牧村憲一
牧村 憲一 | |
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基本情報 | |
別名 | 海野 祥年 |
生誕 | 1946年11月3日(77歳) |
出身地 | 日本 東京都渋谷区 |
職業 | 音楽プロデューサー |
牧村 憲一︵まきむら けんいち、1946年11月3日 - ︶は、日本の音楽プロデューサー。昭和音楽大学講師。
略歴[編集]
東京都渋谷区出身。早稲田大学法学部在学中の1968年、音楽サークル“グリー・クラブ”の先輩三浦光紀のキング・レコード就職に伴い、私設アシスタントとして音楽業界に身を投じる。無給だったため、1970年頃、小室等の事務所に預けられ、六文銭のマネージメントを担当する。 1970年、﹁中津川フォークジャンボリー﹂の実行委員となり、東京のアーティストのブッキングを担当する。 1971年、後藤由多加に誘われ、ユイ音楽工房の設立に参加する。同事務所では、かぐや姫を担当する。﹃神田川﹄︵73年︶がディレクターとして最初に成功した楽曲となる。しかし、日本のフォークが嫌になり、大森昭男のONアソシエイツに移籍する。 CM音楽制作にあたり、三浦から聴かされていた大滝詠一を大森に推薦する。大滝がコーラスに連れてきたシュガー・ベイブに注目し、シュガー・ベイブとセンチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメントとプロモーションをする会社“アワ・ハウス”を興す。しかし、シュガー・ベイブが突然解散することになり、山下達郎・大貫妙子をソロ・デビューさせる。山下﹃CIRCUS TOWN﹄(76年)、大貫﹃Grey Skies﹄(76年)、﹃SUNSHOWER﹄(77年)を制作するも、資金が底をつき“アワ・ハウス”は倒産する。その後、新宿ロフトの“ロフト・レーベル”に協力しているときに知り合った川原伸司から、杉真理のバックコーラスをしていた竹内まりやを紹介される。竹内まりやの﹃BEGINNING﹄(78年)、﹃UNIVERSITY STREET﹄(79年)、﹃LOVE SONGS﹄(80年)のプロデュースを担当する。 1980年代に入ると、細野晴臣が主宰するノン・スタンダード・レーベルでディレクターとして活動し、小西康陽率いるピチカート・ファイヴや鈴木惣一朗率いるワールドスタンダードらを輩出。 その後ポリスターレコードに移籍し、1980年代の終わりから90年代にかけてフリッパーズ・ギターやL⇔Rを世に送り出した。 その後はフリーとして活動。 2007年から2013年まで昭和音楽大学非常勤講師を務める。 2014年、音学校を開講。 2017年から、レーベル﹁緩やかなレーベル﹂を主宰。著書[編集]
- 未来型サバイバル音楽論―USTREAM、twitterは何を変えたのか(2010年、中央公論新社)※津田大介との共著
- ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989(2013年、東京ニュース通信社)
- 「ヒットソング」の作りかた―大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち(2016年、NHK出版)
- 渋谷音楽図鑑(2017年、太田出版)※柴那典、藤井丈司との共著
- 牧村憲一発言集成 1976-2021(2022年、N4書房)
外部リンク[編集]
- 牧村マキジイ憲一 (@makiji) - X(旧Twitter)
- 緩やかなレーベル