岸良兼養
岸良 兼養︵きしら かねやす、天保8年8月︵1837年︶- 明治16年︵1883年︶11月15日[1]︶は、幕末の薩摩藩士、明治時代の司法官。元老院議官、大審院長。通称・七之丞[2]。
経歴[編集]
薩摩藩士・岸良兼善の長男として生まれる[3]。島津久光の小姓として、久光、島津忠義父子と精忠組との連絡役を務めた[2]。 明治政府に出仕し、慶応4年閏4月23日︵1868年6月13日︶議政官史官試補に就任[4]。以後、監察司知事、弾正大巡察、刑部少丞などを歴任[4]。明治4年7月9日︵1871年8月24日︶刑部省が弾正台と合併して司法省となり、同年8月8日︵9月22日︶司法少判事に任官[4]。明治5年︵1872年︶司法制度調査のため渡欧し、1873年︵明治6年︶9月7日に帰国した[2][4]。同年12月28日、司法大検事に就任[4]。 佐賀の乱、西南戦争後の裁判において検察の指揮を行う[1][2]。1877年︵明治10年︶6月28日、初代検事長︵現在の検事総長に相当︶に就任。1879年︵明治12年︶10月25日、大審院長に転じた[2][4]。 1881年︵明治14年︶7月27日、司法少輔に就任。1883年︵明治16年︶6月5日、元老院議官を兼任。同年7月4日、司法少輔を辞任し元老院議官の専任となる[5]。病のため在任中に死去した[3]。墓所は青山霊園(1イ1-8)。親族[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●修史局編﹃百官履歴 上巻﹄日本史籍協会、1928年。 ●大植四郎編﹃明治過去帳﹄新訂初版、東京美術、1971年︵原著私家版1935年︶。 ●日本歴史学会編﹃明治維新人名辞典﹄吉川弘文館、1981年。 ●上田正昭他﹃日本人名大辞典﹄講談社、2001年。 ●太政官﹁職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 岸良兼養﹂明治元年。国立公文書館 請求番号‥本館-2A-031-09・職00148100公職 | ||
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先代 伊丹重賢(→欠員) |
司法少輔 1881年 - 1883年 |
次代 (欠員→)三好退蔵 |