礼服 (宮中)
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礼服︵らいふく︶は、日本の五位以上の貴族が朝賀や即位礼において着用した正装。
唐の官人の正装である朝服︵ちょうふく︶を参考に日本の朝廷に導入された。律令制度では五位以上の官僚の服には礼服と朝服とがあり、六位以下には朝服のみがあった。
文官の礼服
礼冠︵らいかん︶
項目礼冠を参照のこと。
大袖︵おおそで︶
色彩は位階に対応する袖が大きく丈が短い上着。着物と同じように右前に身につける。皇太子は黄丹色、一位は深紫、王の二位以下五位以上、臣下の二位三位は浅紫、臣下の四位は深緋、五位は浅緋。正倉院に納められた聖武上皇・光明皇太后の礼服が白であったことから、天皇礼服も元来は白であったと考えられるが、弘仁十一年の詔で天皇と皇太子は赤に刺繍をくわえたものになる。
天皇は袞冕十二章のうち、日・月・星辰・山・龍・華虫・宗彝・火を刺繍する。後世、日・月・山・龍・虎・猿を刺繍した。これは弘仁11年に嵯峨天皇の詔で決められたものらしく︵日本紀略・小野宮年中行事︶、奈良時代には白で刺繍のないものであったらしいことが正倉院文書から推定されている︵ただし大仏開眼会での所用品︶。色は赤。皇太子も平安初期には黄丹にかわり袞冕九章の刺繍になった。
小袖︵こそで︶
色彩は大袖に対応。後世の小袖とは別物で、単に筒袖のように大袖より袖が小さくしたててあるものという意味。襟は袍・直衣のような上げ首。
武官の礼服
褶︵ひらみ︶
袴の上、小袖の下に身につける紗に襞を畳んだプリーツスカート状のもの。皇太子は深紫、親王及び諸王は深緑、臣下は深縹︵濃い青︶。ただし弘仁十一年以降は皇太子は赤であろう。礼服の記録が増加する平安後期以降皇太子の礼服着用の実例がないので詳細は不明。
袞冕十二章の藻・粉米・黼・黻を刺繍するが、後世鉞に代わる。
表袴︵うえのはかま︶
絵画ではやや細く描かれていることもあるが、記録によれば中世・近世には束帯と同じものが用いられている。
絛帯︵くみのおび︶
端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の長い帯。大袖の腰に締める。本来は太刀を帯びるのに使った平緒に類する施工であったらしいが、近世では霰地(長方形の石畳文)などの綾をたたんだ帯が普通になった。
綬︵じゅ︶
端に房がある白地に色糸で菱模様を表した平紐の短い帯。胸元に結び垂れる。
玉佩︵ぎょくはい︶
三位以上が腰につける玉で出来た飾り物。︵普通は一連絛帯から下げる。左ひざに当たる位置にする︶だが、天皇のみ二連︵左右にさげる︶。
笏︵しゃく︶
項目笏を参照のこと。礼服の場合は象牙を用いる。
襪︵しとうず︶
白地、赤地、紫地などの錦で出来た靴下。足袋と違って袋状で足先は丸い。
舄︵せき︶、沓︵くつ︶
黒革で出来た靴。つま先が山三つを連ねた形になっている。
中世以降は束帯同様の単・あこめを重ねることがあった。ただし小袖が筒袖のため、袖をほどいて撤することもあった。
唐の礼服との比較[編集]
唐では冕服・朝服︵絳紗単衣︶・袴褶︵短いうわぎに括り袴︶・常服などの複雑な服飾制度があった。日本の朝服は唐の常服に相当するものである。日本の礼服にあてはめると、天皇礼服は冕服、臣下の礼服は朝服に似るが、いずれも構成や仕様が大きく異なる。唐書などに粟田真人の装束を﹁花飾りをつけた進徳冠・紫の衣を帛の帶で縛る﹂と記すが、これが礼服に相当するようである。進徳冠に似るが花のついた冠、帛︵絹︶の帯のみで締めて革帯を用いないなどの特徴は、唐の朝服と日本の礼服の差を簡略にまとめたものであり、同時に平安時代以後の資料に記される礼服の様式が、奈良時代のそれをかなり忠実に継承することを証明している。なお進徳冠は、皇太子以下五品以上の貴臣の略装の冠として制定したものである。概要[編集]
当初は官給であったかと思われるが、奈良時代前期には自弁となった。材料を調達するにも作るのにも非常に手間のかかるものであったことから、淳和朝以降朝賀での使用は抑制されはじめた。朝賀自体が一条朝には断絶し、例年の行事には用いられなくなったが、即位の礼には孝明天皇の即位まで使われてきた︵女性貴族の礼服は後柏原天皇即位以後断絶し、十二単が使用された―ただし江戸時代の女帝は白綾無文の礼服で、仕立ては男帝に準じた︶。 平安時代後期から鎌倉時代には、天皇の所用品は内蔵寮が管理・調進し、男性貴族のものはそれぞれが調達、女性貴族のものは官より賜う例であった。天皇の礼服については、平安中期の後朱雀朝頃から即位に先立ち御前でおこなわれる﹁礼服御覧﹂で検分がなされ︵幼帝のときは摂政がおこなう︶、様式が忠実に守られたが、男性貴族の所用品は古いものを借りて使ったり、適当なものを新調したため、様式の混乱が進行した。 大袖・小袖の色は位階によったが、平安時代以降その範囲を超えるような色のものも増加した。基本的に三位以上の位色である紫が多く用いられたが、束帯の紫袍が黒に変化した影響から黒橡(くろつるばみ)も紫と並行して用いられ、平安初期に位階にかかわりなく使用された麹塵も使用された。紫のバリエーションとして紺、麹塵のバリエーションとして黄が用いられた例もあり、このほか黒黄櫨も使用された。女子の大袖は、鎌倉時代になると位階にかかわらず蘇芳色︵すおういろ︶が使用された。女子の礼服は室町中期に廃絶したらしく、近世では五衣裳唐衣のいわゆる十二単が使用された。江戸時代には男性貴族のものも内蔵寮山科家の管理のもと御所の﹁官庫﹂に用意され、貸下げが一般化し︵自前で新調してもよかった︶、定型化した。 しかし、明治維新に際し、唐風を嫌って束帯に変更した。京都御所の御文庫には後西天皇以後孝明天皇までの歴代の礼服が伝来する。︵御由緒品の御物なのであまり公開されない︶男子礼服の構成[編集]
女子礼服の構成[編集]
宝髻︵ほうけい︶ ﹃令義解﹄に﹁金玉を似て髻︵もとどり︶の緒を飾る。故に宝髻という﹂と記述がある。 次いで﹃衣服令﹄に六位以下の女官に対して﹁髢﹂を制定していることから、礼装時には髢を用いていたと考えられ 髢と金銀珠玉の髪飾りを飾ったものとみられている。 衣︵きぬ︶、大袖︵おおそで︶ 内親王・一位の女王・一位の内命婦は深紫、女王の五位以上・内命婦三位以上は浅紫、内命婦四位は深緋、内命婦は浅紫。 紕帯︵そえおび︶ 内親王・女王三位以上は蘇芳深紫、女王・内命婦四位は浅紫深緑、女王・内命婦五位は浅紫浅緑。 裙︵くん︶ 襞を畳んだロングスカート。纈︵ゆはた︶といって染め模様のあるもので、一位以上は蘇芳深浅の紫緑、それ以下は蘇芳浅紫浅深緑。 褶︵ひらみ︶ 内親王・女王は浅緑、命婦は浅縹 襪︵しとうず︶ 錦の韈︵たび︶。男子同様の錦で出来た靴下。 舄︵せき︶、沓︵くつ︶ 三位以上は緑の靴を金銀で飾る。以下は黒い靴を銀で飾る。 平安時代後期―鎌倉時代の記録によると、裳唐衣︵十二単︶の裳と唐衣を取り︵唐衣の上から大袖を着る説もある︶、袿を重ねた上に赤い大袖と青鈍の裳をつけ、髪に金の鳳凰の徴︵宝冠︶をさし、扇︵さしば︶と翳︵うちわ︶を持ち、くつをはいたという。大袖の上には背子︵からぎぬ︶の類はつけず、また領巾︵ひれ―羽衣のようなもの︶はなくて、紕帯を飾帯として締めたという。 女帝は大袖・小袖・褶ともに白綾で刺繍がない︵これは天皇の礼服が赤い十二章になった弘仁11年以降の女帝の例がないので、称徳天皇の遺品の記録が先例になったからである︶。明正天皇即位のときにこれが復興され、後桜町天皇も踏襲している。ただし男帝の礼服と違い、褶の下に纐纈裳をつけた。纐纈は絞り染めのことであるが、近世には表赤裏黄色の裳をいい、さらに女帝の礼服用のものは白無地であったから、名が体をあらわしていない。また表袴のかわりに緋の切袴をつけた(女帝は束帯を着ないから表袴がない)。後桜町天皇の礼服は御物として現存し、﹃冕服図帖﹄に詳しい図がある。 皇后は青地雉文を用いた。これは唐の﹁翟衣﹂を摂取したものである。なお、立后に使用する白綾衣は、少なくとも平安時代中期以降は礼服とは認識されていなかった。参考文献[編集]
- 武田佐知子; 津田大輔『礼服 : 天皇即位儀礼や元旦の儀の花の装い』大阪大学出版会、2016年8月。ISBN 978-4-87259-551-2。