真雅
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真雅︵しんが、延暦20年︵801年︶ - 元慶3年1月3日︵879年2月1日︶︶は、平安時代前期の真言宗の僧。父は佐伯田公。空海の弟。讃岐国多度郡屏風浦の出身。空海の十大弟子の一人。清和天皇の誕生以来の護持僧で、天皇とその外祖父藤原良房から厚い信任を得る。清和天皇の御願寺である貞観寺の開基。貞観寺僧正・法光大師と称される。
経歴[編集]
●大同4年︵809年︶、9歳のとき故郷を離れ上京[1]。 ●弘仁7年︵816年︶、16歳のとき空海の弟子となる。 ●弘仁10年︵819年︶、19歳のとき具足戒を受ける。 ●弘仁14年︵823年︶、23歳のとき勅により参内し、天皇の御前で真言37尊の梵号を唱誦する。その声のすばらしさは聴衆を圧倒し、天皇は大いに悦んだという[2]。 ●天長3年︵826年︶3月5日、空海から﹃天長印信﹄を伝授された、という伝承が中世まで流布していた。ただしその後の研究では﹃天長印信﹄は謀書︵偽書︶とされる。 ●承和2年︵835年︶、弘福寺別当に任ぜられる[3]。また、一説に東大寺真言院を委託される。 ●承和14年︵847年︶、東大寺別当に任ぜられる。 ●嘉祥元年︵848年︶6月、権律師に任ぜられる。9月、律師に任ぜられる。 ●嘉祥3年︵850年︶3月、右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王︵11月、立太子。後の清和天皇︶を生む。真雅は親王生誕から貞観16年︵874年︶まで24年間、常に侍して聖体を護持したという。 ●仁寿2年︵853年︶、惟仁親王のために藤原良房と協同で嘉祥寺に西院を建立。 ●仁寿3年︵854年︶10月、少僧都に任ぜられる。 ●斉衡3年︵856年︶10月、大僧都に任ぜられる。 ●貞観元年︵859年︶3月、嘉祥寺西院に真言宗を学ぶ年分度者3人を認められる。 ●貞観2年︵860年︶2月、真済が没したのにともない東寺一長者となる︵先任二長者の真紹をさしおいて就任︶[4]。 ●貞観4年︵862年︶7月、嘉祥寺西院が貞観寺と改められる。 ●貞観6年︵864年︶2月、真雅の奏請により僧綱を対象とする新たな僧位︵僧正に法印大和尚位、僧都に法眼和上位、律師に法橋上人位︶が制定され、真雅は法印大和尚位僧正に任ぜられる。また、僧として初めて輦車による参内を許される。 ●貞観16年︵874年︶3月、清和天皇が貞観寺の新道場落成を祝って大斎会を催す。諸宗の百僧、親王公卿百官が列席。 ●7月、上表して僧正職を辞するが許されず︵その後、再三の辞表も不許可︶。 ●貞観18年︵876年︶8月、奏請により貞観寺に座主職を置き僧綱の管轄外とする。 ●元慶3年︵879年︶1月3日、貞観寺にて入滅。享年79。 ●文政11年︵1828年︶6月26日、950回忌に際して法光大師の諡号が追贈される。弟子[編集]
元慶2年11月11日の真雅言上状[5]によれば、真雅の付法弟子は以下の5人。 ●真然…空海に師事し、後に真雅の灌頂を受ける。僧正。 ●真皎…真雅言上状に十禅師伝灯大法師位とある。伝不詳。 ●源仁…はじめ興福寺護命の弟子。後に実恵に密教を学び、真雅の灌頂を受ける。さらに入唐した宗叡の灌頂も受ける。権少僧都。後世に続く真言宗の法統は真雅-源仁の系列のみ。 ●載宝…真雅言上状に十禅師伝灯大法師位とある。伝不詳。 ●恵宿…真雅言上状に伝灯大法師位とある。元慶9年︵885年︶、貞観寺座主となる。 そのほか師弟関係が伝えられる者
●聖宝…はじめ真雅に随い出家。元興寺、東大寺で諸宗を学んだ後、真雅から無量寿法、真然から両部大法を受け、源仁の灌頂を受ける。醍醐寺の開基。僧正。
●観賢…はじめ真雅の弟子。後に聖宝の灌頂を受ける。権僧正。