玉乃世履
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玉乃 世履 | |
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生年月日 | 1825年9月3日 |
出生地 | 周防国玖珂郡 |
没年月日 | 1886年8月8日(60歳没) |
死没地 | 日本・東京府 |
称号 | 従三位勲二等 |
大審院長 | |
在任期間 | 1878年9月13日 - 1879年10月25日 |
元首 | 明治天皇 |
在任期間 | 1881年7月27日 - 1886年8月8日 |
元首 | 明治天皇 |
在任期間 | 1879年11月17日 - 1881年7月27日 |
玉乃 世履︵たまの よふみ[1]、文政8年7月21日︵1825年9月3日︶ - 1886年︵明治19年︶8月8日︶は、日本の司法官[2]。剛毅果断・清廉潔白な精神の持ち主で、裁判官としての公正な裁きにより、﹁明治の大岡﹂と賞賛された[3]。号は五龍。大審院長在職中に自殺した。
生涯[編集]
栄典[編集]
●1885年︵明治18年︶10月1日 - 正四位[10] ●1886年︵明治19年︶8月7日 - 従三位[11]家族[編集]
●実父・桂脩助 - 岩国領主吉川家家臣 ●養父・玉乃九華 - 藩校養老館学頭 ●妻・光子 ●長女・ふみ - 陸軍少将皷包武︵岸信介、佐藤栄作の祖父・佐藤信彦の弟︶の妻[12] ●長男・玉乃一熊 - ビリアードの名人として知られ、著書もある[13]。大野毛利家出身の妻との間に二男を儲けたが離婚。のち再婚し一男三女を儲けるが、地方で一稼ぎしてくると家を出たのち消息不明となった事もある[14]。牛込区河田町でビリアード場を営んだ[15]。 ●孫・玉乃由理 - 一熊の長男。滝野川区田端新町に﹁木炭瓦斯工業所﹂を開き、ガソリン車に代わる非常時用木炭瓦斯自動車の発明研究に勤しんだ[15]。両親の離婚後祖母光子に引き取られたが、13歳で祖母が亡くなり、再婚した父のもとに戻り、攻玉社中学に進学。同校中退後、家を出て18歳で瓦斯工業協会の製図見習工となり、以降築地工手学校、早稲田工手学校などを転々としたのち、25歳で中央工学校を卒業。自動車修繕工場を転々とし、自ら経営もした[15]。脚注[編集]
出典[編集]
- ^ 「せいり」と読まれる事も多い
- ^ 朝日日本歴史人物事典「玉乃世履」
- ^ 山口大学附属図書館庶民資料展
- ^ 的野半介『江藤南白 上』南白顯彰会、1914、p643
- ^ 福島事件高等法院裁判言渡書 : 写真肖像入清宝堂、1883年
- ^ 玉乃世履(読み)たまの・よふみコトバンク
- ^ 吉岡達生『初代大審院長 玉乃世履』(2002年)
- ^ 玉乃世履(たまのせいり)谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 法務史料展示室だより 第25号歴史の壺-法務省
- ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
- ^ 『官報』第933号「叙任」1886年8月10日。
- ^ 皷包武『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 玉乃一熊著作集国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 東京朝日新聞 1927年8月20日
- ^ a b c 町内侠気の推進力誉れの竜巻流式中外商業新報 1937.2.9 (昭和12)
参考文献[編集]
●吉岡達生﹃初代大審院長 玉乃世履﹄︵2002年︶ ●﹃明治四年久留米藩難記﹄川島澄之助著、金文堂書店、明治44年︵私家版︶384ページに、久留米藩難事件で逮捕された国事犯が猛暑の獄中に長期間収監され、入浴を何度も請うたが﹁玉乃という掛り役人は実に無情極まった者でどうしても取り合ってくれぬ﹂の記述。また361ページには、玉乃の取り調べを受けたが拷問もされず刑も軽く済んだ横枕覚助の、玉乃との問答を詳細した記述がある。玉乃世履を演じた俳優[編集]
●高木渉﹃青天を衝け﹄︵2021年、NHK︶関連項目[編集]
●自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧 ●横田秀雄 - ﹁大正の大岡﹂と賞賛された。外部リンク[編集]
- 玉乃世履(岩国藩士)
- デジタル版「実験論語処世談」(33) / 渋沢栄一 - 空米相場の許否論を巡って渋沢に反対していた玉乃がボアソナードに論破され、自らの間違いを謝罪に来た話
- 『近世自殺者列伝』玉乃世履宮武外骨、1931年
公職 | ||
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先代 (新設) |
高等法院裁判長 1882年 - 1886年 |
次代 尾崎忠治 |
先代 山田顕義(→欠員) |
司法大輔 1879年 - 1881年 |
次代 細川潤次郎 |