新聞
参考文献[編集]
- 『近代日本社会運動史人物大事典』日外アソシエーツ、1997年。