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川上宗薫・佐藤愛子
百目鬼が﹁作家WHO'S WHO﹂︵のち﹃現代の作家101人﹄︶で、川上宗薫を﹁他人への感情が欠落し、自己中心の感覚しかもたず、好色で、小心者のくせに楽天的で、世間に対してタカをくくる癖がある﹂﹁純文学作家としてポシャったのち、ポルノ作家として再起した﹂﹁自分の感受性だけで書いて、人間をよく見ることのできない川上の純文学は、早晩ポシャる運命にあった﹂﹁およそ人間性と無縁なポルノ読み物に、川上がむいていることもまた、たしかなのである﹂[6]などとこき下ろした。これに対して、川上の友人であった佐藤愛子は激怒し、﹁巾着きりのツェツェ蠅のインポテンツのゲス野郎め﹂﹁朝日新聞という大看板の下に棲息するネズミ﹂などと百目鬼を罵った[3]。
川崎長太郎・井上ひさし
百目鬼が﹃週刊文春﹄に匿名で寄稿していたコラム﹁風﹂にて、川崎長太郎の私小説を徹底的に批判した。百目鬼は、1949年を舞台にした川崎の小説について、登場人物がアメリカの水爆実験について言及する場面について、アメリカが水爆実験を行ったのは1952年だからこの台詞はありえないと主張し、社会派のふりをした創作である、などの批評を展開した[7]。これに対し、井上ひさしが川崎を擁護する論陣を張った。井上は当時の文献を調査したうえで、1949年の﹃科学朝日﹄に水爆実験を取り上げた記事が既に掲載されていたと指摘し、具体的な典拠を提示して百目鬼を批判した[7][注 1]。
丸谷才一・江藤淳
1982年、丸谷才一が﹃裏声で歌へ君が代﹄を刊行した際に、百目鬼は新聞の一面でこれをとりあげて絶賛した。これに対し、江藤淳は、二人は同級生であり仲間褒めであると指摘し、新聞の一面で小説を褒めるのは異例であると厳しく批判した[4]。
江藤が月1回連載していた朝日新聞﹁文芸時評﹂を、百目鬼が初期に編集担当していた、完本は2冊組で新潮社。なお、百目鬼は後年に、江藤の著書﹃昭和の文人﹄︵新潮社︶をやや批判的に論評している︵遺著﹃解体新著﹄に所収︶。
●﹃日本文学の虚像と実像﹄ 至文堂、1970年
●﹃現代の作家101人﹄ 新潮社、1975年
●﹃新潮社八十年小史﹄ 新潮社、1976年 - 非売品
●﹃たった一人の世論﹄ ダイヤモンド社、1977年
●﹃奇談の時代﹄ 朝日新聞社、1978年/朝日文庫、1981年 - 1979年日本エッセイスト・クラブ賞受賞
●﹃風の書評﹄ ダイヤモンド社、1980年 - ﹁風﹂名義で百目鬼の名は伏せられている
●﹃続 風の書評﹄ ダイヤモンド社、1983年 - 続編、百目鬼名義になり﹁風﹂の正体が明かされた
●﹃新古今和歌集一夕話︵ひとよがたり︶﹄ 新潮社、1982年
●﹃読書人読むべし﹄ 新潮社、1984年
●﹃新聞を疑え﹄ 講談社、1984年
●﹃乱読すれば良書に当たる﹄ 新潮社、1985年
●﹃風の文庫談義﹄ 文藝春秋、1991年 - 没後刊、丸谷才一の弔辞収録
●﹃解体新著﹄ 文藝春秋、1992年 - 没後刊
- ^ さらに、川崎が足繁く通っていた小田原市立図書館にてこの『科学朝日』の記事を目にしたと推論し、作品中に1949年に水爆実験に言及した場面があっても何ら問題はないとして、百目鬼を厳しく批判した[7]。
関連項目[編集]