瞋
仏教用語 瞋 | |
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パーリ語 | dosa (ドーサ) |
サンスクリット語 | dveṣa (ドヴェーシャ), pratigha (プラティガ) |
日本語 | 瞋, 瞋恚 |
英語 | anger, ill-will, hatred |
瞋︵しん、梵: dveṣa, pratigha、巴: dosa︶は、仏教における煩悩のひとつで、怒りを指す[1]。瞋恚︵しんに︶ともいう。憎しみ[2]、嫌うこと、いかること[3]。心にかなわない対象に対する憎悪[2][4]。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと[5]。
仏教においては、
●人間の諸悪・苦しみの根源と考えられている三毒[1][5][4]、三不善根のひとつ[6]。
●十悪︵十不善業道︶のひとつ[5]。
●上座部仏教における不善心所のひとつ。
●説一切有部の五位七十五法のうち、︵心所法-︶不定法のひとつ[3]。
●大乗仏教アビダルマにおける六つの根本煩悩のひとつ[7][1]。生きとし生けるものに対する冷徹な心[4]。
定義[編集]
大乗阿毘達磨集論(Abhidharma-samuccaya)では以下のように述べられている。 瞋(pratigha)とは何か? それは苦、衆生、苦を備えた心への怒りを本質とし、安穏ならざる︹状態︺に住し、悪しき行い︹を為すこと︺の依り所たることを作用とする。 (何等為瞋?謂於有情苦及苦具心恚為体。不安隠住悪行所依為業。) 法相二巻抄における唯識大意では、 我︵自分︶に背くことがあれば必ず怒るような心、﹁自分がないがしろにされた﹂という思いと解釈している[1][4]。対治[編集]
瞋恚を断つ方法としては、パーリ仏典大ラーフラ教誡経(Mahārāhulovāda-sutta)に例が示されている。この中で、釈迦は息子の羅睺羅(ラーフラ)に以下のように説いている。 Mettaṃ rāhula bhāvanaṃ bhāvehi. Mettaṃ hi te rāhula bhāvanaṃ bhāvayato yo vyāpādo so pahīyissati. ラーフラよ、慈の瞑想を深めなさい。というのも、慈の瞑想を深めれば、どんな瞋恚も消えてしまうからです。
鋸喩経において釈迦は、比丘たちに対し心を乱すことないよう説いている。
抜粋[編集]
Siñca bhikkhu imaṃ nāvaṃ sittā te lahumessati Chetvā rāgaṃ dosaṃ ca tato nibbāṇamehisi. 比丘よ、この舟から水を汲み出せ。 汝が水を汲み出せば、軽やかに進むであろう。 貪欲と瞋恚とを断ったならば、汝は涅槃に達するだろう。
Natthi rāgasamo aggi
natthi dosasamo kali
Natthi khandhasamā dukkhā
katthi santiparaṃ sukhaṃ.
脚注・出典[編集]
(一)^ abcd中村元﹃ブッダの言葉﹄新潮社、2014年8月29日、Chapt.4。ISBN 978-4103363118。[要ページ番号]
(二)^ ab櫻部・上山 2006, p. 115.
(三)^ ab中村 2002, p. 96.
(四)^ abcd中村元, 仏教語大辞典, 東京書籍, ﹁瞋﹂, ISBN 9784487731527
(五)^ abc﹃例文仏教語大辞典﹄小学館、1997年、﹁瞋﹂。ISBN 4095081112。
(六)^ パーリ仏典, パーリ仏典中部73大ヴァッチャ経, Sri Lanka Tripitaka Project
(七)^ ﹁根本煩悩﹂ - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014年、Britannica Japan。
(八)^ アルボムッレ・スマナサーラ﹃原訳﹁法句経(ダンマパダ)﹂一日一話﹄佼成出版社、2003年、Kindle版, 3.6。ISBN 978-4333020447。