熊本医科大学 (旧制)
旧制熊本医科大学 ︵きゅうせいくまもといかだいがく︶ は、1929年 ︵昭和4年︶5月に設立された旧制官立大学。略称は﹁熊本医大﹂。
本項は、私立熊本医学校・旧制私立熊本医学専門学校・旧制熊本医学専門学校︵熊本医専︶・旧制熊本県立医科大学などの前身諸校を含めて記述する。
概要[編集]
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同窓会
﹁熊杏会﹂︵ゆうきょうかい︶と称され、熊本大学医学部に継承されている。
沿革[編集]
●1756年︵宝暦6年︶12月 - 肥後藩藩主細川重賢により医学寮が創設され、﹁再春館﹂と命名。 ●1870年︵明治3年︶10月 - 熊本藩知事細川護久、長崎から吉雄圭斎を招き、西洋医学の︵藩立︶病院を創設。 ●1871年︵明治4年︶ ●2月 - 吉雄圭斎の推薦で長崎医学校からオランダ人マンスフェルトが招かれ、教師に就任。 ●7月 - ﹁藩立医学所﹂が創立。間もなく廃藩により、﹁官立[1]医学所兼病院﹂︵通称・古城医学校︶と改称。 ●1874年︵明治7年︶7月 - マンスフェルトが任期満了により帰国。 ●1875年︵明治8年︶3月 - 医学校が廃止。病院は下通町に移転、﹁通町病院﹂と改称し、医学校の生徒を収容する。 ●1877年︵明治10年︶2月 - 西南戦争により、病院は焼失。本山に移転し、北岡に仮病院が開設。 ●1878年︵明治11年︶4月 - 病院を手取本町に新築し、﹁県立医学校﹂として再興。 ●1882年︵明治15年︶10月 - 甲種医学校の認可を受け、病院は医学校の附属病院となる。 ●1888年︵明治21年︶3月 - 勅令第148号により、県立医学校が廃止。附属病院は﹁県立病院﹂として独立。 ●1889年︵明治22年︶- 県立病院が廃止。その後、私立熊本病院として経営され、﹁春雨黌︵しゅんうこう︶﹂[2]と称する。 ●1891年︵明治24年︶10月 - ﹁私立九州学院医学部﹂が設立。 ●1896年︵明治29年︶9月 - 私立九州学院医学部が閉鎖。その後、熊本県の補助を受け、﹁私立熊本医学校﹂が創設。 ●1901年︵明治34年︶- 病院が本荘町に移転。 ●1904年︵明治37年︶2月 - 専門学校令により﹁私立医学専門学校﹂に昇格。 ●1912年︵大正元年︶- 本荘に新校舎が完成し、移転を完了。 ●1921年︵大正10年︶4月 - 県立移管により、﹁熊本県立医学専門学校﹂と改称。 ●1922年︵大正11年︶5月 - 大学令による大学に昇格し、﹁熊本医科大学﹂と改称。予科を設置。 ●1929年︵昭和4年︶ ●4月 - ﹁熊本県立医科大学﹂と改称。 ●5月 - 官立︵国立︶移管により、﹁熊本医科大学﹂と改称。 ●1935年︵昭和10年︶1月1日 - 附属病院本館写真室付近から出火。本館2200坪が焼失[3]。 ●1939年︵昭和14年︶ ●5月 - 戦時体制下での軍医養成のため7帝大および他の官立6医大[4]とともに臨時附属医学専門部を設置。 ●10月 - 附属体質医学研究所を設置。 ●1945年︵昭和20年︶ ●7月 - 戦災により基礎教室・臨床教室・附属病院の木造病棟すべてを焼失。 ●12月 - 熊本医科大学本部及び基礎教室が熊本城内二ノ丸旧軍用施設に、附属病院病室の一部が藤崎台元陸軍病院分院に移転。 ●1949年︵昭和24年︶5月31日 - 国立大学設置法により、新制熊本大学が発足し、それに包括され、﹁熊本大学熊本医科大学﹂となる。 ●熊本医科大学の在学生が卒業するまで存続。新入生は熊本大学医学部生となる。 ●1950年︵昭和25年︶3月 - 臨時附属医学専門部が廃止。 ●1954年︵昭和29年︶3月 - 熊本医科大学最後の卒業式を挙行。 ●1960年︵昭和35年︶3月 - 法律第16号により、熊本医科大学が廃止。熊本大学医学部がその伝統を継承する。この節の加筆が望まれています。 |
脚注[編集]
関連項目[編集]
関連文献[編集]
- 肥後医育史 山崎正董編纂 1929 補冊 1931、鎮西医海時報社、2006,復刻