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烏田通知

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凡例

烏田通知
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正9年(1581年[1]
死没 寛文2年4月11日1662年5月28日
改名 烏田桃寿丸(幼名)→烏田通知→烏田道智(号)
別名 通称:九郎→作蔵→九郎兵衛尉
主君 毛利輝元秀元豊臣秀頼毛利秀就綱広
長州藩
氏族 烏田氏
父母 父:烏田武通
兄弟 竹鶴女国司元貞正室)、通知
正通
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脚注[編集]

  1. ^ a b 閥閲録』巻141「烏田智庵」の烏田家の家譜によれば、通知は寛文2年(1662年)に82歳で死去したとあり、この記述に従えば天正9年(1581年)生まれとなる。一方で、通知の孫・貫通(智庵)による由緒書きによれば、義兄・国司元貞が9歳の時に通知が生まれたと記されており、こちらの記述に従えば、永禄11年(1568年)生まれとなる。
  2. ^ この時の戦功を見届けたのは堅田元慶家臣の田坂太郎右衛門で、田坂太郎右衛門も首級を挙げている。

参考文献[編集]